( ①について ) 漢籍例はないが、日本では平安時代からすでに見える。しかし、中世の節用集には、「裁判」のほかに、「宰判」の表記も多く見られる。江戸時代中期の「志不可起」に「さいばん さいばい 物を取計(とりはからひ)よく それそれにわけをたつるを云 宰判(さいはん)宰配(さいばい)なるべし」とあるところから、「裁判」と「宰判」とは同義で、この時期表記が揺れていたと思われる。
広い意味では,二当事者間に対立のある争点について,第三者が判断を示すことによってその争点に最終的な結着を与えること,その過程またはその判断を裁判という。その判断が最終的なものとして通用するためには,当該社会集団でそのような権威を持つものとして公認された機関ないし手続によってなされたものであることが必要である。家庭における子供どうしの争いに対する親の裁きや,中世ヨーロッパの宮廷における恋愛評定も,またかつての日本の若衆組の裁判もそれぞれの社会集団における,広い意味の裁判にあたる。
より狭い意味では,〈法的〉な争点に対して第三者が上記のような判断を下すことを裁判という。法的争点とは,法的規範に違反する行為もしくは事態の有無または法規範の解釈適用をめぐる争点であり,法規範とは,個々の成員がそのつど同意していなくとも当該社会全体に対して拘束力を有すると認められている規範である。法規範は,私人間の利害をめぐる争い(民事),またはある人の特定の行為を逸脱行為として社会の名において非難し罰を加えることの可否をめぐる争い(刑事)を安定的に処理するための究極のよりどころとして機能するのであり,そのような争いにおいて当事者が自己の主張の根拠として法規範を援用することによって法的争点が形成され,争いは法的争いとなる。特定の事件で争われる法的争点に対して裁判によって与えられた結論は,法的に最終的な決定として扱われ,その結果,必要な場合にはそれは権力装置を用いて強制的に実現することが許され(強制可能性),またその結論をくつがえしたり,その争点をむし返したりできないものとして扱われる(確定性)。逆にいえば,裁判は法の運用に不可欠の要素であり,その意味で裁判は司法とも呼ばれる。
ところで,一般に特定の事件の法的争点に結着を与えることは,第三者によって示された判断がそのまま当事者を拘束するものとして扱われるという,裁判に典型的な方式(裁定)によるほかに,次の方式によってもなされうる。すなわち,両当事者がある解決案(たとえば,一方が責任を認めてある額の賠償金を支払うといった)に同意し,この同意が以後当事者を拘束する最終的な決定として扱われるという方式(和解)である。そして,この和解が第三者の関与の下に行われ,かつ第三者が自己の判断を当事者に示し,または同意を促すという場合がある。このような場合に,和解を目ざした第三者の活動は調停と呼ばれるが,これは,第三者の法的判断が多少とも権威をもって当事者に示される限りにおいて,裁判に準ずるものといってよい。その意味で,日本で民事調停手続がしばしば〈調停裁判〉と俗称されるのは必ずしも的外れとはいえない。以下ではこのような準裁判を含めて,法的争いに対する裁判(すなわち司法)について述べる。
裁判は,相争う二つの主張(およびその背後にある利益)に対して最終的な判定を下し,どちらか一方を法の下で完全に正当なものとして公認し,他方に許されざるものという永久の刻印を押す。誤判の発見や死刑の判決に際してとくにあらわになるこのドラスティックな性格は,裁判に大きな情動喚起性を与える。裁判をとりまく荘厳性,儀式性,象徴性はこの情動を吸収し,昇華させ,しずめる機能によって説明しうるであろう。裁判が古来,伝承や文学に多くの題材を提供してきたことはゆえなしとしない。近年の日本においても,法の社会生活における役割の増大とともに,裁判はマス・メディアの重要な報道主題になりつつある。
裁判は,承認され,貫徹されるべき社会的価値や利益の選択という機能を通じて,支配の手段として枢要の地位を占めるのであり,近代になって裁判の権能が一元的な国家機構に独占されるまでは,裁判を正当に行う承認された資格(裁判権)が社会のどの構成単位にどの程度与えられているかは,その社会の政治社会構造の特質を示す重要な徴表であった。近代において,先進列強の帝国主義的進出に際して領事裁判権の問題が大きな政治的争点となったのも同じ理由による。他方,社会の一般構成員にとって裁判は重大な関心事であるので,政治権力が一般被支配者に,裁判をとおして自己の正当な利益の実現を図る権利や機会をどの程度認めるかということも,その支配体制の根本的性格を規定する特徴となる。一般に,西洋では伝統的に,慣習,契約,法令等の法的根拠に基づく利益主張を,一般人民が支配者の前で公然と行うことは当然とされ,支配者が公正な裁判によってそれを保護することは,支配体制の正当性を支える基本的な要請とされてきたのに対して,東洋では,革命前の中国や幕藩体制下の日本にも見られるように,〈権利〉の観念が否定され,人民の間の争いや裁判への訴えを極力抑え,裁判も明確な法的規準に従った厳然たる裁定よりも実質的観点(後述)から当事者間の和解を半ば強制する,調停的色彩の濃いものとなるところに支配体制の特徴があった。
殺傷とか,姦通とか,取引による債務の不履行とかの,社会生活上絶えず発生する問題から生ずる法的争いは,原始時代以来さまざまの形で処理されてきた。
→紛争
一般に,原始社会においては,異なった集団(とくに氏族)の成員間の争いが集団間の争いへと,さらに血の復讐へと拡大しがちであったが,それが両集団の合意する仲裁者による裁定によって終結をみることがあった。当初は,法的拘束力を有するその結果を必要な場合に実力で実現することは,当該社会の暗黙の承認により各当事者ないしその集団にゆだねられていた。そのような集団間の争い処理の機構は,現代のある種の未開社会にも見られるように,両集団の法的経験に富んだ長老や名望家の主導による,調停の色彩を強く帯びた形をとることもあったと考えられる。そこからやがて恒常的な裁判の機構が生ずるに至り,それがさらに組織的な国家権力による支持をうるに至ったと考えられている。
→復讐
いずれにせよ初期にあっては,裁判における法的判断の形成は神的ないし呪術的色彩の濃いものであった。すなわち,人間の判断力の及びえない点(明らかな証拠がない場合はもちろん,法規範の創造や解釈も人為ではなしえないものと考えられていた)については,卜筮(ぼくぜい),神託,決闘,宣誓など一般に神判と呼ばれる方法で決せられた。前2者は神意を直接に問うものである(西洋における神託裁判の一例がシェークスピア《冬物語》第三幕第二場に見られる)が,当事者どうしまたは代用戦士の決闘(その一例が,シェークスピア《リチャード二世》第一幕第三場に見られる)においても勝敗は神の裁きの現れと考えられていたし,宣誓も偽証者には天罰が下ると信じられていた(《日本書紀》巻十,巻十三などに見える盟神探湯(くかたち)はその例である)。古代メソポタミアでは,裁判官が王の名において下した判決は神聖な力を持ち,それに対する不服従はそれ自体が天罰を招くとされた。一般に,このような神意裁判は,儀礼的手続によって神を呼び出すという観念に基づいていたため,当事者が定まった文言を誤りなく述べなければ敗訴とされる(そのため代弁人が用いられたことが,弁護士の一つの起源とされる)というように,厳格な形式主義に支配されることが多かった。
神意によって法的判断に到達する上述のような超自然的な方法を,M.ウェーバーは形式的で非合理的法思考と呼んだ。それは,事件の内容に対して直接に人間の判断力を働かせるのではなく,それとは別のなんらかの定まった型が現れるか否かによって結論が決せられるという意味で形式的であり,また判決が人知の及ばないしかたで下されているので,その内容が事件の内容に即さず,一般的な原理によって説明しえないものであるという意味で非合理的である。ただ,この法思考における形式性の面は,法的判断に,政治的権力者も黙従せざるをえない絶対的な権威を与える点で,後の発展にとって重要な意義を持っていた。
裁判が超自然的な力から解放された後も,法思考はさまざまの形をとりえた。人間の裁判官が,なんらの定まった枠にも縛られずに,事件に関連するあらゆる事実を直接考慮し,かつ各事件をその事件限りの個別的正義の観点から裁く場合には,実質的で非合理的裁判となる。この場合にも,判断の内容を他の類似の事件にも当てはまる一般的な原理によって理解することができないが,それだけでなく,判断の規準が裁判を受ける側にもあらかじめ知られるように客観的に明らかにされているということがないため,当事者は正しい判断を求めるためのよりどころとして用いうるものがなく,裁判官の賢察,慈悲,恩情にまったく依存することになる。ソクラテスを裁いた古代アテナイの民会の裁判はこの種の裁判の一例であり,また〈大岡裁き〉もこの型に属する。
それに対して,厳格に定義されたことばによって正確に表現された一連の一般的規範を判断規準とすることが要請されており,それらの規範を,(それらの規範および事案の)一般に了解されている意味に即して事案に適用することによって法的判断を形成するべきものとされている場合には,法的判断は,事案が法規範という枠に適合しているか否かの形式的判断によって形成されることになり,同時にその枠およびその適用が意味的に事件の内容に即したものとなるため,形式的で合理的な裁判と呼ばれる。
この型の裁判は,西欧に特有のものとされており,古代ローマ法や13世紀以降の先例を中心とするイギリスのコモン・ローにおいて高度に発展したが,とくに19世紀後半以降の法典を中心とするドイツ法においてさらに高度の展開をとげた。そこでは,あらゆる法規範が,その論理的意味解明をとおして相互に演繹・帰納の関係で結合された矛盾のない階統的な体系へと整序されており,社会で発生するあらゆる法的争点に対して既存の法規範体系からの論理的操作によって解答を与えうるとされた。
今日では,この仮定は額面どおりに妥当するものではなく,法規範の適用に裁判官の実質的観点からする判断が働く余地が相当あること,既存の法規範体系の中では予定されていなかった争点が発生しうること,その場合には裁判をとおして新たな法規範が創造されざるをえないことなどが明らかにされている。それにもかかわらず,この型の裁判においては,判断の規準とされる規範が客観的な形で存在すること,および判決にはそれに基づいた理由が付されることが要請されているため,それらを足がかりとした判決の事後的吟味が可能であり,討議をとおしてより公正・適切な判断を追求することが可能である。一般に,この型の法思考は,政治的権力の恣意的介入を排する法の自律性を高度に保障すると同時に,法的判断の予測可能性と自覚的制御可能性とをもたらしうるため,多様性と流動性に富んだ近代社会の秩序の運営に最も適合した法思考と考えられている。
最後に,同じく一般的な規準の一貫した適用による法的判断形成を目ざしてはいるが,その規準が宗教的教理,倫理的信条,政治的イデオロギーなど,形式的確定性を持たないものである場合には,裁判は実質的で合理的となる。ここでは,判断の規準は,一定の手続によって成立しまたは一定の基準に従って認定され,かつ一定の文言で表現されている限定的で客観的存在としての規範ではなく,さまざまの態様で存在し表現されうる思想体系である。改革ないし革命の熱情に支えられて,むしろ,既存のあらゆる形式的拘束を打破して直接的に,理想とされた所期の結果を達成することが目標とされる場合に,この型の法思考が登場する。しかし,この場合も当該の規準の一貫した公正な適用を保障する客観的な足がかりがなく,もっぱら,価値観を共有する人々の積極的な関与に依存するため,やがてその判断規準が形式的なものへと翻訳されるのでない限り,不安定化は避けられない。
