ケニア(読み)けにあ(英語表記)Republic of Kenya 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケニア」の意味・わかりやすい解説

ケニア
けにあ
Republic of Kenya 英語
Jamhuri ya Kenya スワヒリ語

アフリカ東部の赤道直下にある国。正称はケニア共和国Jamhuri ya Kenya。北はエチオピアと南スーダン、東はソマリア、南はタンザニア、西はウガンダと接し、南東はインド洋に面する。国名はアフリカ大陸第二の高峰ケニア山(5199メートル)にちなむ。面積59万1958平方キロメートル、人口3861万(2009センサス)、4756万2772(2019センサス)。首都はナイロビで人口は310万(2009)。野生動物の楽園として多数の観光客が訪れるが、アフリカでもっとも産業の発達した国の一つでもある。イギリス連邦加盟国。

[赤阪 賢・楠 和樹]

自然

しばしば地形の博物館とも例えられるように多彩な地形がみられる。首都ナイロビの標高は1700メートル前後あり、国の中央部は標高1000~3000メートルの高原からなる。北から南にアフリカ大地溝帯が走り、その底部にトゥルカナ湖ルドルフ湖)、ナクル湖、ナイバシャ湖などが並ぶ。その西に西部高地が広がり、ビクトリア湖へと続く。高原上にはケニア山、エルゴン山(4321メートル)などの火山がそびえる。

 インド洋沿岸から、4000~5000メートルの高山まで植生も多彩である。北部は年降水量が250ミリメートル以下であり、ソマリアに近い東部も500ミリメートル以下で、ともに乾燥しきった半砂漠の景観を示している。西部のアフリカ大地溝帯の低部も乾燥し、希薄な植生となっている。中央高原と西部高地は、3~5月および10~12月の年2回の雨期に1000ミリメートル前後の降水量があり、サバナとなっている。国内には国立公園、国立保護区、野生生物保護区が59か所もあり、それぞれ豊富な動物相を誇っている。なかでも最大の規模のツァボ国立公園は、東西の2公園をあわせると、四国よりも広い2万0782平方キロメートルの面積をもつ。これらの国立公園に生息するのは、ゾウ、キリン、シマウマ、サイ、バッファロー、ヌー(ウシカモシカ)などの大形動物のほか、インパラ、トムソンガゼル、イランド(エランド)など小形から大形のレイヨウ類、ライオン、ヒョウ、チーター、ハイエナ、ジャッカルなどの肉食動物、カバ、ワニなどがおり、さらにフラミンゴなど鳥類も多様である。1997、2013年には「ケニア山国立公園:自然林」、1997、2001年にはシビロイ、中央島、南島をあわせた「トゥルカナ湖国立公園群」が、2011年には「ケニアグレート・リフト・バレー(大地溝帯)の湖群の生態系」がユネスコ世界遺産の自然遺産に登録された(「トゥルカナ湖国立公園群」は2018年に危機遺産リストに登録)。文化遺産としては「ラム旧市街」(2001)、「ミジケンダの聖なるカヤの森林」(2008)、「モンバサのジーザス要塞(ようさい)」(2011)、「ティムリカ・オヒンガ考古遺跡」(2018)が登録されている。

[赤阪 賢・楠 和樹]

歴史

古代ギリシア・ローマ時代、東アフリカの海岸地方はアザニアとして知られていた。また、アラブ人は今日のソマリアとケニアの海岸一帯を、ゼンジの地すなわち「黒い人々の土地」とよんでいた。10世紀末にはアラブ人の影響を受けてゼンジ王国が形成された。ポルトガルの航海者バスコ・ダ・ガマは、インド航路発見の旅の途中、1498年にモンバサやマリンディの港を訪問したが、当時はオマーンから多数のアラブ人が海を渡り交易基地を建設していた。ポルトガルは東海岸に根拠地(フォート・ジーザス)を築き、この地域の植民地化をねらったが、オマーンのアラブ勢力の強固な抵抗にあい不成功に終わった。アラブ人はラム、モンバサ、タカウングなどに都市を建設したが、その活動は海岸部の狭い地域に限られ、内陸には象牙(ぞうげ)や奴隷の交易ルートを確保するにとどまった。

