目次 自然,住民 近代史,政治 経済,産業 社会,文化 基本情報 正式名称 =サウジアラビア王国al-Mamlaka al-`Arabīya al-Sa`ūdīya/Kingdom of Saudi Arabia 面積 =214万9690km2 人口 (2010)=2714万人 首都 =リヤードRiyāḍ(日本との時差=-6時間) 主要言語 =アラビア語 通貨 =サウジ・リヤルSaudi Riyāl
アラビア半島 の約80%を占める王国。ナジュド出身のサウード家のアブド・アルアジーズ・ブン・サウード が建国した。彼は1902年にリヤードを手中にして以後アラビア半島にワッハーブ派 のサウード家の王国を再興し,24年にはイギリスの援助をうけていたヒジャーズのフサイン を破り,〈ヒジャーズの王,ナジュドおよびその属領のスルタン〉を称し,27年イギリスとジェッダ条約 を結び,国際的承認をえた。32年9月18日に勅令によって,ヒジャーズとナジュドの2王国およびその属領を〈サウジアラビア王国〉の名称で統合した。国名の意味は〈サウード家のアラビア王国〉である。北はヨルダンとイラク,北東はクウェート,東はペルシア湾(アラブではアラビア湾と呼ぶ),カタル,アラブ首長国連邦,南はオマーン,イエメン,西は紅海に接するが,イエメンやオマーンとの国境には不明確な部分がある。
自然,住民 国土は西から東に向けてゆるく傾斜し,西の紅海沿岸には険しい火山性のアシール山脈と狭いティハーマ平野 がある。ヒジャーズ 地方の東は変化に富むナジュド 高原につながる。高原は乾燥し,北の大ナフード砂漠 と南のルブー・アルハーリー砂漠 を,東部のダフナーal-Dahnā’砂漠が連結している。ナジュド高原の中心には,首都リヤードなどの国家権力の中枢が位置している。東部のハサー 地方ではオアシスが多く,沿岸には世界有数の油田地帯がある。最も高い山(2900m)はアシール 地方にある。紅海には小島,サンゴ礁,暗礁が多いため自然の良港はないが,ジェッダとヤンボーはイスラムの聖地メッカ,メディナへの巡礼者の出入港として発展した。東部ペルシア湾岸には大規模な石油積出港がある。
気候は一般に砂漠性,高温で,雨量は平均年100~200mm以下と少ない。内陸高原は大陸性気候で,夏は40℃を超えるが冬は冷えこむ。沿岸部の夏は40~50℃になり湿度も高く,ジェッダでは90%を超えることがある。
住民はコーカソイド系の地中海型人種であるが,数世紀にわたってニグロイド系のアフリカ奴隷との混血が進み,複雑な人種が生まれている。一般的には,ティハーマ平野ではニグロイド系が多く,ナジュド高原ではより典型的な地中海型人種に属するベドウィンが多い。北方のカイバル地方およびシャンマル地方からダワシール渓谷にかけての一帯には〈バヌー・フダイル〉と呼ばれるベドウィンとニグロの混血が分布している。東部には〈シュルバ〉または〈スライブ〉と呼ばれ,工芸や狩りを得意とする集団がいるが,彼らはベドウィンとは異なり,おそらく同族結婚によって発生したものと考えられる。いわゆる人種偏見は弱く,王族などにみられる厳格な結婚のルールは,人種とは無関係で,階級または血統にかかわるものである。人口については,701万(1974国勢調査),1842万(1996年央国連推計)などの数字があるが,実情はよくわからない。国民が広範囲の砂漠に遊牧民として移動しているため,厳密な調査が困難であるうえ,政府が国土面積のわりに人口が少ないことを弱味と意識し,安全保障上から正確な人口を示したがらないという事情もあると思われる。住民の多くはスンナ派ムスリムで,なかでも厳格なワッハーブ派を信奉する。
近代史,政治 建国の翌1933年にアブド・アルアジーズ がアメリカのカリフォルニア・スタンダード石油会社(1944年からARAMCO (アラムコ)に吸収,合併)に石油利権を供与したとき,この国の近代史の主潮流の方向が決まった。当時の国民の生活は預言者ムハンマドの時代と大差なかったが,38年に東部ハサー地方で油田が発見され,第2次大戦後,アメリカによる石油開発が本格化するに伴い,生産量と石油収入が急増し,社会の発展を促した。