今日の日本では,他の資本主義諸国におけると同じく,西欧近代型の裁判理念に基づく国家的裁判制度が採られている。日本国憲法の下で,国会議員の資格に関する両議院議員による裁判および裁判官の罷免に関する国会の弾劾裁判所による裁判を除き,司法権はすべて正規の裁判所に帰属するとされる。したがって,かつての軍法会議のように,国民の特定の一部や特定の事件を特別の機関が裁くということは認められない。すべての国民には,国家とその機関に対する苦情を含めて,すべての法的争訟を正規の裁判所に訴え,原則として公開の裁判を受ける権利が保障され(〈裁判を受ける権利〉〈訴訟〉の項参照),高度の専門的訓練を受けた弁護士の助力を受けることができる(刑事事件では被告人は国費で弁護士を依頼する権利をも与えられている。国選弁護)。裁判官は,同じく高度の専門的訓練を受け,身分を保障されて,独立して自己の良心および憲法以下の法令にのみ従って,裁判を行うものとされる(司法権の独立)。裁判所はまた,法律,命令,規則,処分など,いっさいの政府の行為が憲法上認められた諸原則に合致するか否かの判定を下す権限(法令審査権。〈違憲立法審査制度〉の項参照)を持っている。
日本の法体系は,基本的に制定法典を中心とする大陸法系に属するが,法令審査権の制度にも見られるように,裁判所の積極的役割を重視する英米法的な要素も相当採り入れられている。法令の解釈における創造的活動の余地は公認され,判例の事実上の法源としての重要性も認められている。また,第2次大戦後強化された,訴訟手続における当事者対立主義の原則は,事案の解明と法的判断の形成とに当事者自身の見解が(弁護士の助力をとおして)最大限に平等かつ効果的に反映されることを保障し,それによって実情に即した公正適切な結論に達することを可能にするものである。ただ,陪審制や参審制は採用されていず,一般民衆の,裁く立場での裁判参加は,刑事における検察審査会および民事における調停委員(調停)の制度に限られている。他方,この調停が民事および家事事件処理のための裁判所の公式の手続として組み込まれていることは,日本の裁判制度の大きな特徴である。
これらの制度の実際の運用という面では,日本の裁判は,かなり顕著な特徴を持っていることが指摘されている。たとえば,裁判官が,弁護士として社会のさまざまの実態に直接ふれる経験を積んだ老練な法律家から選ばれるのではなく,法律家としての出発点から裁判官になり,裁判所の階統組織の中で順次昇進してゆくいわゆる官僚制的裁判官であることは,優秀で政治的に中立な裁判官を全国にくまなく配置しうるという長所を持つ反面,裁判が世情への理解と創造性とに富んだ,訴訟当事者の心服を得やすいものとはなりにくい,という欠点を持っている。裁判官の廉潔性は,先進諸国の間でも例を見ないほどとされているが,近年そのイメージをそこなう事例が増えている。他方,訴訟当事者の法廷外での助言者または法廷での代理人として裁判の運営の重要な一翼を担う弁護士は,数が他の先進諸国に比して著しく少なく,その養成制度の歴史的な遅れもあって,裁判は当事者主導よりは裁判官主導に傾きがちである。弁護士による代理を受けない,いわゆる〈本人訴訟〉の当事者が多いこともこの傾向を強めている。法的判断において個々のケースにおける実質的正義の観点からする利益衡量が重視され,法規範の融通性ある適用が尊重されることも特色とされる。民事裁判においては,裁判官の積極的な働きかけの下に和解で事件が処理される率が高く,刑事裁判では,検察の周到な準備と起訴事件選択とによってきわめて高い有罪率が維持されている(〈起訴〉の項参照)。法廷審理が月に1度といったゆっくりしたペースで進められ,上訴制限のゆるやかなこととともに,訴訟遅延を悪化させる一因となっている。そして,何よりも訴訟の件数,すなわち国民が裁判を利用する頻度が他の先進諸国と比べて著しく低い。このことは,それ以外のきわめて大量の事件が法の統制の及ばないところで処理されていることを,したがって法の保護がそれだけ国民の間に十分及んでいないことを,意味する。
日本の裁判の運用にみられるこのような特徴は,人民の裁判請求の抑圧,一般的規範によるよりも個別的調整による問題解決への性向,〈権利〉の観念の未成熟(〈権利意識〉の項参照)といった政治的・文化的伝統を背景とする国民性に由来するところが少なくない。しかし同時に,その背景には,西欧近代型の裁判制度に通有の問題点,および現代社会に共通の諸条件からくる困難も横たわっていることを見のがしてはならない。近代の裁判制度は,さきにふれた本質的な利点の反面として,形式性,手続の複雑性,専門性のゆえに一般人にわかりにくく親しみにくいうえ,結果に至るまでに多くの費用と時間を要する,という難点を持っている。それは高度の専門的訓練を経た人員を要するために,裁判所の事件処理容量はおのずから限られたものとならざるをえない。とくに,当事者の提起によってはじめて始動される民事裁判にあっては,一般人による裁判の利用が,当人の意識によってのみならず,社会構造上および制度上のさまざまの因子によっても妨げられやすい。そのうえ現代においては,大衆化と福祉国家化の進展とともに裁判の実際上の対象者層が急激に拡大したこと,工業化・都市化に伴って社会の中で争いが発生する機会も著しく増大したこと,なかでも社会的・政治的な構造自体に由来し,政策形成的裁判を要求するような大規模な紛争(たとえば公害事件)が続発することなどにより,裁判所にはますます過重な負担がかけられることになる。それゆえ,裁判制度を有効・適正に運用しうるためには,高度の裁判手続に適したケースを的確により分けると同時に,大量の類型的なケースや少額で大きなコストでは引き合わないケース等を,より簡易・迅速に,しかも法的正義に合致したしかたで解決しうるようにすることが要請される。そのためには,弁護士などによる法律助言サービスを充実させ,廉価化するとともに,諸種の代替紛争処理手続を整備することが必要である。さらに,正規の裁判手続の利用可能性を高めるため(とくに民事の),法律扶助制度の拡充とか訴訟手続の改善とかの配慮をすることによって(上記の代替手続で満足のゆく解決がえられない場合を含めて),当人が必要とし欲する場合はいつでもだれでも正規の裁判が利用できる状態にすることが要請される。これらは,欧米でも近年焦眉の問題として取り組まれている課題であるが,このような司法政策上の手当ての面で,日本が一段と劣っていることは否定できない事実である。
→司法 →民事訴訟 →刑事訴訟
執筆者:六本 佳平
大化前代は氏を基盤とする社会であり,氏の首長が各氏内部においてある程度の裁判権や制裁権を有していたが,大和朝廷によって国家統一がなされていくと,それらはしだいに天皇の裁判権に吸収される傾向にあった。当時は神法の重んじられた時代であったから,裁判にも盟神探湯(くかたち)のごとき神判が用いられたが,《日本書紀》の允恭紀や《隋書》倭国伝によると,それは氏姓の訴訟に適用され,また拷問と併用されたようであるから,すべての訴訟が神判によって決せられたのではなく,証拠不明の事案に限って神判が用いられ,通常の裁判は証拠法によったものと思われる。
奈良,平安時代の中期までは唐制の影響をうけた律令による裁判制度が行われた。この制度は臨時訴訟手続と定期訴訟手続とに分けうる。前者は人身の侵害等,今日の刑事訴訟に相当し,時期にかかわらず出訴を許し,後者は財物や身分の帰属等,今日の民事訴訟に相当し,10月1日から翌3月30日までの農閑期に限って出訴を許した。臨時の訴訟は原則として弾劾主義をとり,三審を伴う告言(告訴・告発)により開始され,官司は逮捕・拘禁された被告人を訊問し,その言辞・顔色等を観察し,人的・物的証拠を調べ,拷問も行い得た。事実の認定が終わると法を適用して判決文を作成するが,それには律令の正文を引くことを要した。事案はまず下級官庁で審理され,その決定権は事の重要度に応じてさらに上級官庁に留保され,いくつかの審級を重ねる。例えば郡司,国司,太政官,天皇のごときである。また下級官庁の判決に不服な者は,上級官庁の再審を求め得た。定期の訴訟手続も臨時の場合とほとんど同じであるが,官司は被告を2度の期限(3日と20日)に限って召喚し,両期限が過ぎても出頭しない場合は,欠席判決を下しうることになっていた。平安中期以降,検非違使庁(けびいしちよう)が司法権をほとんど一手に掌握するに及び,従来の律令訴訟手続の能率化,簡素化が図られたが,一方その審理は職権主義的となり,武断的傾向が強くなった。
執筆者:小林 宏
中世を12世紀末から16世紀末とすると,この時代には複数の法の主体,法圏が重層複合しているから,裁判についてもその主体と機関,相互の管轄関係をみたうえで,中世的な特質をみる必要がある。
(1)裁判の主体と機関 中世でも裁判権は観念的には天皇の大権事項に属するが,具体的には朝廷内の諸機関が行使する。記録所,院の文殿(ふどの),検非違使庁があり,天皇親政期には記録所,院政期には文殿が活動し,後嵯峨院政以降,院の評定衆(ひようじようしゆう),記録所寄人(よりうど)が活動する。使庁は京都市中の治安維持と行政に当たり,屋地の裁判権を持つが,14世紀末には朝廷の裁判権は室町幕府に吸収される。鎌倉幕府は諸国守護を任とする軍事権門として成立するが,承久の乱以降,天皇統治権の相当部分を握り,政所(まんどころ),問注所,侍所で,鎌倉市中の庶政,雑務沙汰,検断沙汰を管掌する。守護は大犯三箇条(だいぼんさんかじよう)(謀叛,殺害,山賊,海賊,夜討,強盗)の検断権を有し,地頭も軽罪の検断権を行使する。所務沙汰は初め評定,ついで引付方→評定の二段階審理を行う。室町幕府は引付・内談で所務沙汰を,問注所・政所で雑務沙汰を行い,侍所は検断沙汰を行うほか,14世紀末以降もっぱら京都市中行政機関となる。洛中屋地は地方奉行(じかたぶぎよう)が管掌する時期がある。引付・内談は形骸化し,15世紀以降は将軍親裁の御前沙汰を右筆方(ゆうひつかた)という奉行人集団の審理(意見という)で支えることになる。守護は分国領主化して守護大名となり,15世紀以降は明示の授権にはよらずに管国内の裁判権を握る。地頭の系譜を引く者を含め,国人と呼ばれる地域領主も,一面幕府・守護大名の裁判権に服しながら,所領内住民に対しては裁判権を行使した。守護大名・国人のそれを統合継承して戦国大名の強力な裁判権が成立し江戸時代の大名裁判権に継承される。公家寺社等の本所(荘園領主)も所領内住民に対しこれを有し,家政機関としての政所,公文所(くもんじよ)や寺社内の諸機関,諸集会等がこれに当たるが,本所により実体は異なる。14世紀ごろから惣などと呼ばれる村も村落構成員の自治的運営によって裁判を行い,自検断を行使した。
(2)裁判の主体と管轄 主体相互間としては,一般的には西国は朝廷,東国は鎌倉幕府が管轄し,とくに西国堺相論-複数本所間の係争は朝廷の裁判権に属する。幕府内では西国は六波羅探題,末期の九州は鎮西探題が受け持ち,14世紀末,室町幕府が朝廷の公権を吸収することによって,寺社本所一円領としてとくに本所の所領支配が固着したものを除き,幕府の裁判権が全国に及ぶ。もっとも坂東八ヵ国は鎌倉公方が管掌する。刑事裁判権は鎌倉幕府が朝廷の授権によって行使し,大犯三箇条の重罪犯罪については,守護は本所領に入部しまたは犯人引渡しを要求できる。幕府と守護・地頭・国人間の管轄は分明でない。鎌倉幕府下では一般住民は地頭を相手として幕府に提訴することもできたし(雑人訴訟(ぞうにんそしよう)),14世紀ごろの国人は一揆契状(いつきけいじよう)を作成し,領主連合を組んで幕府に対抗し,住民支配を貫徹する場合がある。ただし,中世を通じて裁判管轄は訴訟当事者の少なくも一方と訴訟対象物とが裁判主体の進止(しんし)下になくては成立しない。鎌倉幕府が14世紀初頭に,従来の御家人身分を中心とした管轄原理から所務・雑務・検断という訴訟対象を中心とした管轄原理に転換したのは,武家が朝廷・本所の裁判権を吸収する時代の趨勢を反映したものである。
(3)裁判規範 中世は一般に慣習法の支配する時代との理解もあり,それは一面の真実ではあるが,成文の規範はより重要である。朝廷は新制を数度発布するがとくに建久新制が重要であり,暦応年間(1338-42)には雑訴法という手続法も制定しているが,《法曹至要抄(ほつそうしようしよう)》等にみられる律令の解釈運用を主とした。鎌倉幕府は《御成敗式目》を発布し,以後の単行法令は追加(追加法)と呼び,室町幕府も追加の形をとった。守護地頭級では宇都宮氏の弘安式条(《宇都宮家式条》),宗像氏の事書条々(《宗像氏事書》)のほか個別的な領主の置文(おきぶみ)も法の性格を有する。これらは戦国大名の分国法に連なるが,伊達氏の《塵芥集》,武田氏の《甲州法度之次第》,六角氏の義治式目(《六角氏式目》)などがある。戦国大名にはまとまった法度を発布しないものも多い。惣や村も惣掟などの規範を持ち,一揆契状もその一形態である。これらは秘密法ではないが,《御成敗式目》を例外として,公布を予定したとも言いがたい。
