サウジアラビア(読み)さうじあらびあ(英語表記)Kingdom of Saudi Arabia 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サウジアラビア」の意味・わかりやすい解説

サウジアラビア
さうじあらびあ
Kingdom of Saudi Arabia 英語
Al-Mamlaka al-‘Arabīya as-Sa‘ūdīya アラビア語

アジア大陸の南西端に位置し、アラビア半島の5分の4を占める王国。正称はサウジアラビア王国Al-Mamlaka al-‘Arabīya as-Sa‘ūdīya。北はヨルダン、イラク、クウェートと、アラビア湾(ペルシア湾)に臨む東は海上のバーレーンをはじめカタール、アラブ首長国連邦と、南東はオマーンと接し、西は紅海に臨み、南でイエメンと接する。南方および東方のイエメンとの国境線は確定していない。推定面積は214万9690平方キロメートル、人口2367万9000(2006推計)。首都はリヤド。

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自然

国土は、ヒジャーズ、アシール、ネジド、ハサの四つの地域に区分される。ヒジャーズは紅海の海岸に沿った南北1400キロメートル、幅15~60キロメートルの細長い地域で、北はアカバ湾から南はアシールの辺境に至る。東部はヒジャーズ山脈の急峻(きゅうしゅん)で重畳とした山地が延々とそそり立っている。高いものは2500メートルに及び、多くは火成岩からなり、豊富に金属を埋蔵している。アシールはアラビア語で難路、危険地という意味の地名で、ヒジャーズ地方の南からイエメンの北境までの地域である。東側のヒジャーズ山脈の延長地帯は急峻であり、2500メートル前後の山地が続き、道路は少なく、ロバさえ登攀(とうはん)はむずかしいといわれる。しかし、冬季には流水のみられるワジ(涸(か)れ川)が多く刻まれ、降雨も所によっては年間300ミリメートルに及ぶ。この降雨があるためアブハのような山岳都市も発達している。またワジ沿いには南北320キロメートル、東西75キロメートルほどの平原地帯が広がっており、ティハーマとよばれている。山地は東方に向かって緩い傾斜で降下し、この傾斜の緩さが土地の侵食を阻んで農耕地を提供している。ネジドは高地という意味で、サウジアラビアの中央部にある高原地帯をさす。おもに石灰岩と砂岩とからなるが、西部縁辺には幅35キロメートルに及ぶ火成岩の地域も存在する。この地域はサウジアラビアの中枢で、同国の国家統一のイデオロギーとなった戒律の厳しいイスラム教の宗派、ワッハーブ派の発祥地でもある。現在の首都リヤドもここに位置する。リヤドの年平均気温は26℃、年降水量は135.7ミリメートルと高温乾燥気候である。7月の平均気温は35.8℃に達し、雨はほとんど降らない。ハサは、地表面近くに水の存在する砂地という意味の地名である。サウジアラビア東部の地域をさし、東はアラビア湾に臨み、西はネジド地方、北はクウェート、南はルブ・アル・ハーリー大砂漠に接する堆積岩(たいせきがん)地帯である。油田はこの地域に集中しており、同国の莫大(ばくだい)な石油収入の源となっている。

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歴史

アラビア半島は7世紀以後イスラム文明が興隆し、10~15世紀にかけてエジプト、16世紀以降はオスマン帝国の支配を受けた。1902年、この地に割拠していた部族の一つサウド家の王アブドゥル・アジズ(通称イブン・サウド)がリヤドを中心に近隣諸部族を平定、1926年「ヒジャーズおよびネジドの王」の位についた。1927年にはイギリスとの協定により独立を達成、1932年国名をサウジアラビア(サウド家のアラビア)と改めた。1938年の油田発見に始まる石油開発は、第二次世界大戦後アメリカ資本のアラムコによって本格的に着手され、生産量が急増し、サウジアラビアは世界有数の産油国となった(アラムコはサウジアラビア国有化後の1988年、サウジアラビア国営石油=サウジアラムコに改称)。

