日本大百科全書(ニッポニカ) 「キクユ」の意味・わかりやすい解説
キクユ
きくゆ
Kikuyu
アフリカ東部、ケニアの首都ナイロビからケニア山西麓(せいろく)地帯に居住するバントゥー系農耕民。人口は446万(1989)。ケニアは多民族国家で言語的にもバントゥー系やナイロート系など多様な集団があり、民族移動が激しかった。キクユも例外ではなく、母胎となった集団はもっと東部に居住していたといわれる。これが、乾燥化や北部からのガラ人の進出、アラブ人の奴隷狩りを逃れ、16世紀ごろ、あるいは一説によればもっと早くに現在の地を占有した。その後カンバ人や先住狩猟民との接触やその吸収、隣接しているマサイ人との抗争、交流などを行いながらイギリス植民地体制下でその地に定着した。
彼らの神話によれば、始祖の4人の息子のうち、1人は槍(やり)をとってマサイの先祖に、1人は弓矢をとってカンバの先祖に、1人はゾウ狩りの槍をとって狩猟民に、そして残る1人は鋤(すき)をとってキクユの先祖になったという。この神話に示されるようにキクユは農耕に熱心で、丘陵地帯を覆っていた森林は焼畑によってすっかり開かれてしまった。もともとアワ、ヒエ、マメ類をつくっていたが、現在はトウモロコシが中心で、ケニア国内生産の重要部分を占めている。9~10のクラン(氏族)に分かれているが、王制や強力な首長制はもたない。クランや村落を超えた、男子の割礼を伴う年齢階梯(かいてい)制(マリカ)があり、青年はマサイなどと対抗する戦士となる一方、老人が政治力を保持していた。
白人入植者による土地収奪の影響を強く受け、1920年代から民族主義の高揚がみられたが、1950年代なかばからは、急進派が反英独立運動を組織し、「マウマウ団」として恐れられた。その指導者で、比較的穏健であったケニヤッタは63年のケニア独立の翌年、初代大統領となった。78年にケニヤッタが病死した後も、キクユ出身者はケニア政界で重要な地位を保っているがモイ(1978~2002大統領在任)への政権交替後は、やや冷遇された。
[渡辺公三]