(4)中世裁判の特徴 朝廷の法圏では律令の形骸化に伴い,折中の法という妥協主義が現れる。守護大名,戦国大名,国人の裁判のなかには〈調停〉の意味が濃い場合があり,近所之儀などと称される紛争解決原理となっている。重要なことは,中世では訴えが提起されたとき,裁判権者がその訴えに理ありと認めればただちに判決する手続(入門(いりかど)という)があり,訴状の右余白に承認文言を記す(外題(げだい))ような解決法があり,被告がこれに承服しないとき初めて理非の審理に入る方向が生ずる。鎌倉幕府下で緻密詳細な訴訟=裁判の手続法が展開するのは,中世の裁判の一側面なのであり,すべてをおおうものではない。しかし,理非の審理に入った場合は,以後の手続は徹底した当事者追行主義であって,殺害の訴え(刑事裁判)でも,それが裁判として争われる限りは例外ではない。実は中世社会の紛争解決手段は,私戦すなわち自力救済を有力な手段として有しており,これが裁判の形をとった場合に当事者主義が厳格に守られるのは当然である。そして私戦か訴訟かの選択は当事者の判断にゆだねられていたし,訴訟=裁判となっても訴陳状や裁許状のような訴訟資料の作成されない,したがって今日に資料の伝存しない,多様なケースが存在したものと思われる。
執筆者:羽下 徳彦
(1)機構の整備 江戸幕府は1697年(元禄10)の自分仕置令により,大名旗本等封建領主の裁判権について,原則として〈一領一家中〉,すなわち自己の領知の人別(にんべつ)をもつ庶民,および封建家臣団だけに及ぶものとし,これを超える事件は幕府が裁判することとした。幕府の裁判所としては評定所(ひようじようしよ)を最高とし,中央・地方の各奉行所,全国に散在する代官陣屋があり,藩等もほぼこれに準じたから,必ずしも少ないとはいえない。法廷は座敷,縁,庭から成るいわゆる白洲(しらす)が定式化したが,身分による座席の高低を構造の主眼としている。一般に行政官は同時に裁判官であったが,裁判に専当する役人層も成長した。勘定奉行所系の評定所留役がその中核で,寺社奉行所にも出向して吟味役調役となったが,町奉行所では吟味方与力がこれを担った。評定所一座は評定所留役によって助けられていた。地方でも遠国奉行,郡代代官配下の与力同心,手付手代がその任を果たした。これら法曹吏員の最高の地位が1名の評定所留役勘定組頭であるが職制上その地位は比較的低かった。奉行代官は裁判の責任者として,その始終を承認するだけで,法廷には原則として冒頭手続,自白調書の確定,判決申渡に出席した。裁判は判例法主義で法曹吏員はこれに固執し,将軍,老中,奉行等が政務の立場からこれを動かすことはほとんどなかったから,ある程度の司法の安定が見られた。警察権は究極的には軍事力で補完されるが,江戸では与力同心が主力で,各地にも手付手代等がその職に当たったが,一般に弱体で,江戸では私人たる目明しを利用した。
幕府は刑事,民事の裁判ともに尊重し,とくに民事を軽視したことはない。ただ民事事件の一部にはあまりにも訴訟数が多く,その対策として出訴を制限することはあった。庶民は訴訟について必ずしも積極性を欠いたわけではない。とくに身分,家格,席順,土地の境界(境相論(さかいそうろん)),用水(水論)等の争いについては強硬にその主張を貫こうとした。裁判所の待合所である腰掛(腰掛茶屋)はおおむね繁忙であり,1774年(安永3)江戸には弁護士に類する公事宿(くじやど)が198軒もあった。もっとも公事宿は訴訟代理権を欠く訴訟補佐人にすぎず,庶民はその策略的技術を嫌って,内心は尊敬していなかった。
(2)裁判手続の種類 幕府の裁判は手続上吟味筋と出入(でいり)筋に分かれ,その対象を吟味物と出入物もしくは公事と称した。吟味筋は職権主義的な糾問手続で,原告たる検察官はなく,〈御用〉として刑罰権の実現を目的とする刑事裁判と見てよい。出入筋は当事者主義を基礎とする民事裁判であるが,軽い刑罰を科したり,審理中刑事的強制を加えることもあり,刑事裁判的要素も含んでいる。吟味筋と出入筋は訴える私人にとっては選択的で,相手の処刑か争いの解決かのいずれかを求めた。官憲にとってはいつでも出入筋を吟味筋に変更できるが,吟味筋を出入筋に改めることは逆罪,盗,殺人,賭博等の罪や幕府に関する事件については不可能であった。これは私人による和解や吟味願下げを禁ずる趣旨である。
(3)吟味筋 大名旗本等は他領他支配に犯人,犯罪地等が関連(引合(ひきあい))する場合は一件を幕府に移送しなければならない。吟味筋は大別して犯罪事実の認定と刑罰の決定の2段階になる。犯罪事実の認定は自白の追及に終始し,法的規制ははなはだ弱い。有罪判決には自白が必要かつ十分であり,証人,物的証拠等で犯罪が認定できても,これを本人に認めさせるために拷問を科した。裏づけ捜査は必ずしも要求されなかったから,一部自白,虚偽自白で事件を終結させることもあった。自白が最終的に調書に整えられると関係者一同を法廷に集め,奉行臨席のもと吏員がこれを読み上げて本人に押印または爪印(つめいん)を求めた。これを口書読聞(くちがきよみきけ)といい,得られた調書を〈吟味詰り之口書〉と呼ぶ。これによって犯罪事実は確定され,直接口頭の審理は終了し,以後はこの調書をもとに書面審理で刑罰を決定した。奉行代官等は専決できる刑罰の範囲が定まっており(手限(てぎり)),これを超える事件や,決しがたい事件は支配系統に従って上司に御仕置伺を出す。伺は究極的には老中の裁断となり,老中が指令(指図)を下したが,これを実際に取り扱うのは仕置掛奥右筆(おくゆうひつ)であった。さらに老中は必要な場合には評定所一座に諮問して参考意見を求める等,刑罰決定の手続は重要な施政として慎重をきわめた。老中の指令により原則として奉行が判決を告知し一件落着となるが,上訴の制度はなく,ただちに刑罰の執行に移った。判決の修正は赦(しや)の制度によるほかはなかった。
(4)出入筋 私人より役所に対する申告を一様に訴(そ),訴訟と呼び,裁判のための出訴も請願,陳情,願,届等もこれに含まれた。子が親を,従者が主人を訴えることは原則として禁止された。出入筋には,その対象により本公事(ほんくじ),金公事(かねくじ)の別があり,ほかに仲間事(なかまごと)と称する一種の請求がある。金公事は利息付無担保の金銭債権の争いで,本公事はその他の身分,地所,用水,家督,質地,家質(かじち),為替,小作人,奉公人,借地借家,村法違反等で,金公事が当事者間の給付の問題であるのに対し,人および物に対する秩序の形成,確認を伴い,官憲が介入する必要度が高い。仲間事は数人の共同事業における損益勘定,無尽金,芝居木戸銭,遊女揚代金に関する争いをいう。金公事はその出訴がはなはだ多いので事務制限の必要があり,官憲の介入を必要としない当事者間の問題として相対済令(あいたいすましれい),棄捐令(きえんれい)等によって出訴を阻止しようとし,また受理した場合も債権者に不利な取扱いをした。仲間事は当事者間の問題として〈取上なし〉とされ,官憲はまったく介入しなかった。もっとも大坂では金公事も江戸ほどは冷遇されず,その法制は天保改革に当たって江戸に導入されたから本公事,金公事の別は解消する動きがきざしていた。出入筋は原告(訴人)が他領他支配の者を被告(相手方)とする場合は原則として江戸の評定所に出訴しなければならない(支配違え懸る出入)。訴状(目安)には名主の印を要し,また支配違の場合は大名領については添使(そえづかい),旗本領については添簡(そえぶみ)が必要で,江戸において留守居(るすい)等の役人が付き添って裁判所に出頭した。訴状はまず法曹役人が書式,請求の実態を慎重に検討して修正を命じ,あるいは不受理とする(〈目安糺(ただし)〉)。修正された訴状が提出されると奉行はこれに裏書,押印するが,これが被告への指定期日(差日(さしび))の召喚状となる。原告はこの訴状を箱に入れてみずから頸にかけて持参し,被告に町村役人立会いで手交した。被告は訴状に対する異議を書面(返答書)で奉行所に出し,双方指定日に出廷して奉行臨席のもとで対決が開始された。あとは下役の審理となるが,調書(口書(くちがき))に録取され,これによって奉行が裁許として申し渡した。地境論の場合は絵図を作成し,これに墨線で裁許の境を示し,判決はその裏に記した(裁許絵図裏書)。双方は連印して裁許請証文を出し,原告は訴状と返答書を下付され,これを継ぎ合わせて裏書の奉行印を抹消してもらい(消印),書類を奉行所に納めて訴訟を終わった。以上の判決手続のほか裁判所法廷内外の和解(内済(ないさい))を強く奨励し,用水論では現地で内済することを原則とし訴えは取り上げない方針であった(場所熟談物)。強制執行に当たるものに身代限があり,破産に類似するものに分散があっていずれも活用された。
以上は庶民についての一般的な制度,慣習であり,武士や僧侶神職等については特則が見られた。近世において固有法上の裁判法はほぼ完成し,刑事民事ともその影響が現在にも及んでいる。
執筆者:平松 義郎
明治になった当初は行政権と司法権は混交状態にあったが,1871年(明治4)に司法省が設けられ,72年に江藤新平が司法卿となって以来,両者の分離が進められた。当時は民事裁判を聴訟,刑事裁判を断獄といった。刑事裁判に関しては,フランス法に範をとった治罪法が1870年に公布され(1872施行),90年にはこれを改正した(旧々)刑事訴訟法が公布された。さらに1924年にはドイツ法に範をとった(旧)刑事訴訟法が公布された。これらの大陸法系の職権主義的伝統に対して,第2次大戦後の48年には,英米法系の当事者主義的要素をも大幅にとりいれた刑事訴訟法が公布された。民事裁判については,最初の(旧)民事訴訟法典が公布されたのが1890年であり(施行は1891年),これはフランス法に範をとったものであった。それ以前は江戸時代以来の慣習法とそれを改訂する個別の法令によって規制されていたわけであるが,東京裁判所支庁管轄区分並取扱仮規則等に基づき,裁判所は両当事者に対して和解を勧めることが多かった(〈勧解〉といった)。(旧)民事訴訟法は1926年にその第1~5編が全面的に改正された(1929施行)。さらに第2次大戦後の48年,証人尋問について交互尋問制度を導入するなど,英米法的な見地に基づく改正が加えられ,98年には新民事訴訟法が施行されている。
執筆者:黒田 満
社会発展の初期の段階においても,法あるいはなんらかの行動の社会規制があるところでは,それを実現する手段として一般に裁判(制裁と呼ぶべき段階も含めて)が行われている。古代オリエントの裁判を,メソポタミアを中心にシリア,エジプトについて概述する。
メソポタミアでは,シュメール人やその後継者たちは正義diに重大な関心を払っており,裁きも早くから展開したと推定されるが,初期の様相はつまびらかではない(神話・叙事詩に言及された裁判が参考になるかもしれない)。裁判記録らしきものは,現在のところ最古の法典たる〈ウルナンム法典〉の作成より以前,シュメール初期王朝Ⅲb期(前2500ころ-前2370ころ)末から残り,以後偏在的ではあるが多くの裁判関係記録が出土している。これによると,初期王朝期末からアッカド時代では,苦情の申立てがあると慣例として役人maškimの世話により随時個々の地域においてその行政長官ensíや長老が司宰者となって衆人の下で裁きが行われたようである。この,いわば裁判集会の場所は定まっておらず,神殿域内,宮殿の門前等で行われ,裁判人は未分化で,行政官や地域住民とくに神官sangが多くその任に当たった。川におもむいて神裁を仰ぐ例もある。ウル第3王朝時代には最奥の裁判権は国王が持ったが,実際的には裁判は各地方の政体にまかせ,各地方は従来の慣習に従ったため,当初は各地で裁判発達の度合によってかなりの格差が認められる。しかし,行政の中央集権化とともに裁判も各地の行政長官を司宰者として組織的に発展した。ウル第3王朝中期以降は行政長官が建前上裁判から後退し,司法権能は裁判官di-ku5に大きく移行した。手続は,まず当事者が司宰者ないし裁判官に提訴すると,maškimが裁判事件としての当否を調査したうえで裁判の準備をする。裁判官はすでに分化していたが,職業的法律専門家ではなく一時的に任官,普通数人一組で機能した。しかし任官する人々はほぼ一定しており,その意味では半専門家であった。原告・被告は証人を伴い司宰者および裁判官の前で陳述し,勝訴側が神殿で宣誓をして判決が確定する。刑罰はほとんど贖罪金の支払で,犯罪の軽重はもちろん今日とは基準を異にしている。成文法規によった例はまれで,同害報復刑や川の神裁も行われたようにはうかがえない。以上の手続は当時ほぼ一定し,以後メソポタミアにおいて大同小異で続くことになる。刑事・民事の概念上の区別は古代オリエントを通じて概して明確ではなかったようである。古バビロニア時代には,司法は神殿を離れてさらに世俗化し,中央・地方裁判所,軍事裁判所等がととのえられた。職業的裁判官が存在しはじめる一方で,市会puḫruも裁判で機能した。〈ハンムラピ法典〉には最初に法の執行に関する法規が定められているが,国王は裁判権を集中し,自身で最高裁判官として審理に携わっている。宣誓は従来どおり神殿で行われ,同害報復刑や神裁例も少例ある。判決に不満がある場合は王に上訴することができ,再審も行われた。前2千年紀中葉には,ヌジ(現在のキルクーク近郊)でも同様な裁判が行われていた証拠がある。アッシリア時代になると,司法はさらに行政機構の中に深く組み込まれていった。
