百科事典マイペディア 「イスラム諸国会議」の意味・わかりやすい解説
イスラム諸国会議【イスラムしょこくかいぎ】
→関連項目パン・イスラム主義|モロ民族解放戦線
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…そこでまず顕著に認められる第1の立場は,現状維持派的・国際政治論的イスラム国家論である。それは,20世紀に生み出された諸国家システムを前提として,多数のイスラム教徒を擁する諸国をただちにイスラム諸国とみなす立場であり,イスラム諸国会議Organization of the Islamic Conference(略称OIC。1971年に正式発足,加盟国55)はそれに拠っている。…
…これに反対する国際連合のたび重なる決議にもかかわらず,イスラエルはマガーリバ地区のアラブ住民を立ち退かせて嘆きの壁に面する広場をつくるとか,電力,水道,流通などの施設面でも同市の〈再統合〉による都市の改造を推進した。69年オーストラリア人の放火によるアクサー・モスクの火災はムスリム世界を動揺させ,イスラム諸国会議成立の契機となった。77年エジプト大統領サーダートのエルサレム訪問とアクサー・モスクでの礼拝参加とともに開始されたエジプト・イスラエル間の和平交渉は,80年イスラエル国会によるエルサレム基本法(統一された同市をイスラエルの永久の首都と宣言)の可決へとつながり,これに対抗してサウジアラビアは,81年,エルサレムをパレスティナの首都とする要求を含んだ8項目提案を行うなど,混迷はいっそう深まり,エルサレム問題は,パレスティナ問題の解決をはばむ最も困難な課題として残されている。…
…61年マレーシアのアブドゥル・ラーマンはイスラム諸国連盟を提唱し,66年サウジアラビアのファイサル国王はヨルダン,イラン,チュニジアなどと結んでイスラム同盟の結成を呼びかけた。後者のパン・イスラム主義は,69年イスラム諸国会議(1997年現在,参加国はPLOを含め55)として実現された。73年の第4次の中東戦争はラマダーン戦争とも呼ばれたが,それは広く世界のイスラム教徒の情動に訴える効果を期待するものであった。…
※「イスラム諸国会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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