 1823年、イギリスが初めてこの地に進出を開始したが、1884年にマッキノンSir William Mackinnon(1823―1893)がザンジバルスルタンから貿易特許を取得した。彼は、おもに内陸のウガンダとの取引をもくろみ、イギリス東アフリカ協会British East Africa Associationを設立した。当時、東アフリカではドイツ、イギリス両帝国が植民地争奪をめぐって激しく対立していた。1888年、イギリス東アフリカ協会は帝国イギリス東アフリカ会社Imperial British East Africa Companyに名称を変更し、イギリスの保護下に入った。1895年にはイギリス政府によって東アフリカ保護領の設立が宣言され、現在のケニアの国土の大半がそこに組み込まれた。ただちに、モンバサからウガンダへと通じるウガンダ鉄道の建設が開始され、植民地経営が本格化した。鉄道建設は住民の抵抗を受けたものの、多数のスワヒリ人傭兵(ようへい)とインド人労働者を動員することによって、1901年にはビクトリア湖岸のキスムまでの線路が敷設された。

 1907年、保護領の行政中心地はモンバサからナイロビに移転された。1899年に鉄道の駅が設置されるまで、マサイ語で「冷たい水Enkare Neerobi」とよばれるキャンプ地にすぎなかったナイロビは、以後急速に都市として発展していった。同じ時期、ウガンダ鉄道沿いの土地へのヨーロッパ人移住者の数が増加した。植民地政府は「ホワイト・ハイランド」という白人専用の大プランテーション地域を指定し、ヨーロッパからの移民を受け入れるとともに、そこに居住していたアフリカ人を排除し保護地区を設けて囲い込んだ。さらにホワイト・ハイランドを拡大するために、1902年にはウガンダ保護領東部州が東アフリカ保護領に組み込まれた。

 1920年、東アフリカ保護領は直轄植民地となり、ケニア植民地と命名された。植民地政府は先住民登録条令(キパンデ制度)を施行し、アフリカ人の移動を制限するとともに、その労働力を確保することを試みた。このころになるとアフリカ人住民の危機意識も高まってきて、土地を奪われたキクユ人によって東アフリカ協会(EAA:East African Association)が結成された。1921年には、キパンデ制度の撤回、家屋税、人頭税の引下げ、賃金切下げの阻止、土地返還などを要求し、反植民地運動を開始した。その後、キクユ人、ルオ人、ルイヤ人などの大民族集団の間に、ナショナリズム的な政治運動が芽生えた。1924年に東アフリカ協会の後身として結成されたキクユ中央協会(KCA:Kikuyu Central Association)は、書記長ジョモ・ケニヤッタを中心として活発な活動を開始した。

 第二次世界大戦中、アフリカ人の政治活動は全面的に非合法化されたが、戦後の1946年にイギリスから帰国したケニヤッタを党首に迎えたケニア・アフリカ人同盟(KAU:Kenya African Union。1944年結成)は活動を再開し、党勢を伸長させた。1950年ごろ、KAUの勢力拡大を恐れた植民地政府は、マウマウ団と称する反英武装結社の禁止を布告した。しかし、急進派の一部が蜂起(ほうき)し、親イギリス派のアフリカ人首長を襲撃しはじめると、植民地政府は1952年、非常事態を宣言してKAUに対する武力弾圧を開始した。この弾圧は、アフリカ人の死者1万人以上、ケニヤッタなど政治指導者を含めて逮捕者30万人以上を出す過酷なものであったが、同時にイギリスの植民地政策に転換を強いることにもなった。1954年、政府は土地問題と自治問題に関する変革に着手し、1957年の初めての選挙では、8名のアフリカ人議員が選出された。1959年、アフリカ人による即時独立を主張するケニア独立運動(KIM:Kenya Independent Movement)がオギンガ・オディンガJaramoji Oginga Odinga(1911―1994)を党首として結成された。1960年にはロンドンでケニア憲法会議が開催され、イギリスはアフリカ人の多数支配による政府樹立に踏み切った。ケニア・アフリカ人全国同盟(KANU:Kenya African National Union)やケニア・アフリカ人民主主義同盟(KADU:Kenya African Democratic Union)が結成され、1961年の総選挙ではKANUが第一党を占めた。1961年8月に釈放されたケニヤッタが総裁に就任、KANUによる内閣が組閣され、1963年12月12日にイギリス連邦内の自治国として独立を達成した。

[赤阪 賢・楠 和樹]

政治

独立1年後の1964年12月、ケニアは共和制を宣言、建国の父ケニヤッタが初代大統領に就任した。対立していたKADUも全員がKANUに入党し、実質的な一党制となったが、KANU内部で親英米派と親ソ連中国派との対立が激化した。1966年、後者の側についていた副大統領のオディンガが辞職し、ケニア人民連合(KPU:Kenya People's Union)を結成した。1969年の総選挙で、KPUは中央政府の激しい選挙干渉にもかかわらずルオ人やルイヤ人の支持を得て9議席を確保した。しかし、同年に施行された公共治安維持法により、オディンガを含むKPU幹部は投獄された。1969年にはKPUも非合法化され、強権政治によりケニアの一党制が維持された。1978年8月にケニヤッタが86歳の高齢で死去すると、同年10月、リフト・バレー地方の少数民族トゥゲン出身で副大統領であったダニエル・アラップ・モイDaniel Toroitich Arap Moi(1924―2020)が第2代大統領に就任した。