第2次大戦前,アメリカは石油開発の主役ではあったが,サウジアラビアそのものはイギリスの勢力圏にあった。サウジアラビア経済はスターリング圏に属し,政府財政顧問もイギリス人であった。アメリカがサウジアラビアの石油の戦略的重要性を認識し,両国関係が政府レベルで強化されるのは,アメリカがヨーロッパ戦線に全面参戦してからである。1943年,アブド・アルアジーズは合衆国大統領F.D.ローズベルトからパレスティナ問題に関する好意的書簡を受け取り,44年にアメリカはダハラーンに領事館を開設,同じ年サウジアラビア経済はドル圏に移行した。45年2月にアブド・アルアジーズはヤルタ会談帰りのローズベルトとスエズ運河の米艦上で会談を行った。こうして終戦時には,イギリスの影響力はほぼ排除され,サウジアラビアにおけるアメリカとイギリスの立場は逆転していた。大戦中,サウジアラビアは中立を装いつつも連合国側に好意的で,40年にドイツからのジェッダ公使館設置申入れを事実上拒否し,45年にいたってドイツに宣戦布告した。これによって戦後,国連の原加盟国となった。
中東の域内政治のレベルでは,東地中海沿岸におけるフランス,パレスティナにおけるユダヤ人,イラクおよびトランス・ヨルダンにおけるハーシム王制と敵対関係に立った。建国以来,周辺諸国との国境調整につとめたが,遊牧民を主体とする部族世界では国境概念が弱く,政府が画定した国境も住民の意識の上ではあまり意味がなかった。アブド・アルアジーズは部族社会とワッハーブ派の伝統の中で石油開発後の新時代に対応しなければならず,試行錯誤の統治を続けた後,53年に死去した。
後継のサウード・ブン・アブド・アルアジーズSa`ūd b.`Abd al-`Azīz(1902-69。在位1953-64)の時代は,東西冷戦の深まりとアラブ民族主義の高まりに直面し,振幅の大きい政策が展開され,とくに52年のエジプト革命で王制から共和制になったエジプトとの関係が動揺した。55年に反共のバグダード条約機構が成立するとこれに反対し,エジプト,シリアに接近したうえ,56年のスエズ動乱でイギリス,フランスと断交した。しかし,スエズ運河閉鎖による石油収入激減に対応できず,サウードは57年訪米して,石油開発で協力関係にあるアメリカから財政援助を受けるにおよんで,しだいにナーセル主義主導のエジプトから離反した。財政悪化を含め,統治・管理能力の欠如を暴露したサウードは,王族集団の信を失い,58年ファイサル 皇太子を首相として大幅な権限を委譲した。サウードが旧体制を代表したのに対し,改革推進派のファイサルは国際通貨基金(IMF)の勧告に基づいて財政改革を断行,対エジプト関係も修復したが,サウードとの関係が悪化したため,またもサウード親政が復活した。61年サウードが病気で倒れ,ファイサルが摂政となって施政権を行使,64年11月に正式に王位に就いた。世界はこの宮廷革命にあまり関心を示さなかったが,今日のサウジアラビアの基礎が固まるのは,ファイサル治下(在位1964-75)においてである。
これに先立つ62年にイエメンで王制派と共和派の間で内戦が起こると,サウジアラビアは王制派,アラブ連合(エジプト)は共和派を支援して,両国関係は悪化し,66年のファイサルによるイスラム同盟結成の提唱はサウジアラビアの主導権拡大を策するものとして,さらにナーセルの反発を招いた。67年に第3次中東戦争が始まると,アラブ諸国は対立を解消して対イスラエル戦に大同団結した。ファイサルは69年9月に第1回イスラム諸国首脳会議をモロッコで開催,イスラム世界の盟主の立場を強化し,同12月にナーセルと和解,70年7月にイエメン・アラブ共和国(北イエメン)を承認した。同年9月に登場したサーダート体制下のエジプトとはより親密になった。イギリス軍のスエズ以東撤退(1971)以後のペルシア湾岸地域の安全保障のため,イランと協力体制を樹立,サウジアラビアとイランの二つの地域大国で責任を負うというアメリカの現地肩代り政策に同調した。