 しかし、1953年アブドゥル・アジズの死後王位を継いだ国王サウドは放漫支出などの失政を問われて、1964年に弟のファイサルに王位を譲った。ファイサルは閣僚会議の創設など官僚制による政治の近代化を図るとともに、国家基本法の制定、司法機関の整備などの新政策を打ち出し、近代国家としての基礎を築いた。1975年3月ファイサルは甥(おい)のムサエド王子に暗殺され、ハリド皇太子が後を継いだ。ハリドはファイサルの政策を踏襲したが、1982年6月病死し、ファハド皇太子が国王に指名された。この間、1979年11月、サウジアラビアの一部族を主体とするイスラム教徒過激派が聖地メッカのハラム大モスクを占拠する事件や、東部油田地帯でシーア派イスラム教徒の暴動が発生し、大きな衝撃を与えた。その後も多数の死者を出した1987年のメッカにおけるイラン人巡礼団の反米デモと警察との衝突事件や、1995、1996年の対アメリカ軍爆弾テロ事件、2001年のアメリカ同時多発テロ(サウジアラビア出身のビンラディンが黒幕としてかかわったとされる)などが起きている。2005年のファハドの死後は、1995年以来病身の国王にかわって国政の実務をとっていたアブドラが即位した。

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政治

国王は王であると同時にイマーム(宗教上の長)でもあり、18世紀にムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブが提唱した、厳格なイスラム教への復帰を目ざすワッハービズムを建国の基礎としている。すなわち一種の政教混合政体で、国王の権限は立法、司法、行政各方面にわたり絶対のものである。しかしイスラム法(シャリーア)と慣習法によって政治を行うことが義務づけられており、その権限は無制限ではない。イスラム法は、ウラマーとよばれるイスラム教の長老たちによって解釈、運用されるものである。成文の憲法は存在していなかったが、1992年に制定された統治基本法で、サウジアラビアはイスラム法を法体系とする王制であることが明記され、憲法はコーランとスンナ(預言者ムハンマドの言葉や行為を意味する)であるとされた。なお、統治基本法とともに、諮問評議会法、地方行政法が制定された。政党はいっさい認められていないが、勅命により設置された閣僚会議には、国防航空、都市村落、内務、外務、国務、司法、イスラム事項、水資源電力、人事、高等教育、教育、文化情報、商工業、石油鉱物資源、財政、巡礼、経済企画、労働社会問題、農業、運輸、通信情報技術、保健などの各大臣が置かれている。これらは行政面で国王を補佐するのみならず、立法においても法案を提出し、国王がこれを裁可すれば勅命となる。議会に類する機関として、前述の諮問評議会法に基づき1993年に設置された諮問評議会がある。諮問評議会の機能は限定されており、立法権はないが立法機能は有すると考えられる。評議員は国王の勅令によって選出され、任期は4年で150議席。立法権は内閣の閣僚で構成される閣僚評議会がもち、新法制定には国王(首相)の承認が必要である。民法関係はおもにイスラム法が適用され、土地、水利権などに関しては慣習法によっているが、急速に発展していく経済に対応するため、税法、商法、労働法、鉱業法、外国投資法、産業保護法などに類するものが制定されている。

 地方行政に関しては、行政区としての州、その構成単位としての県、郡、区が定められている。現在13州に分割されており、1992年に公布された地方行政法により、各州に地方行政の責任機関として州会議が設置された。知事と副知事の任免は、内務大臣の勧告に基づき勅令によって行われる。

 2005年2~4月、民主化への改革の一環として地方議会選挙が実施された。地方議会の定員の半数を選挙で選ぶもので(あとの半数は任命)、サウジアラビア建国以来、初の全国規模の選挙となった。選挙権が与えられたのは21歳以上の男性で、有権者は事前に選挙人登録を行う必要があるが、選挙人登録者数は有権者の15~30%程度であったとされる。なお、軍人・警察等の治安関係者は有権者資格を有しなかった。