 モイは当初、ケニヤッタの強権的家父長的政治と一線を画したポピュリズム的(大衆重視あるいは大衆迎合的)政治を進めたが、左右両陣営からの不満が増大していった。1982年8月、ケニア空軍将校とナイロビ大学の学生など左翼陣営の急進派がクーデターを起こそうとしたが、陸軍や警察の支持を得たモイによって短期間で鎮圧された。以降、モイは憲法を改正して一党制を絶対化するなど、急速に強権的で家父長的な独裁政治体制を整えていった。モイの独裁政治に反対する勢力は、1990年代に入ると民主主義回復フォーラム(FORD:Forum for the Restauration of Democracy)を結成して政治と社会の民主化を強く要求しはじめた。これと呼応して国際社会からも人権抑圧を理由にした援助停止の要請が高まった。その結果、1991年12月にモイは憲法を改正し、複数政党制をふたたび導入することを決定した。1992年12月の大統領選挙では野党陣営の分裂に助けられ、モイが36%の得票率にもかかわらずかろうじて当選した(4選目)。その後、1997年に行われた大統領選挙においても野党陣営が分裂し、モイが当選した(5選目。モイは5選、24年間大統領職についた)。

 モイの引退が決まった後の2002年12月末に実施された大統領選挙では、ついに野党が大同団結して選挙協力組織である全国虹(にじ)の連合(NARC:National Rainbow Coalition)を結成し、その統一候補に推された民主党(DP:Democratic Party)党首のムワイ・キバキMwai Kibaki(1931―2022)が当選した(DPは1991年の複数政党制導入に伴いKANUから離党したキバキが結成)。それにより、独立以降初めての選挙による大統領の交代が実現し、KANU政権が終焉(しゅうえん)することになった。

 2007年の大統領選挙では、DPと複数政党で結成した国民統一党(PNU:Party of National Unity)候補で現職のキバキと、野党オレンジ民主運動(ODM:Orange Democratic Movement)から出馬したライラ・オディンガRaila Amolo Odinga(1945― )が全国を二分して争い、接戦の結果キバキが再選を果たした。しかしながら、中央選挙管理委員会の開票速報の中断やリードしていたオディンガが突然逆転されたりするなどのトラブルがあり、不正選挙の疑惑が生じた。その疑惑のさなか、キバキ勝利の最終結果報告を受けて深夜に異例の大統領就任式が強行されたが、それと同時に全国規模の暴動が発生し、ケニアは未曽有(みぞう)の混乱に陥った。与野党支持者の衝突や野党支持者と警察との衝突のほか、独立後の土地の不公平配分などに起因する民族間紛争が頻発した。

 一連の選挙後暴動の死者は、全国で1000人を超え、国内避難民の数は60万人以上とされる。しかしアフリカ連合(AU:African Union)をはじめとする国際社会の調停努力により、アナン(前国連事務総長。在任1997~2006)を立会人として、2008年2月に与野党の間で連立政権発足に関する合意が成立し、同年4月にキバキを大統領、オディンガを首相とする連立政権が発足した。連立政権は選挙制度改革、憲法の見直し、選挙後暴動の処理などの課題に取り組んだ。2010年8月には大統領権限の制限、地方分権、女性の政治進出などの画期的改革を盛り込んだケニアの新憲法が発布され、ケニアは新しい時代を迎えることになった。

 元首は大統領で任期は5年。議会は一院制で議員数(議席数)は222、議員の任期は5年である。

[赤阪 賢・楠 和樹]

経済・産業

独立後10年間の経済成長率は実質で平均6.7%に達し、ブラック・アフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ地域)では最高であった。しかし石油危機やその後のコーヒー価格の低迷、干ばつ、人口の急増などの要因が影響して、1970年代後半以後、経済成長率は大幅に鈍化した。その後、政府が推進する構造改革のもと、観光業や建設業に支えられて、着実な経済成長を遂げてきた。2007年の選挙後の混乱、干ばつ被害、世界的な燃油(燃料油)や食料価格の高騰などにより、経済成長は一時後退したが、建設業や観光業が回復し、2010年の成長率は5.6%と持ち直している。