一方,シリアのマリ王国でも,前2千年紀前半,メソポタミアとほぼ同様の手続で裁判が行われていた。国王に最高裁判権があるがとくに地方行政長官šāpiṭuが広範に活躍した。警察権が発達し,犯罪者は首都をはじめ数ヵ所にある刑務所nēparuや懲役労働場に送り込まれることもあった。しかし同時代のメソポタミアに比べて寛刑であったといえよう。
エジプトでは,国王(ファラオ)は神であり法と権威の源泉であるから成文法は存在しないが,紛争によって生じた訴えを裁く制度は少なくとも古王国時代から存在した。裁判所は中央と地方に設けられ,中央の大裁判所は王の代理人として宰相ṯatȷが,各州にある地方裁判所は,州長官が司宰した。裁判の手続はメソポタミアと大差ないもので,比較的社会的地位の高い者が裁判官sabに任官し,正義(マアト)を基調にして慣習によって裁定を下したようであるが,現存の史料からは具体的に多くを知ることはできない。〈死者の書〉や《雄弁な農夫の物語》等の文学は裁判のありさまを知る参考になるかもしれない。以上のほかに,アナトリアのヒッタイト王国からは現在のところ裁判関係史料は出土していないが,ボアズキョイから出土した法規集には裁判への言及もあり,おそらく早くから似通った裁判が行われていたものと推定される。
→楔形文字法
執筆者:大江 節子
ミュケナイ時代の線文字B文書の中のピュロス出土の土地文書の中に,ある村の1人の女祭司と村落共同体damosとの間に,一片の土地の保有権をめぐる争いがあったことを示す文書がある。これはこの種の争いに決着をつける裁判制度のあったことを推測させるものであるが,その内容はまったく不明である。ギリシア語で裁判はディケdikē(〈裁決〉〈正義〉の意)と呼ばれ,ホメロスでは軍事指揮者と祭祀主宰者を兼ねる王(バシレウスbasileus)が,裁判者の機能をも兼ねていた。殺人の賠償金の支払をめぐる争いを裁くため,民会agorēにおいて〈審き人istōr〉(〈知っている者〉の意)の職務を行っているのはこのような王であったにちがいない。ここでは民会が民衆法廷の機能を果たしている。裁判の正・不正は,〈真直な裁決dikē itheiē〉,〈曲がった裁決dikē skoliē〉として区別され,〈正義〉の原義を推測させる。ヘシオドスの詩では,裁判は貴族の独占するところであり,〈賄賂をむさぼる王たち〉と呼ばれた貴族たちが〈曲がった裁決〉を言い渡すものとして批判されている。
史料の最も豊かなアテナイについて見ると,前8世紀中葉ポリスを形成した貴族政のもとでは,その牙城たるアレオパゴス会議が法律擁護の任に当たり,法律を乱すものにはことごとく懲罰を加え罰金を科する権能をもっていた。裁判については当会議が謀殺を裁いたこと以外はよく分からないが,9人のアルコンも担当事件を割り当てられていたと推測され,その中の6人のテスモテタイthesmothetai(〈立法家〉の意)は,掟を記録して係争者間の問題の裁決に備えて保存するために選ばれたと伝えられている。従来の慣習法を成文化したドラコンは,有意・無意の殺人を区別し,無条件の〈血の復讐〉の観念に制限を加えた。このころアレオパゴス会議に対して,不法に直面したものはだれでも,どの法が犯されているかを示して,弾劾を提起することができた。ソロンはドラコンの掟を,殺人に関するものを除き廃止し,また陰謀者に対する弾劾法を定め,アレオパゴス会議は民主政転覆のため徒党を組んだ人々をも裁いた。前6世紀後半ペイシストラトスは村人が仕事に精を出せるように〈村々の裁判官dikastai kata dēmous〉を任じた。これはその後消滅したらしいが,前5世紀中葉復活した(30人)。
アテナイの民主化に伴い裁判制度も整備され,アレオパゴス会議の権限が縮小され,評議会,民会,裁判所(ディカステリオンdikastērion)に移されたが,同盟諸市の事件さえアテナイの法廷に持ち出されねばならなくなったことは,アテナイ帝国主義の一つの現れであった。古典期アテナイの裁判官dikastaiは一般市民から選出される陪審者であって,近代国家の判事や検察官や弁護士というものはなかった。陪審者には各部族から30歳以上の,国家に債務のない600人が抽選で選ばれ,合計6000人が当たった。この抽選は毎年9人のアルコンとテスモテタイの書記1人の10人により部族ごとに行われた。6000人は500人から成る10集団と欠席者を補うための予備1000人とに分けられ(それぞれに各部族員が混じり合うように),集団ごとにその日着席すべき法廷をテスモテタイから割り当てられた。通常の民衆法廷(ヘリアイアhēliaia)は501人から成り(これをヘリアスタイhēliastaiと呼ぶ),重大事件を裁くには2集団,3集団,4集団が合して1001人,1501人,2001人のヘリアイアを形成した。そのほかヘンデカ(11人),エフェタイ(51人)のほか,201人,401人などの小法廷もあった。陪審者手当dikastikon 3オボロスはペリクレスによって始められたといわれる。
裁判は市民の訴えによって始まった。問題によって訴訟提起の役所が異なり,また問題によってこれを裁く法廷が異なっていた。訴訟は市民ならだれでも提起できる公訴graphēと,被害者またはその一族しか提起できない私訴(狭義のdikē)があり,前者には,国家転覆の陰謀,祖国に対する裏切行為,瀆神の罪,人心を腐敗させる言説の罪,市民詐称に関するものなどがあり,後者には謀殺,過失致死,傷害,離婚,死者蔑辱の言葉,偽証,嫁資回復,解放奴隷の前主人への義務不履行,盗み,戦時財産税の支払,奴隷の病気を告げずに売った罪,などがあった。陪審者は法律と証拠に従って裁決することを誓い,判決は陪審者の秘密投票,多数決によった。大衆訴追権の承認と成功報酬は職業的訴訟提起者sykophantēsの続出を生み,また弁護士制度の欠如はイサイオス,デモステネスなどの法廷弁論代作者を生む結果となった。
執筆者:太田 秀通
ローマの通常民事裁判手続は,前5世紀成立の十二表法の時代からすでに,法廷手続と審判手続の2段階に分かれていた。法廷手続とは,原告が被告を自力で法廷に召喚し,法務官(プラエトル,またはその前身)の前において当事者の訴訟適格,訴権の有無などが審理され,最後に争点決定により訴訟の審理対象が決められるもので,審判手続とは,審判人名簿から当事者の合意により選ばれた通常1人の私人である審判人が事実について証拠により審理し判決を下すものである。古い法律訴訟における法廷手続は,厳格な方式のもとに両当事者の形式的な意思表示と象徴的な動作により行われ,また,その判決は,原告が自力により目的物を取得することあるいは債務者たる被告を拿捕することにより実行された。法律訴訟においては,わずかな形式の違背も敗訴の原因となり,さらに,その利はローマ人が法律により認められた請求を要求する場合に限られていたので,その後の社会経済の進展に対応するため,前2世紀ころ新しく方式書訴訟が導入された。
方式書訴訟では法務官の命令権に基づき,通常ある条件が具備する場合には有責判決を下し,そうでない場合は免訴すべきことを記した方式書が争点決定の際に作成され,また,判決はすべて金銭判決で行われ,その不履行の場合はさらに判決履行請求訴訟を経て最終的には被告の総財産の売却に至る破産手続が行われた。この方式書訴訟は法的保護を飛躍的に拡大強化し,例外的な若干の例を除き法律訴訟にとって代わり,以降ローマにおいて元首政期を通じて維持利用された。
元首政期には,元首の代理人として一定の高級官職者(またはその代理者)が,召喚から判決まで一貫して担当し,比較的自由な裁量をもって手続を行う特別(職権)審理手続が,ローマにおいては限られた事項につき,属州においては一般的に行われるようになった。通常訴訟とは異なりここでは裁判手続の二分制がなく,職権による被告の召喚,欠席判決,金銭以外の給付を目的とする判決,元首に至るまでの上訴,個別財産に限定された判決執行などが可能となり,ローマにおいてもしだいにその適用範囲が拡大され,専制君主政期においては,裁判官の訴訟支配の強化とともに裁判官に対する細かな指示を内容とする法規のもとに唯一の手続として行われた。これが,中世のカノン法において加工され,その後今日に及ぶまでの民事訴訟法の基礎となった。
ローマの最も古い時代における刑事裁判は,反逆罪等の政治的事件についてはコンスルなどの政務官が告発者となって民会で裁判が行われたが,殺人を含め一般の事件は民事裁判(法律訴訟)の形で被告人の罪責を決しその後は被害者の復讐に任せられたと今日では推測されている。共和政中期以降,当初は臨時的にのちに前2世紀半ばに初めて属州不当搾取罪について常設的な査問所が設置され,以降,G.グラックス,スラ,アウグストゥスにより査問所手続が展開整備され,国家の存続に向けられた犯罪のみならず重大な個人的法益の侵犯に対しても刑事裁判として査問所で審理されることとなった。常設査問所は,それぞれの犯罪類型ごとに個別の法律により設けられ,そこでは,任意の市民がみずから被疑者を裁判担当政務官のもとに呼び出して告発し,被疑事実が争われる場合に,審判人名簿からくじと両当事者の忌避の結果選ばれた最高75名で構成される陪審人団の前で,政務官が主宰して,当事者に大幅にその進行をゆだね,また,被告人に十二分の弁護の機会を与えつつ証拠調べおよび弁論が行われた。有罪評決は陪審人団の過半数の投票を要し,その結果を政務官が告知する。刑罰はあらかじめ法定されており自動的に定まるが,例外的に罰金額を決定する必要がある場合は同じ査問所でその手続が引き続き行われる。なお,有罪判決の場合には告発者に報償があり,無罪判決の場合には直ちに同じ手続内で告発者に対し濫訴の有無が審査される。刑の執行は政務官の任務であるが,上層身分の者に対する死刑執行は行われず,国外亡命を黙認するのを慣行とした。これとは別に,前3世紀に頭格係三人官と呼ばれる下級政務官が設置され,治安維持に当たると同時に下層住民に対する下級裁判権を行使し,かつ,その死刑判決を執行した。
元首政期においては,その初期に元老院議員に対する元老院裁判が行われたほか,アウグストゥスの国制改革により,特別刑事訴訟手続が始まった。これは,元首の代理人として経験豊かな一定の高級官職者や属州長官(またはその代理者)が,特定の犯罪に限らず私人の告発または職権で開始し,その適切な訴訟指揮のもとに迅速な審理を行い,その顧問団による罪責についての評決を告知し,かつ,裁量をもって刑罰を科し,この判決に対しては元首への上訴が許されうるというもので,ローマおよび属州でしだいに展開した。そのため,通常手続としての査問所手続は,姦通罪については後3世紀初頭まで使用されたことを別にすれば,後1世紀にしだいに事実上使われなくなり,専制君主政期においては,厳しくされた特別刑事訴訟手続が唯一のものとなった。
執筆者:西村 重雄