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外交

外交政策は、アラビア半島の安定化とイスラム世界の連帯、反シオニズム、親欧米などを基本としている。また、巨額のオイル・ダラーを武器に、開発途上国への資金援助、西側先進国との協調外交を推進している。中東問題については一貫して穏健な姿勢を示してきたが、1979年のエジプトとイスラエルの平和条約締結には反対を表明したため、一時エジプトとの関係が悪化した。しかし、その後回復している。1990年8月の湾岸危機にあたっては、米軍主体の多国籍軍の国内展開を受け入れた。2002年2月アブドラは、イスラエルの占領地からの撤退を条件とするアラブ諸国との関係正常化という中東和平案「アブドラ提案」を提示。同年3月のアラブ首脳会議において、このアブドラ提案を盛り込んだ「ベイルート宣言」が採択された。また2007年にはパレスチナ挙国一致内閣樹立を目ざすメッカ合意を成立させた。

 軍隊は志願制で、総兵力12万4500人、そのうち陸軍が7万5000人、海軍が1万5500人、空軍が1万8000人、防空軍が1万6000人を占める(2003)。ほかに国内治安を担当する国家警備隊、国境・沿岸警備隊がある。

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経済・産業

第二次世界大戦前の国家収入は、少量のナツメヤシの輸出と、毎年1回行われるメッカ巡礼に集まる各国からの巡礼者が直接間接に落とす金に依存していた。1938年東部ハサ地区で石油が発見されると、戦後の急激な石油需要の増大に対応して石油生産が大幅に伸張し、同国の経済は一変した。石油生産は1980年には年産36億バレルに達し世界第1位となったが、1982年からの「逆オイル・ショック」で石油の価格、生産量とも激減し、1983年には前年比30%減の17億バレルでソ連、アメリカに次いで世界第3位となった。しかし、確認埋蔵量は2007年現在2643億バレルで世界第1位であり、石油輸出国機構(OPEC(オペック))内の割当量も日量900万バレル前後で世界一と回復し、2007年は日量1041.3万バレルの原油生産量となっている。石油関連収入は国家歳入の約80%を占め、残りは関税、ザカート(喜捨)などからなっている。

 この莫大(ばくだい)な石油収入を基礎として政府は産業の総合開発計画を強力に推進し、国民の生活水準の向上に努力している。また国土開発の基本条件である交通網の整備にも力を入れている。2005年現在、鉄道はリヤド―ダンマム間のみで、総延長は1394キロメートルであるが、リヤド―ジッダ間約950キロメートルの新鉄道路線建設や既存路線の改良計画などを含むサウジアラビア鉄道路線拡大プロジェクトが進行中である。主要都市を結ぶアスファルト道路は着々と整えられ、主要都市には国内線用の飛行場も建設されている。一方では、石油収入は無制限でないことが認識されて、開発五か年計画が1970年から実施されるなど、経済開発計画の総合調整、モノカルチュア(単一商品)経済からの脱皮が試みられている。1975年の第二次五か年計画に続き、1980年5月から始まった第三次五か年計画では、石油収入の減少に伴い計画の手直しを余儀なくされた。経済開発計画はその後も続けて実施され、1995年からの五か年計画では石油依存経済からの脱却、補助金の削減、2000年からの五か年計画では国家収入の多角化、財政赤字ゼロ、生産拡大、国民の雇用機会増大などが主要目標とされた。この長期開発計画によって、経済資源や社会基盤の開発が順調に進められている。

 サウジアラビアは国土の98%が砂漠または半砂漠で、耕地面積は1.6%にすぎず、農牧業の国内総生産(GDP)に占める割合は5.2%となっている(2002)。農業の振興と遊牧民の定着化が図られ、農作物の一部は近隣諸国に輸出するまでになっているが、穀物をはじめ大部分の食料は輸入に依存している。2008年の国内総生産(GDP)は4675億ドル、国民1人当りGDPは1万8855ドル、1人当りの国民総所得(GNI)は2004年には1万0462ドル、2007年には1万5440ドルになっている。