73年に第4次中東戦争が勃発するや,ファイサルはアラブ産油国をリードして石油戦略を発動,生産削減と禁輸を実施,価格を引き上げて西側先進国に衝撃を与えた(石油危機 )。アメリカとの関係も一時緊張したが,74年に両国間に合同経済協力委員会が発足,関係は修復された。75年3月25日,ファイサルは甥の凶弾で暗殺され,ハーリドKhālid b.`Abd al-`Azīz(1913-82。在位1975-82)王政が誕生した。ファイサル時代は外交的に穏健路線,内政的には政治,経済,教育,文化のあらゆる面でゆるやかな近代化路線を定着させた。反対勢力も存在したが,68,69年の大量逮捕などで一応の安定を保った。
ハーリドはファイサルほどのカリスマ性を欠き,ファハドFahd b.`Abd al-`Azīz皇太子(1922-2005)が親米・開発路線の推進役を演じた。しかし,アラブ世界の総意尊重が王制護持を約束するとの立場から,エジプトの対イスラエル単独和平やアメリカ主導のキャンプ・デービッド合意 を否認した。79年のイラン革命は東部油田地帯のシーア派ムスリムを動揺させ,同じ年のメッカのカーバ襲撃事件は王族独裁体制の脆弱な体質を暴露した。イラン・イラク戦争の勃発(1980)は湾岸地域の安全保障問題を緊急なものとし,サウジアラビアはアメリカから空中警戒管制機(AWACS)の急派を得るとともに,81年5月に湾岸協力会議(GCC)を発足させ,自国軍事力を増強した。82年6月13日,ハーリドが病死,ファハドが円満に王位を継いだ。
王族独裁下で,国王は宗教最高指導者のイマーム を兼ねる。王族内の最強派閥は,名門の母を同じくする〈スデイリー家の7人〉として結束する兄弟グループで,これにはファハド国王,スルターン第二副首相・国防相,ナーイフ内相らが含まれる。これに対抗するのが,アブドゥッラー第一副首相・皇太子のグループである。双方とも保守・反共だが,近代化について前者は促進派,後者は慎重派,また対外関係では前者は親米派,後者はナショナリスト的とほぼ区分される。軍隊も二つの流れがあり,正規軍はスルターン国防相の属するスデイリー派,国家警備軍はその司令官を兼ねるアブドゥッラー派として,牽制しあう。これらサウード家の政敵としては分家のジルウィ家があり,油田や多数のシーア派ムスリムをかかえる東部州の知事を歴代担当している。
憲法,議会,政党,労組はいっさい存在せず,92年に設置された諮問評議会と地方評議会は民意くみ上げを名目とするが,国王に対する助言的な機能を持つにすぎない。司法はイスラム法(シャリーア)に基づく。社会的変動が進み,伝統的価値が揺れると,政治的摩擦が生ずるが,政治犯釈放の際に生活資金を与えるといったように体制保存のメカニズムとして財力による〈忠誠心買上げ〉が効力を発揮してきた。しかし,湾岸戦争 がこの国の政治的空気を一変させた。停戦後も米軍がサウジアラビアに駐留したからで,イスラムの伝統的価値を尊重する勢力が,異教徒の米軍にテロで反発を示すようになった。その反発の標的は,米軍駐留を受容する王制という古い秩序にも向けられた。行政州はリヤード,メッカ,東部,アシール,メディナ,ハーイル,北部辺境など14州に分かれる。
2005年8月ファハド国王が死去し,異母弟のアブドゥッラーが即位した。
経済,産業 国家財政を聖地巡礼者からの収益に頼り,国民は遊牧と小規模な農業で生活していた経済状況は,石油開発,とくに1970年代の石油収入急増によって,革命的変化をとげた。基本的な経済的特性は石油モノカルチャーであり,経済成長率,国内総生産や輸出における比重,外貨収入源など,いずれの観点からみても石油部門がずばぬけて上位を占める。これまでに石油の発見に成功したのは,アメリカのARAMCO,ゲッティ石油,日本のアラビア石油の3社だけである。石油の確認埋蔵量は諸説あるが,《オイル・アンド・ガス・ジャーナル》誌は2590億バーレル(1996)としている。