4世紀後半からゲルマン人のローマ帝国内への移動・侵入が始まり,ローマ帝国はしだいに崩壊した。ゲルマン法における初期の裁判のあり方の概要は以下のようであったと考えられる。
裁判は,一般には,仲裁から進化したものとされている。すなわち,最古の時代には,違法行為の最古の解決手段は復讐であるが,国家内の権力集中がやや進む段階では,紛争当事者双方は,もし戦いを好まないときは,もよりの強者を仲裁人としてその判断に服する旨の仲裁契約を結ぶ。この場合には,賠償金の授受により紛争は解決される。やがて,公的機関が仲裁人に選ばれる傾向が生じるとともに,あらかじめの仲裁契約は不要化し,被害者側が公的機関に一方的に申し立てることにより,相手方はそれの判定に服することを義務づけられる段階に至ると,裁判が出現する。この場合,初期には,被告を呼び出すのは原告であるが,のちには裁判所になる。小事件は地区の通常裁判所が,大事件は大地区の裁判所が管轄する。ひとたび言い渡された判決は絶対的である。したがって,上訴制はまだ出現しない。裁判は,古くは野外の定まった場所で定まった日に地区の成年男子全員の参集のもとに開かれ,この集会は宗教の衣をまとう。地区の首長たる1名の集会主宰者すなわち裁判官のほかに,数名の判決発見人がいる。後者は,集会で選ばれ,当該事件に関する判決すなわち法を過去のしきたりの中から発見し,裁判官は,それが法であるかを参集者に問い,賛同されれば,それを法として言い渡す。地区の全成員が出席義務を負うこの制度は,のちに廃される。
これらの段階では,近代の裁判に見られるような権利の主張と事実の主張との区別はまだなくて,裁判は,この両者に関し未分離のまま行われる。証拠方法は依然宗教ないし呪術と結合している。通常の証拠方法は,当事者の一方による宣誓および一方または双方による神判である。証人および証書もあるが,利用範囲は狭い。どの証拠方法を用いるかは慣習により定まる。ある時期になると,まず立証者,立証命題および証拠方法等についての証拠判決が言い渡され,のち,一定期間内に,場合により法廷外で立証が行われ,それに基づいて第二判決たる終局判決が来る。終局判決後,当事者双方は,古くは判決履行契約を結んだが,この契約ものち退化する。執行は,当初は,執行債務者による私的執行であるが,のち裁判官の許可を要するものとなり,さらに,裁判官による執行へと移り,差押対象もしだいに不動産にも拡大するに至る。
以上が11世紀末ごろまでのゲルマン法上の裁判の大要であるが,その特徴は,当事者主義,形式主義,公開性,口頭性,古き法すなわち慣習法への依存,民事訴訟と刑事訴訟との融合未分離,そして,裁判の実効性の不貫徹とその背後にある国家の中央権力の脆弱性ということが指摘できる。
12世紀のいわゆる〈商業の復活〉にともない,裁判制度もまた変化する。ボローニャ法学校の活動でローマ法上の裁判制度の知識が復活するに従い,これは教会法(カノン法)と世俗法にかなり早くまた強く影響を及ぼす。教会法は12世紀中ごろから1世紀の間に,ローマ訴訟法を加工しまた合理化した精密な裁判制度と訴訟手続とを作り上げる。すなわち,ローマ・カノン訴訟法である。この概要は次のごとくである。教皇を頂点とする完全な審級制が採用され,ローマ・カノン法学を知る裁判官が裁判を行う。弁護士,代訟人,書記,公証人等が存在する。形式主義は消え,口頭主義は書面主義に漸次移り,刑事訴訟手続は特別手続という形で民事訴訟手続と分離し,前者では,官憲による訴追が,また,弾劾主義のほかに糾問主義が登場する。裁判官の権威は確立し,弾力的な運営がされると同時に,恣意の抑止と訴訟の斉一化のために法定証拠主義が採用される。民事訴訟の判決手続のみを略記すれば以下のごとくである。
原告は訴状を作成して裁判官に提出し,裁判官が被告を呼び出し,原告が訴状を朗読し,被告はその謄本を受領し,その後,訴訟応諾をするが,これの猶予申立ては可能であり,また,申し立てるべき抗弁があれば訴訟応諾前に順序に従い申し立てうる。この場合,原告は反論可能である。被告は訴訟応諾で訴えを否認すれば,濫訴ではない旨の宣誓を行い,当事者双方は措問書で相互に係争事実を確認し合ったのち,争点につき立証の段階に入る。立証は主張者の義務であることを原則として,証拠方法は,人証,書証,現地検証,鑑定,推定,宣誓と多種で,その効果は法定証拠主義による。立証後は,双方の弁護士による対席的口頭弁論が,法および事実について2度行われ,裁判官自身による断定が判決として言い渡される。救済手段も,上訴のほか,多種である。
世俗裁判所は,ヨーロッパ全土で,合理的な教会裁判制度を自身のもとでも採用することを余儀なくされるようになる。これは,国家内の権力集中が強化されたためであることのほかに,民衆を法的紛争に関して教会裁判所に逃さないため,そして同時に,ローマ法の継受が手続法の面だけでなく実体法についても進行するためである。イギリスのようにローマ・カノン法の影響は受けつつも,陪審制や大法官府裁判所,星室裁判所といった独自性の強い裁判制度を維持発展させたところは別として,大陸諸国の世俗法は,かなり急速にローマ・カノン訴訟法の洗礼を受けて,従来のゲルマン法的なそれを改革する。しかし,各国の採用した制度は,もとより,それに独自の加工を施している。
フランスでは,13世紀末から14世紀中に,ほぼローマ・カノン訴訟法に切り換えるが,細目ではそれとの相違と固有の変動とがあり,また,しだいに濫用が増大し,ついに,1667年のルイ14世の民事王令の発布となり,そして,革命後これを焼き直した形で1806年の民事訴訟法典が誕生する。刑事訴訟は,アンシャン・レジーム期に濫用の極に達したのち,1808年の治罪法典の出現となる。ドイツでは,1495年創設の帝室裁判所の活動で,主流であったローマ・カノン訴訟法の継受は,民事訴訟法に関しては,民法と同じく,約1世紀間に進行するが,ゲルマン法の証拠判決等は活力を持ち続け,普通法期を経たのちに,1879年に統一ドイツ民事訴訟法典が発効する。刑事訴訟に関しては,1532年のカロリーナ刑事法典でローマ・カノン刑事訴訟法はゲルマン法とうまく調和されて採用され,立法的手段により普及するに至ったが,その後,普通法期と啓蒙期とを経て1877年に刑事訴訟法典が出現する。
執筆者:塙 浩
近代以前の中国における裁判は,まだ司法権が独立せず,はなはだ遅れた状態で行われていたようにいわれているが,実際について見ると非常に進んだ面もあり,とくに今から1000年ほども前の宋の時代に最も裁判制度が完備していたという,不思議な事実がある。中国の王朝は唐代までは封建的な武力国家であり,その刑法たる律は家族制度の維持を主たる目的とした。したがって国法によって裁かれる犯罪も,殺傷や闘殴など簡単な事件が多かった。しかるに唐王朝はその中ごろから経済国家に変質し,塩酒の専売を行い,商品にも課税して(商税),その益金たる課利によって財政を支えた。そこで密売や脱税を厳しく取り締まり,半永久的な立法たる律に代わり,臨時に発布した便宜的の勅が主たる刑法となり,もっぱら経済事犯を処罰するために運営された。この勅の規定ははなはだ重いので文面どおりに施行すると濫刑におちいるおそれがあるので,政府はその実施に手心を加えねばならなかった。つまり重刑をもって人民を脅しておき,いざ刑罰を加えようというときに酌量して恩を売るという政策である。宋代に至ってそのような政策が結実し,きわめて進歩した裁判制度の成立を見るに至ったのである。
→律令格式
宋代の司法機構は行政のそれと平行し,第一審は行政の最末端にある県で行われ,第二審は県の上に立ち,事実上の地方政府ともいうべき州において行われる。州の上の路は監督機関であって,諸種の監督官が駐在する中に,提点刑獄,略して提刑は,州の判決した重罪事犯を審理し,疑義があれば中央の三法司(後出)に送るので,つごう四審制となり,あくまで慎重を期した制度である。県の長官たる知県は行政官たると同時に司法官を兼ねる。知県の下に県尉があって,弓手などの警察を率いて盗賊密売などを検挙する。注意すべきは,このようないわゆる捕盗官は容疑者を逮捕するだけで,それ以上に事実を審問してはならぬことである。それは県衙門の中の六房の一なる刑房の胥吏(しより)の行う所であって,事実の審理すなわち推鞫(すいきく)を行った後,法律や判例を調べて刑罰を適用するが,これを検法という。知県はこの結果によって判決を下すが,ただし知県が実施できるのは杖百までであり,徒刑以上は犯人と書類とを州に送って,県の任務は終了する。
州の長官たる知州は事実上の地方政府の長官であり,行政のほかに司法を兼ね,さらにある程度まで軍事にも関与する。知州の下に捕盗官の巡検があるが,これも捕らえた容疑者を尋問することができない。それは知州の下におかれた獄官の職務である。中国でいう獄は服役者の収容所でなく,臨時に容疑者をとめおく拘置所であり,州には必ず複数の獄があるのは,もし知州がある獄官の囚人に対する処置が不適当と認めたときに,他の獄に身柄を移して尋問をやり直させるためである。したがって獄の管理官にも司理参軍,判官,推官など系列の異なった官が置かれる。獄において行うのは事実審理だけであり,それが終われば書類が知州の下なる司法参軍の法司にまわされる。法司には法律専門の胥吏がおり,問題とする事犯に適用すべき法律の条項を,律勅令格式の中から検出し,1字も省略することなく原文を列挙して提出し,これに基づいて判官,推官が原案を作成して知州に呈し,知州が最終的に判決を下すが,その判決文を判,または判語といい,この際優雅な名調子を用いて判語を作成するのが,科挙出身の文官たる知州の腕の見せどころであった。古来名士の文集中に判が含まれ,法制史の上に有益な資料を提供する。
州は地方政府であるから,唐代までは死刑をも判決実施することができたが,宋代に入り天子独裁権の確立とともに,中央政府が州の裁判に干渉するようになった。まず州の上の路に提点刑獄をおいて,州の判決した書類を取り寄せて審査させた。また州が判決して実施できる刑罰を流刑までに限った。知州が判決を下す死刑には2種類ある。一つは不応奏といい,罪状明白で酌量の余地なく,中央政府に送って天子に奏聞する必要なく,ただ路の提点刑獄に報告し,その同意を得れば州にて死刑を実施できるもの,他を応奏といい,罪状に疑義があり,情状に酌量の余地あって,中央政府に報告し,天子に奏聞して決裁を仰ぐべきものをいう。中央政府で裁判を扱うのは大理寺,審刑院,刑部で,これを三法司という。州の判決案はまず大理寺で審査し,次に審刑院で再検討を行うが,刑部は元来が行政機関であるから,特命がある場合でなければ容喙(ようかい)しない。三法司を通過した原案は天子に奏聞して裁可を受けるが,この際もし天子が疑義を抱けば,顧問機関たる翰林学士,知制誥に命じ,あるいは百官に下して集議させる。この際には宰相も天子を補佐するという名目で献言することができる。孫文はその三民五権主義を述べるに当たり,中国には古くから司法権の独立があったというが,確かにその傾向のあったことまでは認められる。宋代の裁判が幾重にも審査検討を行って人命尊重を期したのは,古今東西にあまり例がない。さて最後に天子の裁決が下されれば,すべてが決定し何物によっても動かされない。
宋代のすぐれた裁判制度は以後の王朝によって,あまり忠実に遵守されなかった。とくに元という異民族王朝の下で,大きな変革をこうむった。さらに明代の天子独裁の強化された王朝の後を清が継承するのであるが,この間に裁判制度もしだいに変化してきた。その傾向を約していえば中央権力の地方への浸透と見ることができる。まず地方の側から見れば,地方裁判権限の縮小であって,例えば清代の知県は笞五十までの刑を即決し,宋代の知州に当たる知府は杖百までの刑を即決しうるにとどまった。府はもはや地方政府たるの地位を失ったのであり,その地位をうけついだのが省である。