 輸入は、第二次五か年計画の前半に毎年50%を超す伸びを続けてきたが、1980年以後伸び率が減少し、1982年は15.7%増の404億7258万ドルとなり、1994年には302億7207万ドルに落ち着いた。その後はふたたび増加し、2004年には445億1700万ドル、2007年には901億ドルとなっている。一方ほぼ100%を原油、天然ガスで占める輸出は2000年には775億ドル、2004年には1257億2800万ドル、2007年には2340億ドルと、貿易収支は依然として黒字である。おもな輸出品目は原油76.8%、石油製品8.7%、液化石油ガス(LGP)3%、おもな輸入品目は機械類26%、自動車14.9%、鉄鋼8.2%、医薬品2.8%、金属製品2.7%、衣類2.4%など(2006)。おもな輸出相手国は日本、アメリカ、韓国、中国など、おもな輸入相手国はアメリカ、中国、ドイツ、日本など。

 2005年12月、サウジアラビアは世界貿易機関(WTO)の149番目の加盟国となった。サウジアラビアはWTOの前身であるガット(GATT=関税と貿易に関する一般協定)へ1993年より加盟申請をしており、加盟交渉は12年に及んだ。

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社会・文化

サウジアラビア人の多くはアラビア半島出身の純粋のアラブ人であり、エジプト人などのように本来は異民族であったのがアラブ化してアラブ人となったものとは異なる。イスラム教の聖典コーランのアラビア語は、アラブ世界およびイスラム圏に共通であるが、サウジアラビア人は、一部を除いてこの正統アラビア語に近い用法と発音を保持している。住民は生活様式の違いはあっても、フィリピンからの出稼ぎ労働者などを除いてはイスラム教を奉じている者がほとんどである。イスラム教のなかにもいろいろな流れがあるが、サウジアラビアはスンニー派のなかのハンバリー学派ワッハーブ派が支配的である。この宗派は18世紀のサウジアラビアにおこり、その戒律はイスラム世界を通じてもっとも厳しく、現在でも在住外国人も含めた全住民に飲酒を禁じている。偶像崇拝は厳しく否定され、預言者ムハンマド(マホメット)の肖像画を掲げることはおろか、輸入した玩具(がんぐ)の人形やマネキンでさえも、その首を切ったうえでなければ店頭に飾ることが許されなかった。イスラムの二大聖地を守らなければならないという意識は国王が自らを「二聖地の守護者」であると名のることにも表れているが、伝統や戒律を守るため、聖地メッカ、メディナには異教徒の立ち入りが禁止されている。在外公館の設置も紅海沿岸の玄関港ジッダのみに限られ、内陸に位置する首都リヤドには設立が禁じられていたが、近年は多少緩和され、1983年にはすべての在外公館がジッダからリヤドに移転した。テレビ局も設置されているが宗教番組が多い。

 教育には力が入れられ、小学校6年、中学校3年、高等学校3年の六・三・三制で、義務教育は15歳(中学校)までだが、ほとんどが高等学校に進学するので高等学校まで義務教育とすることも検討されている。公立の学校は小学校から大学まで授業料は無料、大学では国家から寄宿費、書籍代などが支給される。男女共学はなく、女子の学校は別にあり、女子教育は文部省の管轄下から独立して女子教育庁の下にある。ファイサル時代に教員養成学校、女子専門学校のほか各種技術の専門学校が設けられ、また国費による海外留学の奨励も活発である。大学はキング・サウド大学(リヤド、1957創立、1980年まではリヤド大学と呼称)、キング・ファハド石油鉱山大学(ダハラーン、1963創立)、イスラム大学(メディナ、1961創立)、キング・アブドゥル・アジズ国王大学(ジッダ、1967創立)、イマーム・ムハンマド・ビン・サウド・イスラム大学(リヤド、1978創立)、キング・ファイサル大学(ダンマム、1975創立)などがある。女子部が設置されている大学もあるが、校舎、講義をも含むすべてが分離されている。

