日本大百科全書(ニッポニカ) 「キクユ中央協会」の意味・わかりやすい解説
キクユ中央協会
きくゆちゅうおうきょうかい
東アフリカ、イギリス植民地下のケニアにおけるキクユ人Kikuyuの政治結社。1925年、ハリー・トゥクHarry Thuku(1895―1970)の率いていた東アフリカ協会が非合法化されたのち、その流れをくむジョセフ・カンゲテJoseph Kangethe、ジェシー・カリウキJesse Kariukiなどによって結成された。東アフリカ協会の目ざした全ケニア人を対象とする方法をとらず、汎(はん)キクユに焦点を置き、ムランガで設立、すぐにキアンブー、ナイロビへと組織を広げた。1928年ナイロビでは、ジョモ・ケニヤッタ(後の初代ケニア大統領)が書記長となり、ケニアで初めてのアフリカ人による新聞『ムイグウィザニア』(調停者の意)を発刊、ケニヤッタは編集長として活躍した。当初の主要な活動目標は独立獲得よりも、伝統的文化擁護とキクユ民族の団結にあり、王領地条令への抗議、キクユ法令のキクユ語による出版、アフリカ人のコーヒー栽培禁止解除などであった。29年協会はイギリスにケニヤッタを送り、イギリス政府に、外国人の支配する土地の返却、教育機関の設置、立法審議会への参加、部族の慣習への不干渉などを訴えた。なかでも、白人に奪われたホワイト・ハイランド奪還と、女性の割礼禁止撤廃の要求は協会の二大目標であった。植民地政府の弾圧が強まるにつれ他部族との連帯も深め、民族主義運動の性格を鮮明にしていったが、40年カンバ人協会などとともに非合法化された。
[青木澄夫]