エルサレム(読み)えるされむ(英語表記)Jerusalem

翻訳|Jerusalem

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エルサレム」の意味・わかりやすい解説

エルサレム(パレスチナ)
えるされむ
Jerusalem

西南アジアパレスチナの内陸部にある都市。旧市街の東エルサレムはヨルダンの、新市街の西エルサレムイスラエルの支配下にあったが、1967年の第三次中東戦争以後、東エルサレムもイスラエルに占領されている。1980年クネセト(イスラエル議会)は、統一エルサレムはイスラエルの首都であると決定したが、国連はその無効を決議、エルサレムにあった13の大使館はテル・アビブに移動した。2018年、アメリカのトランプ大統領は、アメリカ大使館をエルサレムに移転させた。

[高橋和夫・藤井宏志]

地誌

エルサレムはユダヤ山地の分水界上に位置し、標高約800メートル。気候は夏に乾燥し、冬には地中海式気候の影響を受けてかなりの降水をみる。人口は全エルサレムで66万2700(1995)、91万0370(2018推計)。

 東エルサレムの人口29万1378(2019推計)で、その内訳は、1993年推定でアラブ人15万5000、ユダヤ人15万とほぼ同数になり、1999年にはユダヤ人は18万になったとみられている。これは1967年以来、占領したイスラエルが市域を11倍に拡大し(大エルサレム圏)、多くのユダヤ人居住区を建設してきたからである。これに対して、パレスチナ側は東エルサレムの領有権を主張し、東エルサレムにパレスチナ国家の首都を建設するとしている。またアラブ住民の多くが、給仕、家政婦、建設労働者など西エルサレムの下層労働者階級を構成しており、東西エルサレム間に階層分化がみられる。これがアラブ側の反感をいっそう深めている。アラブ側とイスラエルとの対立は深く、中東和平交渉において、エルサレムの将来はもっとも解決困難な問題といわれる。

 東エルサレムはオスマン帝国時代の城壁に囲まれ、中世の城郭都市のおもかげを残している。1981年には「エルサレムの旧市街とその城壁群」として世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録されたが、周辺の情勢が不安定なことから、翌年の1982年には危機遺産リスト入りしている。年間110万人の観光客が訪れ、その大部分がキリスト教徒の巡礼者である。史跡、聖跡が多く、「嘆きの壁」(ユダヤ教)、聖墳墓教会キリスト教)、「岩のドーム」(イスラム教)などは有名である。西エルサレムは100年たらずの歴史しかもたない新しい都市である。イスラエルの政治、学問、芸術の中心であり、クネセト(国会)、ヘブライ大学などがある。

[高橋和夫・藤井宏志]

歴史

旧約聖書』ではイェルシャライムYerushalayim、紀元前1300年代のアマルナ文書ではウルサリムUrsalimとある。ウルサリムは「神が平安を与えるように」という意味に解されている。アラビア語ではクドゥス(聖地)とよばれている。エルサレムの地はイスラエル人(ユダヤ人、ヘブライ人)のカナーン侵入のはるか以前から存在していたことが考古学的調査から確かめられている。前3000年代の末に、イェブスという一部族がエルサレム東部に城塞(じょうさい)を築き居住していたところから、イェブスYebusとよばれ、城塞はシオン(シヨン)といわれていた。