歴代の王朝は地方に対する監督権を強化するに努めて,種々の機関を設けたが,最初は監督機関にすぎなかったものが,しだいに行政権,軍事権,司法権を兼ねて強力な地方政府にまで発達したのである。宋代の地域区分たる路は純然たる監督機関であり,路にはしたがって長がない。路の提点刑獄は司法において州を監督するにすぎなかった。元代には路の上に行省を置いたが,これは中央政府の出張所であり,この行省が細分されて明・清の省となり,総督・巡撫の下に強力な地方政府を形づくり,司法権もその下におかれた。省において司法をつかさどるのは按察使であるが,名目は中央に直属するにかかわらず,実質的には総督・巡撫の属官であった。省と府の中間にはさらに道なる監督機関が設けられ,府が判決して徒刑以上と認めた事件は,犯人を府の獄にとどめて,書類は道を経て省に送られ,省では按察使が原案を作成するが,決定するのは総督・巡撫である。通常の事件は省で定まり,とくに重大な案件が中央に送られると,中央の三法司,すなわち大理寺,都察院,刑部は順次に審理して最後に天子の決裁を請う。幾重にも監督を行えば弊害を防ぎうるというのがその信条であった。
執筆者:宮崎 市定
イスラム初期のカリフや総督たちは,みずから裁判を執行したが,ウマイヤ朝(661-750)の中期以降カリフは裁判官(カーディー)を任命して,各地の都市に派遣した。イスラムの法律制度では,原則として裁判は1人の裁判官によって行われる。裁判官は紛争を解決するために,証言や証拠を集め,イスラム法(ハディース,シャリーア)に基づいて事件に判決を下す。判決は,コーラン,イジュマー(合意)を根拠にして下され,これらを適用できない場合にはキヤースqiyās(類推)によって裁量した。重要あるいは困難な問題については,ムフティーに意見を求めることができた。
訴訟を起こす場合にまず必要なことは,原告による適当な裁判所の選択である。裁判所の管轄権は,任命状に記された裁判官の権限によって決定される。その権限は,裁判所の等級に応じて,事件の種類や管轄地域に制限がある。考慮すべき他の要因は,原告の住居とその証人(シャーヒドshāhid)である。被告の住居とか訴訟の対象がほかの所にあっても,訴訟は原告や証人の居住地近くの裁判所でなされる。
裁判官は裁判を公開して行う。しかし,判決前にその判決はこうなるであろうと暴露することはできない。被告が原告とともに出廷しないと,召喚状が発せられる。被告が原告の主張を正当と認めるならば,それ以上の証拠を提出する必要はなく,裁判は結審となる。しかし,被告が原告の訴えを否定すれば,原告は証拠を提出し,また証人を立ててその訴えを立証しなければならない。裁判官は証拠または証人の証言に基づいて審理を進めるが,万一証拠も証人もなく,原告がそれを要求する場合には,裁判官は被告に誓言(神の名における誓い)を求める。被告がこれを行えば事件は却下され,誓言を拒めば,原告に有利な判決が下される。なお,和解の可能性があると,裁判官は和解するよう勧告する。
審理が終了すると,裁判官は判決を原告と被告に知らせ,かつ判決理由とともに命令や決定を内容とする判決書を口頭で述べる。判決について被告が反証する場合,反証が十分でないと,判決はそのまま実施される。
再審理を要求した場合には,他の裁判官の調査後,判決がイスラム法の原則に一致しているなら判決は確定し,万一,一致しなければ,再審理を行う。再審理は有利な判決を受けた者の面前で行われる。
イスラム法では,原則として上級裁判所への上訴制度はないが,現実にはカリフやアミールなどの行政責任者が決済するマザーリムmaẓālim法廷がこの役割を果たし,上訴の手続は慣行で定められていた。元来マザーリム法廷は,シャリーアの適用されない行政上の訴えを処理する機関であったが,後にシャリーア法廷の判決を不満とするものの上訴をも審理するようになった。
信頼のできる証人は,裁判官の前で正式に証言し,かつ判決の基礎となる資料を提供する資格が与えられた。その証言は最善の証拠とみなされ,証拠書類よりも重視された。信頼の条件として,イスラム法の規定によると,悪人,うそつき,他の仲間と不和でもつれている者などの証言は排除される。証言は,将来に関する利益とか,避けられる損害が含まれる場合には認められない。アッバース朝(750-1258)時代には,経済の発展と生活の複雑化に伴って,種々の契約に立ち会う専門の証人が必要となり,証人制度が設けられた。この制度は,790年にエジプトのカーディーが正式に採用したものであると伝えられている。その数は10人あるいは1000人と異なるが,10世紀のカイロには1500人もいた。
9世紀ころまでに,裁判官を助ける書記(カーティブ),通訳,門衛,文書保管人などが現れた。古い時代には,裁判を行う特別の建物はなく,モスクか裁判官の自宅がこれにあてられていた。傍聴人を収容する広間はモスクに付属していた。裁判関係の書類も裁判官か書記の家に預けられていたが,11世紀初めにカイロのカーディーによってモスクに移され,特定の場所に保管されるようになった。
19世紀に入り,イスラム諸国の大半は,このような古典時代の司法組織を改めた。とくに19世紀の後半には,総改革が行われ,3名の裁判官が審理する民事・刑事の裁判所が設けられ,ムフティーが最高権力を握った。1870年代以降,オスマン帝国,ことにエジプトでは,ヨーロッパの法典による混合裁判所なども生まれ,法の二重過程が生じ,シャリーアの全一性・完結性のイデオロギーがいたくそこなわれた。トルコでは,1924年の憲法によってカーディーは抑圧され,イランでもその意義はうすれ,28年には権限も制限された。北アフリカでは,カーディーの裁判権は婚姻,相続などに限られ,また上訴裁判所がいたるところに設けられた。同様な変化は広くイスラム世界でみられる。
→刑罰
執筆者:遠峰 四郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
裁判とは、裁判機関(裁判所・裁判長・受命裁判官・受託裁判官)が訴訟において、受理した当該事件の解決について、あるいは訴訟手続の進行について表示する決断のことである。この決断とは単なる事物の認識ではなく、一定の判断に基づき、かつ結果の認識を伴う意思表現とみるべきであるから、「裁判とは、法律上の一定の効果の発生を目的として、訴訟手続においてなされる裁判機関の意思表現をいう」と定義することができる。
したがって裁判は、具体的には裁判機関によって法律の規定に従って、特定の訴訟においてなされるのであって、当該訴訟手続の一部を構成する訴訟行為である。現代の法治国家では、裁判はすべて客観的に定められた法律によってなされねばならないとされている。日本でも「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」(憲法76条1項)とされ「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法同条3項)としており、それが現行法の根本原理とされているのである。
[内田武吉・加藤哲夫 2016年5月19日]
裁判というものには2種がある。その一つは、事件の紛争解決、結果的には当事者の権利保護のために、当該「訴訟の目的」(訴訟物)についてなされる実体裁判であって、これは手続については訴訟法の規定に従っているが、内容は実体法(民法・商法・刑法など)の適用によって定まるものである。他の一つは、訴訟手続上の事項についてなされる裁判であって(たとえば、民事訴訟法16条の「事件の移送の裁判」とか、同法199条の「証人の証言拒絶に対する当否の裁判」など)、この場合には訴訟法だけに依拠するのであり、実体法とは直接の関連はない。このような2種の裁判があるが、裁判制度の核心をなすのは前者であり、また裁判理論は主として実体裁判を対象としてなされている。
現代法学においては、判決の内容たる裁判は「事実認定」と「法律の適用」の2段階に分けて論ぜられる。そして裁判の成立過程では、事実の認定が法律の適用に対して制度論理的に先行しているし、また、それがある程度まで訴訟実践的な段階ともなっている。すなわち、判決の基本となるべき事実には、不要証事実と要証事実とがあり、不要証事実については、裁判所の認定権そのものが排除されるのに対し、要証事実の認定(真偽の判断)は、証拠により裁判所の自由なる心証判断によってなされる(民事訴訟法247条、刑事訴訟法318条)。そして事実を認定したならば、これに法律を適用することになるが、この法律の適用は裁判所の専権に属している(ラテン語で“Jura novit curia”、「裁判所は法律を知る」ということばがある)。事実の認定は当該事件に対する法律の適用の前提として、法律の定める法律要件に当てはめるべき法律事実を認定することであり、法律の適用とは法律の定める法律要件に特定事件の具体的事実を当てはめて、その事件における法効果を確定する論理操作ということになる。なお、判決の基本となる事実認定は、単なる客観的事実の認定だけではなく、法的価値判断が多分に加わるし、法律の適用も、事実認定に影響されるだけでなく、抽象的な法律の解釈論が問題となってくる。したがって、事実の認定と法律の解釈および適用は相関関係で裁判の過程を組み立て、その内容を構成しているのである。
[内田武吉・加藤哲夫 2016年5月19日]
概念法学の形式理論によれば、裁判とは法律の定める法律要件に裁判所が認定した具体的事実を当てはめ、その事件における法効果を確定する論理操作である。そしてこの論理操作の過程を形式論理(仮言三段論法)に当てはめるのであるから、その論理構造は次のようになる。
すなわち裁判が三段論法の形式をとるというのは、たとえば「他人の権利を侵害した者は、損害賠償の責任がある」=(法)との大前提に対して「甲は他人の権利を侵害した」=(事実)との小前提があるときは、帰結命題は「甲には損害賠償の責任がある」ということであり、「人を殺した者は、死刑に処せられる」=(法)との大前提に対して「乙は人を殺した」=(事実)との小前提があれば、結論は「乙は死刑に処せられる」ということになる。現代の裁判は、すべてこのような論理的形式をとって公平さを保障している。なぜならば、現代社会においては、大前提となるべき法、つまり裁判における判断の基準となるべき実体法は、だれでも知りうべき状態にあり、かつ客観的であることが要求されているし、その手続を規律する訴訟法についても同様である。小前提としての事実についても、裁判の時点では人間の覚知しうる可能性の限界にあるものとの認識にたっている。さらに、その判断をする人間たる裁判官についても、その資格は裁判所法第41条以下によって定められ、一定以上の法律的知識および経験をもち裁判官として訓練された人たちであるとの信頼感がある。それらの複合により導き出された結果はつねに一定と観念しているからであろう。このことを裏返せば、そのような安定性・平均性の要請があるから、現代の司法制度においては、一般の裁判官より特別に超越したいわゆる名判官は必要ないことになろう。すでに客観性は担保されていると考えるからである。
ところが、そのような論理操作によって結論たる決断を下すのは、自然人たる裁判官という資格の人間なのである。しかも裁判は、裁く者も裁かれる者も同質の人間として認識されたうえで遂行されるし、そのことを国家的、社会的に承認されたうえでの制度である。そこで、すでに述べたように、裁判において、具体的事実を当てはめる法の解釈・適用に際しては、裁判官も感情をもった人間として、その性格・思想・環境などから生ずる諸要素がその判断形成過程に加わることは避けることができない。これは留意すべきことである。しかしこのことは、裁判は法を適用した判断でないということではない。法が存在する限り、裁判はできるだけ、それに合理性、客観性、画一性を与えられているし、また当事者などに裁判の結果をある程度予測できるという期待を与える意味をもつ。したがって、裁判は当事者にその結果を納得させるだけの客観的な説得力が必要となる。そのために判決にはかならずその理由を付することが要求されている(民事訴訟法253条1項3号、刑事訴訟法44条1項)。そこで裁判は、論理的・客観的判断を結論とするための決断ということができる。日本においても、裁判過程の心理学的分析や法社会学的研究が盛んになりつつあることは注目すべきであろう。
[内田武吉・加藤哲夫 2016年5月19日]
