モロ民族解放戦線(読み)もろみんぞくかいほうせんせん(英語表記)Moro National Liberation Front

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モロ民族解放戦線」の意味・わかりやすい解説

モロ民族解放戦線
もろみんぞくかいほうせんせん
Moro National Liberation Front

略称MNLF。1970年ごろ、元国立フィリピン大学政治学講師のヌル・ミスアリNur Misuari(1941― )を指導者として南部フィリピンの分離独立を目ざして結成された組織。モロ民族軍(BMA)はその軍事組織。

[川島 緑]

ムスリムの独立運動

フィリピンのムスリムイスラム教徒)は宗教的少数派で、南部のミンダナオ島、スル諸島、パラワン島などに集中している。人口比には諸説あり、1990年センサスではフィリピン総人口の4.6%となっているが、MNLFは10%以上と主張。現地ムスリム研究者は推計6~8%程度としている。スペイン体制期、スペイン人は彼らを「モロ」と呼び、これは蔑称(べっしょう)としてアメリカ統治期以降も用いられた。彼らはアメリカ統治期以来、中央への従属や差別、中北部からのキリスト教徒入植者や実業家による土地収奪に不満を抱いてきた。とくに1960年代後半以降、南部では大規模な国家主導開発事業が実施され、ムスリムやほかの少数先住民の先祖伝来の土地に対する権利が侵害されたため、当時のマルコス政権への反感が高まっていた。

 1968年3月、ムスリムの特殊訓練兵殺害事件(コレヒドール事件)が起き、この事件をきっかけとしてフィリピン政府に対するムスリムの抗議が高まった。同年5月には、コタバト州のムスリム有力政治家が、ミンダナオ独立運動Mindanao Independence Movement(MIM)を発足(発足当初の名称は「ムスリム独立運動」)させ、南部の分離独立を宣言。南ラナオ州のムスリム国会議員は、ムスリム青年の国外での軍事訓練を計画した。ミスアリを含む90名のムスリム青年が、マレーシアのパンコール島で第一次軍事訓練に参加した。MNLFは、この訓練期間中に発足し、ミスアリが議長に就任した。スル州の貧困家庭の出身で、かつて左翼学生運動のリーダーとして活動したミスアリは、ムスリム民衆を抑圧してきたムスリム社会の既成リーダーシップを批判し、ムスリム社会の体制変革も目ざしていた。74年に発表されたMNLFの宣言では、南部の土地を収奪し、イスラムを脅かしてきたフィリピン植民地主義の抑圧からモロ民族(バンサモロ)を解放するために、武装闘争によって民主的な国家「モロ民族共和国」を獲得することが運動目的として掲げられていた。

[川島 緑]

内戦と解放戦線の分裂

1972年9月マルコス戒厳令を布告した。MNLFはこの戒厳令体制に不満を募らせていたムスリム住民の支持を集め、南部各地で軍事作戦を展開した。マルコスは大量の国軍兵力を投入して武力鎮圧を謀ったため、多数の死傷者や難民が発生した(ミンダナオ内戦)。内戦中、MNLFは活発な外交を展開し、イスラム諸国の関心をひきつけることに成功し、リビアやマレーシア・サバ州から援助を受けた。イスラム諸国会議機構(OIC)から圧力を受けたマルコス政権は、MNLFとの和平交渉を開始し、フィリピン政府とMNLFは76年末に南部13州(1州が分割され、現在14州)に自治権を与える方針を定めた「トリポリ協定」に調印した。しかし、フィリピン政府は実権の伴わない名目的な地域自治でこと足れりとしたため、MNLFは戦闘を再開した。

 そもそもMNLFは、さまざまな地方組織の寄り合い所帯で、指導部内に出身地域や言語集団、階層の亀裂(きれつ)の問題を抱えていた。1970年代後半以降、マルコス政権の分断工作も功を奏してMNLFは3派に分裂した。スル諸島、バシラン島、サンボアンガを主要な基盤とするMNLFミスアリ派と並んで、ハシム・サラマットHashim Salamat(1942― )は南・北コタバト州、南ラナオ州を主要な基盤としてモロ・イスラム解放戦線Moro Islamic Liberation Front(MILF)を率い、ディマス・プンダトDimas Pundato(1947― )は南ラナオ州を拠点としてMNLF改革派を率いた。

[川島 緑]

和平への動き

アキノ政権発足後に公布された新憲法には、南部のムスリム地域に自治区を創設する規定が盛り込まれ、1990年にムスリム住民の比率が高い4州(南ラナオ州、マギンダナオ州、スル州、タウィタウィ州)のみを対象としたムスリム・ミンダナオ自治区(ARMM)が発足した。ついで92年に発足したラモス政権は、OIC、とくにインドネシア政府の仲介により、MNLFとの和平交渉を進め、96年9月には新たな和平協定を締結した。新協定は、3年間の準備期間を設け、その間南部に重点的に資本投下して経済・社会開発を実施し、3年後に議会を通じて新たな自治区政府を発足させることを骨子とする。ラモス政権はこの協定に基づいて、暫定行政機関「南部フィリピン和平開発評議会(SPCPD)」を設置した。ミスアリはARMM長官に選出されるとともに、SPCPD議長に任命され、MNLF兵士のフィリピン国軍への編入が開始された。だが、住民投票実施が争点となって、新たな自治区政府設立は延期されたままになっている。

[川島 緑]

『T. J. S. George:Revolt in Mindanao;The Rise of Islam in Philippine Politics(1980, Oxford University Press, Kuala Lumpur)』『Lela G. Noble:The Philippines;Autonomy for the Muslim(John L. Esposito ed.“Islam in Asia”, 1987, Oxford University Press, New York)』『山影進「フィリピン・ムスリムのナショナリティとエスニシティ」(平野健一郎他編『アジアにおける国民統合――歴史・文化・国際関係』所収・1988・東京大学出版会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モロ民族解放戦線」の意味・わかりやすい解説

モロ民族解放戦線
モロみんぞくかいほうせんせん
Molo National Liberation Front

略称 MNLF。フィリピン南部,ミンダナオ島を拠点とするイスラム分離独立派の反政府組織。 16世紀後半以降3世紀にわたるスペイン植民地時代,スペインと土着イスラム教徒 (モロ族) との間で戦争が続き,アメリカ=スペイン戦争 (1898) 後のアメリカ支配下および独立後でも,キリスト教徒の入植などによるキリスト教化が進められたのに対し,南部イスラム教徒の抵抗は根強く,ミンダナオ独立運動へと発展した。 F.マルコス政権は開発目的でさらに入植を積極化したため,1970年代初頭初代議長ネル・ミスアリ指導下 MNLFが結成され,ミンダナオ紛争は拡大した。 72年9月,マルコス政権は戒厳令を布告し,MNLFの抑圧に乗出した。イスラム諸国会議 OICやアラブ諸国は紛争拡大を注視,問題は国際化した。 73年の第1次石油危機後,同政権は MNLFを積極支援したリビアに仲介を求め,76年 12月 MNLFと南部 13州の自治権容認と即時停戦を骨子とするトリポリ協定に調印したが,86年に政府側がその実施に住民投票を条件としたことで対立が激化した。 96年1月に F.V.ラモス政権との和平交渉が合意に達し,現状停戦となった。同年9月には MNLFのヌハルディ・ミスアリ議長がミンダナオ自治区知事に選出されたが,依然 MNLFの分派モロ・イスラム解放戦線 MILFとの戦闘は続いている。

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