 前1400年ごろからエジプトファラオ(王)の遠征により、エルサレムの地はエジプトの支配下に入った。前1230年ごろモーセに率いられてエジプトから脱出したイスラエル人は、まずエリコを占領し、ここを拠点としてエルサレムを占領した。ダビデがイスラエル王になったのは前1010年ごろとされている。ダビデ王に続いて、前955年ごろイスラエル王となったソロモンの時代は、古代イスラエル王国の全盛時代で、現在アクサー・モスクのある地点に壮大な宮殿を建造するとともに、かつてダビデの設けた、現在の「岩のドーム」(クッバトル・サフラ)にあるイスラエルの神の祭壇の前に神殿を造営した。そして、町の周囲に城壁を築き、増加した住民もそこに居住するようになった。前931年にイスラエル王国が北のイスラエルと南のユダの2王国に分裂すると、エルサレムはユダ王国の首都となった。前597年、新バビロニアのネブカドネザル王はエルサレムを攻撃し、王や住民をバビロンに送り(第一次バビロン捕囚)、ついで前586年ユダ王国を滅亡させて、第二次捕囚としたが、このときエルサレムは完全に破壊された。バビロンに捕囚となった人々は、前538年アケメネス朝ペルシア王キロスの許しによりエルサレムに帰り、町と神殿を再建したが、その後アレクサンドロス大王、エジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝などの支配を受けたのち、ローマのポンペイウスにより占領された(前63)。前37年にはローマからユダヤ王の称号を受けたヘロデ大王が統治し、エホバの神殿を復興した。

 イエス・キリストが処刑(紀元後30年ごろ)され、キリスト教が成立し、ローマ皇帝ティトゥスが占領した70年以後、エルサレムの繁栄は消滅したが、ローマがキリスト教国となってからは、キリスト教徒の巡礼が多くなり、コンスタンティヌス帝によりキリストの聖墓に教会堂(聖墓教会)も建てられた。614年エルサレムはササン朝ペルシアによって占領されたが、その後ローマによって奪還されたのち、637年アラブ人により占領された。アラビア語のクドゥスはこのときにつけられた名称である。ウマイヤ朝カリフのアブドゥル・マリク(在位685~705)のとき、ユダヤ人が「根の岩」すなわち世界の土台の岩とよぶ場所に、金箔(きんぱく)の屋根をもつ壮麗な「岩のドーム」を建立した。このモスクをもった場所は、イスラム教徒にとって、メッカ、メディナに次ぐ聖地となり、イスラム教徒の巡礼者も多くなった。アラブ人のエルサレム占領によって、ユダヤ人はふたたび町に姿を現すようになったが、1099年の第一次十字軍のとき、シナゴーグ(ユダヤ教の教会堂)で多く焼き殺されている。

 第一次十字軍がエルサレムをキリスト教徒の手に取り戻したとき、ヨーロッパ人によってエルサレムを中心としたエルサレム王国が建設され、トルコのアンティオキアからエデッサ、トリポリを含んだ領地をその版図とした。十字軍のうちゴドフロア・ド・ブイヨンが国王に推された。また聖墓保護者の称号を自称した。西ヨーロッパの封建制度がこの地に移され、十字軍戦士は封土を受けてその領主となった。こうした十字軍の城塞は、現在でも地中海東岸の各地にみることができる。1187年、サラディンとして有名なアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンは、イスラム教徒を率いてエルサレムを占領し、キリスト教徒との間にエルサレムをめぐる幾度かの十字軍戦争が起こった。しかし、1260年エルサレムはモンゴル軍の侵入により完全に破壊された。

 1517年からエルサレムはオスマン帝国の統治下に入り、これは1918年の第一次世界大戦の終了まで続いた。オスマン帝国の総督に統治されたエルサレムの住民は、総督の搾取のもとに経済的な苦痛を強いられた。第一次世界大戦の末期、1917年にエルサレムはイギリス軍のアレンビー卿(きょう)Edmund Henry Hynman Allenby(1861―1936)の軍隊によって占領され、それ以後イギリス軍司令部の所在地となり、また第一次世界大戦後のイギリスの委任統治下にあっては、イギリス高等弁務官の所在地となった。しかし、シオニズムの運動が盛んになるにつれ、海外のユダヤ人の移住者も増加し、ユダヤ人とアラブ人の間の対立は激化し、武力衝突を起こすまでに至った。イギリスの委任統治は1948年まで続いたが、その統治終了とイギリス軍撤退の直後、ユダヤ人はテル・アビブでイスラエル共和国の独立宣言をした。周辺のアラブ諸国はその独立を認めず、イスラエル軍との間に戦闘が開始されたが、1949年ようやく停戦となり、イスラエル共和国は事実上成立し、エルサレムもヨルダンとの間で分割され、東エルサレムはヨルダン領、西エルサレムはイスラエル領となった。アラブとイスラエルの対立はその後も続き、1967年6月の第三次中東戦争でイスラエルは、東エルサレムを含めてヨルダン川以西を占領下に置いた。その後、東エルサレムは市域を11倍に拡大され、事実上イスラエルに併合された。1980年イスラエルは、統一されたエルサレムはその全域がイスラエルの首都である、という内容の「基本法エルサレム」を制定した。エルサレムはイスラエルの「不可分の永遠の首都」であるという、イスラエルの主張を国際社会は認めていないが、東エルサレム支配を既成事実化するため、多くのユダヤ人居住区を建設したため、1999年までにユダヤ人人口がアラブ人人口を上回ったとみられる。1993年、パレスチナ解放機構(PLO)とイスラエルとの歴史的な和解(オスロ合意)によってパレスチナ暫定自治政府が成立したが、双方が首都と主張するエルサレムの帰属については未解決である。