民事訴訟においては、訴訟の客体は私人の権利であって、実体法上も私人が処分できる性質のものである。これに対し、刑事訴訟においては、その客体は犯罪であって、その存否の認定については、当事者だけでなく社会も利害関係をもつのであるから、これを当事者の処分に任せることはできない。そこで刑事訴訟においては、民事訴訟よりも実体的真実発見主義が強調され、そのために、職権主義が必然的に要請されることになる。しかし、この職権主義も絶対的なものではありえない。なぜならば、現行刑事訴訟では、被告人の利益を保全することに主眼を置いて、二当事者主義(原告である検察官と被告人の対立)の構造をとっており、また公共の福祉とともに、被告人だけには限らない個人の基本的人権の保障が要請され、これによって限界づけられているためである。これに対して民事訴訟における職権主義は、公共的関心の強い人事訴訟(人事訴訟法20条)や非訟事件(非訟事件手続法49条)などについてはとられているが、それは補充的なもので、民事訴訟の根幹はあくまで当事者主義である。したがって、そこでの職権主義は主として職権進行主義(訴訟手続の進行について、裁判所の主導権を認める原則)という型で現れるにすぎない。
[内田武吉・加藤哲夫 2016年5月19日]
日本では、刑事裁判は、長らく職業裁判官によって担われてきた。しかし、世界的にみると刑事裁判になんらかの形で国民が参加する国が多い。裁判への国民参加としてもっとも有名なのは陪審裁判である。イギリス、アメリカ、カナダなどの英米法諸国で採用されている。陪審裁判は、市民から選ばれた通常12人の陪審員が、裁判官から独立して陪審員だけで被告人の有罪・無罪を決する制度である。すなわち、公判での証人尋問などが終わると、裁判長が評議の課題について説示をし、陪審員は別室に移動して評議を行う。評議室には陪審員以外だれも入ることは許されない。有罪のためには全員一致の評決が原則である。全員一致の結論に至らなければ、陪審員選定の手続からやり直すことになる。評決の結果は法廷で報告され、被告人が有罪であれば、被告人は有罪guilty、無罪であれば、被告人は無罪not guiltyとだけ告げられる。有罪の場合は、裁判官が刑の量定を行う。なお、日本でも、1928年(昭和3)から1943年まで、陪審制度が実施された。しかし、日本の陪審制度は、陪審員の答申が裁判所を拘束することはなく、裁判所が答申を不当と認めるときは新たな陪審を選ぶことができるなど、陪審制度に似て非なるものであった。
ドイツ、フランスなどのヨーロッパ大陸では参審制度が行われている。参審制度とは、職業裁判官と素人(しろうと)の参審員が一つの裁判体を構成して、両者が同じ権限をもって裁判をする制度である。その構成は国によってさまざまであり、たとえば、ドイツでは裁判官3人と参審員2人で構成され、フランスでは裁判官3人と参審員9人、イタリアでは裁判官2人と参審員6人で構成されている。参審員は、裁判官と同等の地位にあって、事実認定と量刑の双方について、裁判官と同等の評決権をもっている。ただし、たとえばドイツの場合の評決は3分の2の多数決(いわゆる絶対多数決)の制度をとっているので、裁判官3人だけで有罪とすることはできない。
日本では、2004年(平成16)5月28日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(平成16年法律第63号)が成立し、刑事裁判に国民が参加するようになった。この法律は、2009年5月21日から施行された。日本の裁判員裁判は、原則として、裁判官3人と裁判員6人によって構成される。これに対して、事件について争いがない場合には、裁判官1人と裁判員4人の簡易な合議体も可能となっている。裁判員は、陪審制度と同じく、市民のなかから無作為で事件ごとに選出されるが、裁判員の権限は、参審制度と同じく、裁判官と同等であり、事実認定、法令の適用および刑の量定に及ぶ。評決権も裁判員と裁判官は同等であるが、被告人を有罪とするためには、裁判官と裁判員の双方の意見を含む過半数の意見によるという特別過半数制度を採用している。したがって、過半数である5人のなかには、かならず裁判官と裁判員が含まれていなければならない。裁判員のみ5人の過半数で被告人を有罪とすることはできない。このように日本の裁判員裁判は、陪審制度の要素と参審制度の要素の双方を含んでいるが、市民と職業裁判官が一つの合議体を構成する点において、ヨーロッパの参審制度により近い制度といえよう。
[田口守一]
ヨーロッパの古い時代における裁判には、今日の民事訴訟と刑事訴訟というような明確な区別はなかった。非行の追及には、初め自力救済が行われ、復讐(ふくしゅう)の実行、ときに氏族間の戦争状態にまで発展することもあったと考えられるが、やがて加害者を被害者側に引き渡しその処分をゆだねる方法や同害報復(タリオ)も行われ、貨幣の出現とともに、責任が金銭であがなわれるようになった。けれども、殺人というような重い犯罪や国家の存立に重大なかかわりをもつ犯罪(たとえば反逆など)については国家権力自らが刑罰権を掌握し、大なり小なり国家構成員がこれに関与するものとなり(民衆裁判)、弾劾主義(訴える者、訴えられる者、裁く者の3面構造をとる)をとっていた。
古代ギリシアのアテネでは、民会出席適格者のなかから抽選で選ばれた6000名の審判人の名簿により、事件ごとに異なった人数の審判人の出席のもとに裁判が開かれた。政務官が裁判を司会し、証拠調べ、口頭弁論ののち、審判人の投票により有罪か無罪かが決定され、判決が言い渡された。上訴の制度は存在しなかった。
古代ローマでは、裁判権は、王政時代には王にあったが、共和政時代に入り最高政務官に移った。王や最高政務官は、市民の非行に対して懲戒権を行使した。紀元前367年、新たに法務官(プラエトル)が設置され、この官が市民相互間の事件を管轄することになった。古くからの市民間の訴訟方式は法律訴訟とよばれ、法廷手続と審判人手続の2段階からなっていた。原告は被告を法務官の面前(法廷)に連行し、法務官によって訴訟することが認められると、賭(か)け金を賭け、事件の争点を整理し、市民から選ばれ原被両告の同意した審判人を選任する(法廷手続)。続いて、その3日後に両当事者は審判人の面前に出頭し、口頭陳述、事実審理、証拠調べののちに判決が下された(審判人手続)。しかしこの判決は執行力をもたなかったので、敗訴者が判決を履行しようとしない場合は、勝訴者は新たな訴えを提起して法務官による判決履行の強制を求めた。ローマが周囲に支配を拡大し、外国人との取引が盛んになり、外国人とローマ市民との法律問題が頻繁に起こるようになると、市民のみが援用できる法律訴訟をこれに用いることができず、前242年、新たに外人係法務官を設置し問題の処理にあたらせた。外人係法務官は、判断の基礎として両当事者と法務官との間で確認した論点を示す方式書を作成した。これは合法訴訟ではないが、一種の仲裁契約に基づくもので、法務官の裁量で保護に値する法律関係はどのような場合でも救済するというものであったから、方式書訴訟は市民相互間でも激増した。このような実情にあって前150年ごろにこの訴訟も合法性が認められ、前17年のユリウス法は古い法律訴訟を廃止するに至った。他方、属州統治をめぐって属州民の不満が増大し、前149年、属州長官による税の不法徴収に関する査問所が設置され、市民50名からなる陪審員による評決が行われるようになり、この査問所が刑事事件についても裁判を行うようになった。帝政時代になると、政務官自身が職権で裁判の全過程を担当する特別訴訟手続が現れた。やがて、権力が皇帝に集中し、官僚制を基本とする専主政時代になると、最高の裁判官たる皇帝を頂点として官吏である裁判官による裁判が行われるようになった。342年の勅令によって方式書訴訟が廃止され、もっぱら職権主義の特別訴訟手続が行われるようになった。
ゲルマン古代にあっても、部族全体の利害にかかわる重大な政治的、宗教的な事件についての裁判は、成年男子の構成する民会で行われ、王が裁判を主催した。判決案は長老たちが立案し、民会構成員の賛否によって決せられた。これと併行して合法的、私的復讐も行われた。中世の部族法典では、罪が金銭であがなわれるようになっている(贖罪(しょくざい)金、人命金)。国王権力の確立に伴い、国王罰令権のもと、民会の裁判権は国王権力に吸収され、国王は最高の裁判官となった。国王裁判所を頂点として領主裁判所など、封建制の発展とともに多様な裁判所が現れた。
教会裁判所は、このようななかにあって、ローマ教皇の裁判所を中心として統一的に運営され、管轄事項も聖的なものばかりでなく世俗的な事柄にも拡大され、民衆から受任されたものとして、弾劾主義から糾問主義(訴える者と裁く者を分離せず、訴えられる者と対する)を採用し、ヨーロッパ大陸法の訴訟手続に大きな影響を与えた。
[佐藤篤士]
1215年にローマ教皇インノケンティウス3世は、裁判官が訴えを待たずに職権で秘密に犯罪を審判する手続を定め、これを糾問inquisitioとよんだ。この糾問手続が漸次普及してイタリアの普通法となり、一方、南ドイツに波及して、皇帝カール5世の1532年のカロリナ法典となり、また他方、フランスに入って、ルイ14世の1670年の刑事勅令となったとされている。糾問手続の弊害は著しいものがあり、起訴者が裁判官であるときは、弁護人として神に頼るほかない、という格言が生まれたほどであった。今日の形の検察制度がフランスの1808年の治罪法において明定されるに及んで、公訴官の訴えなければ裁判なし、という原則(弾劾主義)が行われるようになり、公開主義、口頭主義、直接主義が確立することになった。ドイツの改革された刑事訴訟も、のちに前記の成果を取り入れた。糾問訴訟から弾劾訴訟へ橋渡しをしたのは検察制度である。
[内田一郎]
神判・宣誓・決闘を証拠方法とした形式的証拠主義から、被告人の有罪を証明する際にその要件を法律で正確に規定する法定証拠主義を経て、証拠の証明力の判断を論理法則・経験法則に基づく裁判官の自由な心証にゆだねる自由心証主義へ、という刑事証拠法における史的展開は、犯罪事実の存否の確定を中軸とする実体的真実発見主義の確立の道程であったと考えられる。法定証拠主義では、たとえばカロリナ法典のように、刑事罰の言渡しは、自ら自白した場合、または少なくとも2名以上の信憑(しんぴょう)性のある有力証人(目撃証人または聞き証人)による証明があった場合に限って許されるものとしていた。そこで、法律上、拷問の制度を認めざるをえなくなった。その後のドイツ普通法上の訴訟では、嫌疑はあるが、人証または自白によって立証されていない者であって、しかも裁判所が有罪であると考える者に対しては、特別刑poena extraordinaria(のちにいわゆる嫌疑刑――法定刑より軽い)を言い渡すようになった。そのために嫌疑があまりにも少なく、しかも無罪ともいいきれない場合には、新たに嫌疑が生じた際には新たに訴訟を進行させる可能性をもつ判決である審級放免が言い渡されるようになった。やがて18世紀の後半、啓蒙(けいもう)時代に入ると、拷問の制度の廃止に努力が傾注され、1740年6月3日の閣令により、まずプロイセンのフリードリヒ大王は、もっとも重大な事案を除いて拷問を廃止し、その残りの部分も1754年および1756年にこれを廃止したのであった。そして、この拷問の廃止ということに自由心証主義の発端があると考えられるのである。フランスでは、1808年の治罪法(刑事訴訟法にあたる)第342条に自由心証主義が明定された。1877年のドイツ刑事訴訟法第260条は、改めてフランスの法制に倣って自由心証主義を採用した。検察制度・自由心証主義は、現代の刑事裁判の主柱をなしている。
[内田一郎]