 すべての新聞、雑誌が文化情報省の監督下にある。1930年代にはアル・ビラード紙(ジッダ、1934創刊)、アル・メディナ・アル・ムナッワラ紙(ジッダ、1937創刊)などのアラビア語紙が創刊された。現在アラビア語の日刊紙は、アル・リヤド紙、アル・ジャジーラ紙、アルワタン紙、アルヤウム紙、アッシャルク・アル・アウサト紙、オカズ紙などが発行されている。英字紙としては、1961年創刊のニュース・フロム・サウジアラビア紙、1975年創刊のアラブ・ニュース紙のほかサウジ・ガゼット紙などがある。国営通信社としてサウジ・プレス・エージェンシーがある。サウジアラビア国営放送局はアラビア語放送(第1チャンネル)、英語放送(第2チャンネル。ニュースはフランス語も放送)、青少年向け番組・スポーツ番組(第3チャンネル)、国際ニュース・時事問題(第4チャンネル)の4チャンネルの放送を行っている。以前は、放送はすべてアラビア語であったが、1965年から1日4時間ほど英語放送が始められた。

 祝祭日は、他のアラブ諸国とは違ってサウジアラビア独自のものは存在せず、イスラム教の祝祭日だけである。(1)新年 ムハッラム(イスラム暦1月)の1日で、ムハンマド(マホメット)の聖遷(ヒジュラ)記念日。(2)アーシューラー ムハッラムの10日で、スンニー派では神アッラーがアダムとイブ、天国と地獄、生と死を創造した日。シーア派ではイマーム・フセインの殉教記念日とされる。(3)ライラ・アル・ミュラージュ ラジャブ(イスラム暦7月)の27日で、預言者ムハンマドがメッカからエルサレムのアクサー・モスクへ夜旅をし、さらに昇天(ミュラージュ)して一夜のうちにメッカに戻ってきたという奇跡を記念した日。(4)イード・ル・フィトル(イードル・フィトル) シャッワール(イスラム暦10月)の1日から3日までで、断食明けの祭り。(5)イード・ル・アドハー(イードル・アドハー) ズー・ル・ヒッジャ(イスラム暦12月)の10日から13日までで、犠牲祭とよばれる年間最大の祭り。

 なお、アラブ諸国でイスラム教の祝祭日とされる預言者ムハンマドの誕生日(マウリド・アッ・ナビー)は、サウジアラビアでは祝祭日とはみなされていない。

 もっとも重要な年中行事は、断食と巡礼である。断食はラマダーン(イスラム暦9月)の30日間、日の出から日没までである。巡礼はズー・ル・ヒッジャの7日から10日まで、世界各地から集まってきたイスラム教徒によって、メッカとその近郊で行われる。なおイスラム暦は、ムハンマドがメッカからメディナに移った西暦622年7月16日にあたる日を1月1日とする。太陰暦であるため太陽暦よりも1年がほぼ11日短い。

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日本との関係

サウジアラビアは日本にとって第1位の原油供給国で、日本の石油総輸入量の31.1%(2008)を占めている。1958年(昭和33)8月、アラビア石油は日本の海外石油自主開発第一号として、サウジアラビアとクウェートの中立地帯沖合いで開発を開始した。利権協定に基づき、サウジアラビア、クウェート両政府は、当初より同社にそれぞれ10%の資本参加、1974年からはそれぞれ30%ずつ、合計60%の事業参加を行っていたが、アラビア石油は2000年2月を期限とするサウジアラビアとの石油利権更新交渉に失敗、同年2月28日にサウジアラビアに対する採掘権は失効した。サウジアラビアは日本にとってロシアに次ぐ第24番目(2005)の輸出相手国である。またサウジアラビア側からみて日本は、輸出相手国として第1位、輸入相手国としてアメリカ、中国、ドイツに次いで第4位(2006)となっている。2008年には日本への輸出は5兆2917億円、日本からの輸入は8140億円となっている。日本からの各種分野における開発プロジェクトは活発化し、1975年に締結された経済技術協力協定に基づいて閣僚レベルにおける日本・サウジアラビア合同委員会が設けられた。日本はこの委員会を通じて両国合弁の石油化学プロジェクト、海水淡水化技術の共同開発、リヤドの電気工業学校に対する機材提供、専門家の派遣などを推進している。また、1998年(平成10)10月、「人造り(教育・職業訓練)」「環境」「医療・科学技術」「文化・スポーツ」「投資・合弁」を両国間の協力関係の拡充分野とし、多岐にわたる協力項目を盛り込んだ「日本・サウジアラビア協力アジェンダ報告書」が、両国関係閣僚によって署名された。なお、2005年は日本とサウジアラビアの外交関係樹立(1955)から50周年にあたる記念の年として、両国政府により年間を通じてさまざまな記念行事が実施された。