石油関連産業を推進させるため,1962年に石油鉱物資源公団(ペトロミン)が設立された。石油収入を石油化学を中心とする工業開発に投資し,将来の石油枯渇に備えて石油依存経済から脱皮し,石油化学製品などの輸出で経済自立できる基盤をつくるという発想である。70-71年度から五ヵ年計画を開始,81-82年度から第3次五ヵ年計画に入った。第1次,第2次の10年間に年平均成長率11.4%を維持し,国内総生産は3倍にふえた。第1次では石油輸出が,第2次では石油収入がさらに民間の建設,サービス事業を促して,高度成長を可能にし,海外投資も急増した。東部沿岸のジュバイルと西部沿岸のヤンボーを二大工業地帯とする計画が着手された。第3次計画の重点は人的資源開発,地域振興,民間工業振興などである。83年3月に石油輸出国機構(OPEC)が石油価格を大幅に値下げした結果,かなりの収入減となり,開発計画に初の緊縮気運をもたらした。
83-84年度以来,財政赤字を計上し,湾岸戦争で戦費の支出を強いられた90-91年度に赤字はピークに達した。この間,予算を編成できないほど財政が混乱した年度もあった。しかし,財政緊縮の努力と石油価格の上昇によって,90年代半ばにようやく財政健全化の見通しが開けた。五ヵ年計画の重点は,引き続き教育など人的資源開発に置かれている。
耕作地は国土の0.3%以下にすぎない。必要食糧の約90%を輸入している状況を打開するため,ベドウィン を定着させ,農業に従事させる試みがなされているが,成功していない。伝統的な遊牧を発展させることにより畜産部門は着実に成長している。
社会,文化 開発に伴う急激な社会変動をイスラムや遊牧社会の伝統的価値観とどう調和させるかが前例のない大課題である。労働力の面にそれが象徴的に表れている。自国労働力が絶対的に足りないのに,女性の社会活動は極端に制限され,車の運転さえ禁じられている。男女共学・共働も認められていない。遊牧民ベドウィンは定着労働を蔑視するために,開発労働力として期待しにくく,外国人労働者の導入で補われる。イエメン人,エジプト人,パレスティナ人など中東域内からだけではまにあわず,70年代半ばからはインド,パキスタン,インドネシア,フィリピン,韓国,台湾からも導入された。非アラブ系・非ムスリムの者は異なる価値観や生活様式を持ち込み,アラブ系ムスリムも土着のワッハーブ派ムスリムと違って,より柔軟な信仰生活や異なるイデオロギーをもって地元民と共通の言語で対話するので,ともに社会的動揺をもたらす。外人労働者を地元民から隔離する措置も試みられた。彼らが〈二級市民〉扱いで差別されていることも不満を醸成する。根本的解決は,彼らを国家社会にできるだけ平等に組み入れることだが,そうすると社会の本来的性格が変わってしまう。
留学帰国者がもたらす社会的影響もある。アブド・アルアジーズが1927年に最初の留学生14人をカイロに送って以来,その数は増え続け,現在ではアメリカを中心に常に1万人にのぼっている。彼らは自国で禁じられている飲酒や自由な男女交遊の経験をもって帰国するので,イスラムの規律・道徳の動揺は避けられない。留学帰国者は非王族テクノクラートとして,支配階級の内部にも新しい勢力をもちつつある。
第2次大戦後,電話やラジオを導入しようとしたとき,宗教界が強く反対したが,現在ではテレビも導入された。すべて国営であり,宗教番組が多い。言論・集会の自由はなく,王政内部の動きが国民に組織的に報道されることもなく,口づての情報がひそかに広がってゆく。
司法においては,見せしめのための公開の場所での処刑も行われる。1977年,王女のひとりが姦通罪で処刑された事件は,王族内部でもイスラムの規律・道徳が揺らいでいることを示している。ファハド国王は83年6月,イスラム法を現実に適応させるため〈イジュティハード 〉,つまり類推(キヤース)による新解釈の必要性を呼びかけたが,イラン革命によりイスラムの規律引締めへの圧力もあるため,内外の反応をみながら一進一退の形で社会変革を目ざしている。1996年に執行された公開斬首刑は71件であった。それが増加傾向にある事実は,公開斬首の対象である殺人,強姦,麻薬売買,武装強盗などの犯罪が増加していることを示している。 執筆者:浅井 信雄