戦国(前403~前221)、秦(しん)、漢から清(しん)(1616~1912)末に至る帝政時代において、裁判制度には時代によってもとより変遷があったが、基本的性格はおおむね一貫していた。以下、主として清代の裁判について紹介するが、そこにみられる事柄は、基本原理としては、同時に前記の時代の裁判に通ずるものである。裁判手続には民事・刑事の2系統があったとする説もあるが、民事と刑事とは、個々の事案が民事的性格の濃い日常的事件(戸婚・田土・銭債細事)であるか、刑事性の濃い重大な犯罪(命盗重案)であるかという、事案の性質によって分けられたものであり、手続・制度として2系統に区別されていたものではなかった。多くの事案は民事的・刑事的両要素を兼ね備え、「細事」も概して軽い刑罰を伴うものであったから、民事事件・刑事事件といっても質的差異ではなかった。裁判手続の開始・進行は、被害者や、ときに公衆の訴えによって行われる私的訴追を原則としたが、また裁判官(本来は行政官)が犯罪を察知して、職権をもって犯人を逮捕・尋問する糾問手続による場合もあった。私的訴追においては、元来、原告に重大な責任を負わせ、厳格な当事者平等の原則にたつものであったが、これは清代には緩和され、他方、糾問手続が正規に認められるに至った。裁判は事実上公開されたが、公認の弁護人制度はなく、法廷は事実の認定だけをつかさどり、法の解釈・適用はそこで争わるべき問題ではなかった。有罪の認定は原則として自白に基づかねばならず、例外的にだけ、ほかの証拠のみによることが認められた。証拠法上の拘束はなく、裁判官は伝聞証拠・私的知見など自由に利用できた。このことは拷問を避けられないものとしたが、それには一定の法律上の制限が定められていた。「重案」における判決は厳格に法律に依拠すべきものとされたが、「細事」における裁判は本質的には調停であった。当事者による上訴の制度と並んで、ほかに、重要事案は下級機関では決定権を留保し、自動的に上級庁に送って、事の重要性=刑罰の重さに応じ、いくつかの審級を重ねて決定する仕組みがあった。以上を通して、法は究極において王者の治世のための命令にほかならなかったこと、皇帝以下末端地方官に至る官僚機構による統治体制をすなわち裁判機構とし、司法が行政の一環であったことなどが、帝政時代の裁判の性格を規定するものであり、判決の確定力なる観念が存在しなかったのも、これに由来する。なお、国家の裁判とは別に、宗族(男系親族集団)・村落・ギルドなどの自治的組織が、民事的紛争はもとより刑事的事件にもわたって果たした調停・制裁の機能も無視できない。ただ、従来この民間司法的機能を過大視する見解が少なくなかったが、ために国家法の実効性や国家の裁判が担った役割を低く評価するのは誤りである。
さかのぼって、春秋(前771~前403)以前の裁判については明らかでないところも多いが、神判が行われ、他面、拷問が存在しなかったことなどをはじめとして、後世とは基本的に類型を異にするものがあったとみられる。
下って、中華民国成立後は近代法にのっとった新しい裁判制度の形態が整えられた。中華人民共和国に入っては、いっさいの古い司法制度の廃止、人民司法制度樹立の原則が掲げられ、社会主義法制に立脚した裁判制度が設けられている。
[中村茂夫]
推古(すいこ)天皇の11年(603)以前の上代における裁判手続については詳しいことはわからないが、神が支配する社会であったから、事実の有無、主張の真否を判断するのに、盟神探湯(くかたち)のような神を証人によぶ神証(神判)が用いられたことが注目される。上代では各氏(うじ)の氏上(うじのかみ)が部内の人民に対して裁判権を有し、氏相互間の訴訟のごときは朝廷で裁判したと思われるが、上世(律令(りつりょう)時代)になると、日本は天皇によって支配される統一国家となり、裁判権は朝廷に専属することになった。その手続は中国から継受した律令格式に規定してある。律令格式では民事訴訟にあたるものを訴訟、刑事訴訟にあたるものを断獄とよんだ。各官司は同時に、権限に大小こそあれ、裁判所でもあった。訴訟だけでなく、断獄も被害者または公衆の告言(訴え)によって開始された。もっとも審理は糾問主義であった。審理にあたっては、証人を尋問し、証拠物を検すべきであったが、断罪には原則として自白を要したので、自白しないときは拷訊(ごうじん)すなわち拷問を行った。
中世前期すなわち平安後半期には荘園(しょうえん)が発達し、その本所(ほんじょ)が不入権に基づき、荘園内の事件につき裁判権を獲得した結果、公家(くげ)裁判所と本所裁判所の別を生じた。中世中期すなわち鎌倉時代には、両裁判所の影響下に幕府の訴訟法が発達した。幕府の裁判手続には所務沙汰・雑務沙汰および検断沙汰の三沙汰(さた)がある。所務沙汰は不動産に関する、雑務沙汰は動産および債権に関する、検断沙汰は刑事に関する裁判手続であるが、このなかでとくに顕著な発達を遂げたのは所務沙汰である。所務沙汰の事件は一方引付(ひきつけ)で審理したが、その作成した判決草案は評定会議の議によって確定したのである。証拠方法の採用には、証文、証人、起請文(きしょうもん)という順序があった。起請文は上代の神証の復活したもので、参籠起請(さんろうきしょう)が行われた。検断沙汰の開始には上世と同じく被害者または公衆の告言が必要であったが、審理は糾問主義であった。
中世後期すなわち室町時代でもだいたいは同じであったが、神証としては、盟神探湯の後身である湯起請(ゆぎしょう)が行われた。
近世前期すなわち戦国時代では、各分国の大名がその分国内の事件につき裁判権を獲得した。その裁判制度は一面では室町幕府のそれの影響を受けているが、なかには江戸時代の裁判制度の前身とみられるものもある。刑事裁判すなわち検断では、犯人の自白を有罪の要件としたので、過酷な拷問が行われた。
近世の中・後期すなわち江戸時代においては、大名および旗本には、程度の差こそあれ、領内の事件につき裁判権(自分仕置(しおき))が認められたが、他面、幕府もまた大大名として御料内の事件につき裁判権を有するとともに、領主(大名)を異にする者の間の事件についても裁判権を保有した。なお、「穢多非人(えたひにん)」という差別的身分に置かれた者の犯罪について穢多頭(がしら)にある程度の裁判権が認められるなど、幕府の役所以外のものが裁判所として機能することもあった。江戸幕府の裁判手続は、出入(でいり)筋と吟味(ぎんみ)筋に分かれる。出入筋は、原告(訴訟人)の提出した目安(めやす)(訴状)に、奉行(ぶぎょう)所で被告(相手方)を某日に召喚する旨の裏書を加えて原告をしてこれを相手方に送達させ、原被両告を対決審問して判決を与える手続であるのに対し、吟味筋は、職権をもって差紙(さしがみ)で被疑者を呼び出して糾審する手続である。出入筋は民事、吟味筋は刑事といえるが、刑事事件が出入筋で受理されることもあった。幕府の裁判所としては、中央にあっては評定所、寺社・町・勘定の三奉行、道中奉行、地方にあっては遠国(おんごく)奉行、郡代・代官などがあった。異なる領主の間の出入りは幕府の評定所で裁判した。出入筋では前記のように、両当事者を裁判所に召喚して審問する。幕府は内済(ないさい)(和解のこと)を奨励したが、それはとくに金公事(かねくじ)(無担保の利息付金銭債権に関する訴訟)で著しかった。書面が証拠として重んじられた。吟味筋では裁判所は職権をもって審理を開始し、かつ続行した。各奉行には言い渡しかつ決行しうる刑の限度が定められており、それ以下ならば単独で処理できたが、それ以上の刑にかかる事件については上司の指図を得ねばならなかった。自白を重んじたから拷問が行われた。牢屋(ろうや)は原則として未決拘置所として用いられた。
明治初期には、民事裁判を聴訟(ちょうしょう)、刑事裁判を断獄とよんだ。聴訟については江戸時代の例に倣い和解が奨励され、和解を勧奨すること(勧解(かんかい))が裁判官の重要任務とされた。1875年(明治8)に三審制が採用され、民事裁判の一般公開が規定された。1890年にテヒョーHermann Techow(1838―1909)の起草したドイツ法系の民事訴訟法が公布、翌年施行された。刑事裁判では1873年に断獄則例が制定され、治罪法の施行まで行われた。1875年に上告の制が設けられ、自由心証主義が採用され、1879年には拷問が廃止された。1882年にはボアソナードの手になるフランス法系の治罪法(刑事訴訟法のこと)が施行され、検事公訴主義・予審・保釈・裁判公開などの制が確立され、軽罪につき控訴の道が開かれた。1890年には裁判所構成法によって三審制が確立され、またドイツ法系の刑事訴訟法が施行された。
[石井良助]
『滝川政次郎著『裁判史話』(1952・乾元社/復刻版・1997・燃焼社)』▽『利光三津夫著『裁判の歴史――律令裁判を中心に』(1964・至文堂)』▽『柴田光蔵著『ローマ裁判制度研究』(1968・世界思想社)』▽『H・ミッタイス、H・リベーリヒ著、世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説』改訂版(1971・創文社)』▽『佐藤篤士・杉山晴康著『法史学――日本法史・ヨーロッパ法史』(1972・評論社)』▽『吉野悟著『ローマ法とその社会』(1976・近藤出版社)』▽『滋賀秀三著『清代中国の法と裁判』(1984・創文社)』▽『石井良助著『裁判の歴史』(『近世民事訴訟法史』所収・1984・創文社)』▽『利光三津夫・長谷山彰著『新 裁判の歴史』(1997・成分堂)』▽『大出良知・水野邦夫・村和男編著『裁判を変えよう――市民がつくる司法改革』(1999・日本評論社)』▽『滋賀秀三著『清代中国の法と裁判 続』(2009・創文社)』▽『市川正人・酒巻匡・山本和彦著『現代の裁判』第6版(2013・有斐閣)』▽『戒能通孝著『裁判』(岩波新書)』
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…まず第1に市場に面して市参事会堂や教会が建てられていた。市場は市民集会の場であり,都市法に基づく裁判の場でもあった。机といすがおかれた青空の下で囲いがつくられ,裁判が開かれるのが古来の慣習であった。…
…自然のある部分を庭にする場合,後年のことであるが,関料(せきりよう)の一種〈庭銭(にわせん)〉が初穂であったことからみて,人はあるいは初穂をささげ,また狩りや市の祭文(さいもん)にみられるように,神事を行ったのである。 集会や裁判の行われる共同体の広場も庭であったが,日本の場合,それは早くから首長の宅と結びつき,その管理下におかれていた。天皇の前に官人,百姓などが列立した〈朝庭(ちようてい)〉はこうした庭であり,平安時代,官庭,国庭,公庭(底の字が用いられることも多い)などの語によって知られるように,太政官,国衙などの公的機関にも,訴訟のさいの対決,裁判の行われる庭が存在した。…
…なお1745年(延享2)に制定され94年に全面的な改正が行われた尾張藩〈盗賊御仕置御定〉も,《公事方御定書》の影響の下に成立した刑罰法規である。なお刑法典を編纂するのでなく,幕府に随時問い合わせるなどして,《公事方御定書》に基づく裁判を行った藩も少なくない。(b)明律系統としては,1754年(宝暦4)の熊本藩〈御刑法草書〉をはじめ,84年(天明4)の新発田(しばた)藩〈新律〉,96年の会津藩〈刑則〉,97年の弘前藩〈寛政律〉,享和・文化年間(1801‐18)の紀州藩〈国律〉,1862年(文久2)の同藩の〈海南律例〉などがある。…
…それらの社会的紛争処理手段のうち特定のものは,法律によって制度化されて,法律的紛争処理制度となった。裁判はその代表例だが,実は社会的紛争処理手段の全体系の中にその一部分としてくみこまれて機能しているのである。この全体系においてルールは慣習から法まで強弱さまざまだが,紛争は通常このようなルールのもとで発生,進行,終結し,そしてルールを批判し進歩させてきた。…
…形式上は一代抱えであるが,事実上は世襲の職であって,13,14歳で見習として出仕したのち,与力に採用され,しかも他への転勤はなく一生町奉行所に勤務するものであったから,職務にはよく精通していた。その職掌は役所全般を取り締まる年番方(ねんばんかた),裁判を行う吟味方,刑事判例を調べる例繰方(れいくりかた),牢屋の事務を監督する牢屋見廻(みまわり),恩赦を扱う赦帳撰要方,町火消を指揮する町火消人足改,小石川養生所を扱う養生所見廻,本所深川に関する事務を行う本所方,烈風のとき市中を見回り警戒する風烈見廻等や,裁判,警察を中心に,市政一般にわたる多くの分課に分かれた。なかでも吟味方与力(定員10名)は重職で,町奉行に代わって町奉行所の裁判を実際に遂行したのであり,勘定奉行配下の評定所留役(ひようじようしよとめやく)と並んで,幕府裁判の中心的担い手として,幕府法の発達に大きく寄与した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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