改訂新版 世界大百科事典 「トランスナショナリズム」の意味・わかりやすい解説
トランスナショナリズム
transnationalism
1960年代末ごろからJ.S.ナイやE.L.モースらによって提唱された概念で,国際社会を考えるに当たって従来の国家単位ではとらえきれなくなったために,トランスナショナルな関係transnational relations(〈脱国家関係〉,〈民際的関係〉と訳されることもある)やトランスナショナルな組織transnational organizationの重要性の増大が指摘された。トランスナショナルな関係とは,ある国の民間の個人・団体と他国の民間の個人・団体あるいは政府との間で形成される関係のことで,その典型は,私企業間で行われる貿易や私人間の国境を越えた通信などに求めることができる。また,ある国の民間の個人・団体が他国の個人・団体とともにつくった組織をトランスナショナルな組織と呼ぶ。これらは,いずれも一国の枠をこえた関係・組織であるが,ある国の政府と他国の政府との間で形成される政府間関係intergovernmental relations(外交関係はその典型)や複数国の政府によって構成される政府間組織intergovernmental organization(国連をはじめとするいわゆる〈国際機関〉はこれに当たる)とは区別されている(図1)。また,一国の枠をこえた組織であるが,トランスナショナルな組織とも政府間組織とも異なる組織として,超国家組織supranational organizationという概念がある。これは,個々の国家よりも上位の権威をもつ組織のことである(図2)。現存する組織の中でこれに最も近いものとしてはEC(ヨーロッパ共同体)などの国際統合組織を挙げることができるが,もし将来世界連邦が建設されたとしたら,これは,典型的な超国家組織となる。
近代の国際社会では,伝統的に,国際関係の最も主要なチャンネルは政府間関係であり,国際関係の動向を決定する重要な主体は諸政府だけであった。ところが近年,とりわけ第2次大戦後は,テクノロジーの発達に伴いヒトやモノや情報の移動が国境を越えて行われることが日常化した結果,トランスナショナルな関係やトランスナショナルな組織が国際社会の動向を大きく左右するようになってきた。たとえば,貿易や対外投資の増大により,ある国と他国との間で行われる貿易や投資の動向が,両国政府間の外交や軍事関係以上に,両国の社会間に大きな影響を及ぼすことが日常化しているし,また,ある国の市民が,自国の政府をとおさずに,直接に他国の政府に何らかの働きかけ(たとえばデモ)を行った結果,その政府の政策が変更されるということも,今日しばしばみられるところである。さらに現在,トランスナショナルな組織とりわけ巨大多国籍企業が,時には政府以上に,国際経済や国際政治の動向に大きな影響力を与えていることは周知の事実である。
このように現代ではトランスナショナルな関係・組織が国際社会に大きな影響力を及ぼしているが(以下,このような現象を〈トランスナショナル化〉と呼ぶ),これを推進してきた主体は,〈南〉の開発途上社会よりも〈北〉の先進社会であり,また,一般市民よりもエリートであった。すなわち,通信,貿易,投資などのトランスナショナルなネットワークは,主として〈北〉のイニシアティブによってつくりあげられ,その結果,〈北〉の社会は,最新の高度の情報を速やかに手に入れることができるようになり,また〈南〉の資源の利用,〈南〉への製品の輸出および投資などによって,豊かな生活を享受することが可能になった。これに対し,〈南〉の社会には高度の情報・知識がさほど浸透せず,また貿易や投資の増大は,〈南〉の自立的発展を妨げ,〈北〉への従属を促進している例が少なくない。要するにトランスナショナル化は,南北の格差を拡大したのである。さらにたとえば,今日の日本社会において〈国際化〉(正確には〈トランスナショナル化〉と呼ぶべきだろう)ということが,主として,日本企業の対外進出や海外商品の大量の流入として意識されていることからもうかがわれるように,トランスナショナル化は,多国籍企業が,ほとんど一般市民のコントロールを受けることなく,推進してきたという傾向が強い。ところが一方,トランスナショナル化の影響は市民の身辺にまで深く浸透しており,たとえば,日本の市民が消費している食糧や衣料やエネルギーは原料の大半を海外に仰ぐまでになっている。つまり,市民の目から見れば,トランスナショナル化が,自分たちの生活に大きな影響を及ぼしているにもかかわらず,自分たちの手の届かないところで進められている。
したがって,〈南〉のイニシアティブによる,南北間の格差の減少を可能にするようなトランスナショナル化をいかにして実現するか,また,市民の手による市民のためのトランスナショナル化をいかにして実現するかが,トランスナショナル化の今後の重要な課題になる。すでにいくつかの〈南〉の諸国が〈新国際経済秩序〉(NIEO)や〈新世界情報コミュニケーション秩序〉の構想の実現のための努力を行っているが,これは,そのような課題克服のための一つの試みといえよう。また,たとえば,人権擁護のためのトランスナショナルな市民の組織であるアムネスティ・インターナショナルやトランスナショナルな反核市民運動が国際政治にかなりの影響力を発揮するようになってきたのも,トランスナショナル化を市民の手に取り戻そうとする動きのあらわれといえるだろう。
→国際統合 →相互依存
執筆者:大西 仁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報