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『日本貿易振興会編・刊『ジェトロ貿易市場シリーズ295 サウジアラビア』(1989)』『丸岡将晃著『現代アラビアンナイト』(1994・日本貿易振興会)』『ジョン・B・フィルビー著、岩永博・冨塚俊夫訳『サウジ・アラビア王朝史』(1997・法政大学出版局・りぶらりあ選書)』『キャサリン・ブロバーグ著、竹信悦夫訳『目で見る世界の国々65 サウジアラビア』(2004・国土社)』『世界経済情報サービス編・刊『サウジアラビア(ARCレポート)』各年版(J&Wインターナショナル発売)』『小山茂樹著『サウジアラビア――岐路に立つイスラームの盟主』(中公新書)』『岡倉徹志著『メッカとリヤド』(講談社現代新書)』『岡倉徹志著『サウジアラビア現代史』(文春新書)』『アントワーヌ・バスブース著、山本知子訳『サウジアラビア 中東の鍵を握る王国』(集英社新書)』『保坂修司著『サウジアラビア 変わりゆく石油王国』(岩波新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サウジアラビア」の意味・わかりやすい解説

サウジアラビア
Saudi Arabia

正式名称 サウジアラビア王国 Al-Mamlakah al-`Arabiyyah al-Sa`ūdiyyah。
面積 214万9690km2
人口 3584万1000(2021推計)。
首都 リヤード

アラビア半島の大部分を占める国。宗教上の首都はメッカ。西部の紅海沿岸にはヒジャーズ山地(→ヒジャーズ地方),アシール山地が連なり,東部ペルシア湾岸はゆるやかに傾斜して高原台地を形成。国土の大部分は砂漠ステップであるが,大地の下には地下水が層をなして全体に行き渡り,伏流がオアシスとなって,リヤードなどの内陸都市や耕地を形成。16世紀にオスマン帝国の支配下に入り,遊牧民(→ベドウィン族)とオアシス農民の居住地であったが,1926年イブン・サウードがヒジャーズ王国およびナジド王国(→ナジド地方)を建国,1927年イギリスから独立を認められ,1932年「サウード家のアラビア」を意味する現国名のもとに両王国を統合した。住民の大部分はアラブ人で,アラビア語を話し,イスラム教スンニー派のなかでも戒律の最も厳しいワッハーブ派のイスラム教徒(→ワッハーブ派運動)。イスラム暦を使用し,司法も『コーラン』による。比較的雨量の多いアシール山地やオアシスでは,コムギ,キビ,トウモロコシ,アルファルファ,アラビアゴムノキ,コーヒーなどを栽培する。第2次世界大戦後,石油が開発され,世界でも有数の産出国で,最大の石油輸出国となっている。1980年代に外国資本の石油会社アラムコを国有化し(→サウジアラムコ),その収入により,経済,社会の近代化が推進されている。経済成長にあわせておびただしい数の外国人労働者が流入し,21世紀初めには総人口の 20~25%を占めるにいたった。憲法,議会,政党をもたない祭政一致君主制であるが,1991年の湾岸戦争後,民主化要求が高まり,21世紀初め,ゆるやかな改革が始まった。

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