改訂新版 世界大百科事典 「パンイスラム主義」の意味・わかりやすい解説
パン・イスラム主義 (パンイスラムしゅぎ)
Pan-Islamism
〈イスラム世界〉の統一を目ざす思想,運動。すでに早くシャー・ワリー・ウッラーの子のアブドゥル・アジーズShāh `Abd al`Azīz(1746-1824)が,1803年イギリス支配下のインドはダール・アルハルブ(戦いの家)であると宣言するファトワー(意見書)を発して,オスマン帝国カリフへの帰属感を表明したように,それは近代のムスリム世界の状況の中でしばしばカリフ制やダール・アルイスラーム(イスラムの家)の概念に即して求められた。しかし,パン・イスラム主義という言葉自体は,1870年代後半のヨーロッパで造語され,急激に広まったものである。19世紀末オスマン帝国スルタン,アブデュルハミト2世は,帝国の解体を阻止するため,逆に世界のイスラム教徒への影響力の強化を企て,アフガーニーを利用しようとしたり,ダマスクス~メディナ間のヒジャーズ鉄道(巡礼鉄道)を建設したりした。1914年,第1次世界大戦にオスマン帝国が参戦したとき,世界のイスラム教徒に向けてジハードが宣せられたが,ほとんど反応はなかった。しかし戦後,カリフ制廃止をめぐっては,インドで強力なヒラーファト運動が起こった。ラシード・リダーの《マナール》誌の活動は,カリフ制なき後のイスラム世界統合の希求に支えられていた。
第2次世界大戦後では,一時パキスタンが明確にパン・イスラム主義をうたい,イスラム世界会議Mu'tamar al-`Ālam al-Islāmī(1926年メッカで創設,31年以降アミーン・アルフサイニーを議長としてエルサレムに本部を置いた)の本部をカラチに移した。ナーセル政権下のエジプトでは,ムスリム同胞団を禁圧しつつも,アズハル大学を通じて世界のイスラム教徒への働きかけがなされた。61年マレーシアのアブドゥル・ラーマンはイスラム諸国連盟を提唱し,66年サウジアラビアのファイサル国王はヨルダン,イラン,チュニジアなどと結んでイスラム同盟の結成を呼びかけた。後者のパン・イスラム主義は,69年イスラム諸国会議(1997年現在,参加国はPLOを含め55)として実現された。73年の第4次の中東戦争はラマダーン戦争とも呼ばれたが,それは広く世界のイスラム教徒の情動に訴える効果を期待するものであった。イラン革命以後,現代世界におけるウンマ(イスラム共同体・国家)の現実を批判して,これにイスラム革命の要求を突きつけようとする運動の高まりの中で,新しいイスラム世界論の局面が生じてきた。
執筆者:板垣 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報