[糸賀昌昭]

『コリン・デューブロン著、田代中徳編『世界の大都市 エルサレム』(1978・タイムライフブックス)』『村山磐著『エルサレム――風土と興亡の歴史』(1987・古今書院)』『立山良司著『エルサレム』(1993・新潮選書)』『マーティン・ギルバート著、白須英子訳『エルサレムの20世紀』(1998・草思社)』『エドワード・サイード著、四方田犬彦訳『パレスチナへ帰る』(1999・作品社)』



エルサレム(ラーゲルレーブの小説)
えるされむ
Jerusalem

スウェーデンの女流作家ラーゲルレーブの長編小説。二部作。1901~02年刊。アメリカから伝えられた宗教運動に影響され、ダーラナ地方の数家族が土地を売り払ってエルサレムに移住する、という実話をもとにした農民小説。作者自身もパレスチナ旅行のおり、この移住地を訪れている。第1部「ダーラナにて」は旧家イングマルソン一族の系譜を、第2部「聖地にて」は先祖伝来の土地への愛着と信仰の葛藤(かっとう)を扱い、超自然的なできごとや作者の神秘主義的傾向を盛り込む。技巧に走らず、サガ(古アイスランド語による散文の一形式)を思わせる簡潔で抑制のきいた文体で書かれたこの作品は、執筆中の作者の危惧(きぐ)にもかかわらず、ことに第1部は高く評価されている。

[田中三千夫]

『石賀修訳『エルサレム』全2冊(岩波文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エルサレム」の意味・わかりやすい解説

エルサレム
Jerusalem

パレスチナの中心都市。イスラエルの首都と主張され,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教それぞれの聖地。ヘブライ語ではイェルシャライム Yerushalayim。エルサレムは紀元前 4000年頃に築かれたといわれるが,前 1000年頃ダビデ王により古代ユダヤ王国の聖都とされ,その後イエスの処刑と復活の地としてキリスト教の聖地となった。 638年にはアラブの支配下に入り,メッカ,メジナに次ぐイスラム教の第3の聖地となり,16世紀以降はオスマン帝国の支配のもと,城壁で囲まれた旧市内に集中する3宗教の聖地が保護され,宗教的共存の時代が続いた。東半の旧市街は 1948年から 1967年までヨルダンに属していたが,六日戦争 (第3次中東戦争 ) 後の 1967年6月にイスラエルが占領,統一都市として管轄権を主張したが,ヨルダン,国際連合のいずれもがこれを承認していない (→エルサレム問題 ) 。標高 800mのユダ山地上にあり,地中海性気候のため夏は暑く乾燥するが,冬は雨が多い。城壁に囲まれた旧市街には宗教史上の遺跡がきわめて多く,1981年ヨルダンの推薦で世界遺産の文化遺産に登録。新市街は 20世紀になって開けた近代都市で,官庁,ヘブライ大学などの文化機関が多く,伝統的な旧市街と対照をなす。人口 78万8100(2011)。

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