 産業の中心は、紅茶、切り花、園芸作物、コーヒーを主要な産物とする農業である。ケニアの農業は、従来大農場と小農(小規模農業)の両者で成り立っていたが、独立以後ホワイト・ハイランドの300万ヘクタールもの広大な土地を、アフリカ人に分割する「100万エーカー計画」や「スクオッター計画」で、小農の育成に努めた。農産物はケニアの輸出の70%を占めるが、なかでも紅茶は2011年の全輸出額の23.8%を占め、農産物の輸出第1位の座を守っている。紅茶に続くのはバラの切り花など欧米、日本向けの園芸作物で、その割合は全輸出額の18.7%にも達している。輸出額第3位のコーヒーが占める割合が4.2%であることから、紅茶と切り花が今日のケニアの経済を支えているといえる。これら以外にも、ヨーロッパ向けの果物や野菜の輸出額も増大しつつあり、無公害の防虫剤としてジョチュウギク(除虫菊)の需要も高い。そのほか、サイザル麻、ワタ、サトウキビなどの商品作物、トウモロコシ、キャッサバ、サツマイモ、マメ類などが自給作物として栽培されている。牧畜も盛んで、ウシ1747万頭、ヤギ1712万頭、ヒツジ2774万頭、ラクダ297万頭(2009)が飼育されており、肉製品、皮革類の輸出も多い。

 ケニアは軽工業も発達している。食料、飲料、タバコ部門のほか、自動車部品・修理、化学、石油、繊維、靴、布などの工業が盛んである。モンバサに立地する石油精製工業地帯で生産された製品は近隣アフリカ諸国に輸出されている。ケニアの工業は、アフリカ東部、中央部全体をマーケットとして発達している。

 サービス部門では観光収入の比重が高く、2010年には161万人の観光客を迎えている。

 貿易は、輸出が年間48億6700万ドル、輸入が119億5700万ドル(2010)で、大幅な輸入超過となっている。輸入品目では、産業用機械、石油製品、原油、自動車などが大半を占めている。おもな輸入相手国は中国、アラブ首長国連邦、インドで、日本は第5位である。輸出品目としては紅茶、園芸作物、コーヒーなどが上位を占めている。おもな輸出相手国はウガンダ、イギリス、タンザニア、オランダである。通貨はケニア・シリング(KES)。ケニアはタンザニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジとともに域内協定を推進する東アフリカ共同体を構成している。

[赤阪 賢・楠 和樹]

社会・文化

ケニア国民は40以上の民族集団によって構成されている。もっとも人口が大きいのがキクユ人で、全人口の17%(2009)を占めている。以下、ルイヤ人(14%)、カレンジン人(13%)、ルオ人(10%)、カンバ人(10%)が続いている。これらの民族は政治勢力として競い合ってきた。多民族社会であるケニアの独立に際して、初代大統領ケニヤッタは「ハランベー」(力をあわせて働こう)というスローガンによって、民族対立を捨て国民的統合を求めた。2代目大統領のモイは、「ニャヨ」(あとに続こう)のスローガンで次のステップを踏み出し、自助による発展のため、愛、統一、平和の精神で各民族の共働を呼びかけた。一方、民族のそれぞれの文化に固有な伝統的生活様式もなお強く残っており、マサイ人やトゥルカナ人は自然に依存した牧畜文化を強く保持している。

 公用語は英語で、スワヒリ語が国語となっている。スワヒリ語はモンバサなどのインド洋岸のコースト・スワヒリと、ナイロビなどの高原地域のアップ・カントリー・スワヒリとが、それぞれ共通語として普及している。

 8年制(6~14歳)の初等教育は2003年から原則として無償化されている。大学は、ナイロビ大学などの公立総合大学が7校、公立総合大学を構成する単科大学が15校ある。公立校のなかには、1981年に日本の援助によって開校したジョモ・ケニヤッタ農工大学が含まれる。そのほかにも、私立大学が31校ある。

 宗教は、キリスト教の独立教会など多くの宗派が活発に活動しており、人口の83%(2009)がキリスト教徒である。イスラム教徒は人口の11%で、イスラム教は海岸地域や北部の乾燥地域に普及しているが、ナイロビなどの都市でも多い。

[赤阪 賢・楠 和樹]

日本との関係

日本とケニアは良好な関係を保っており、日本人旅行者も多い。1963年(昭和38)のケニア独立と同時に日本は国家承認し、翌1964年に駐ケニア大使館を設置した。1979年にはケニアが駐日ケニア大使館を開設している。2010年(平成22)のケニアから日本への輸出額は2600万ドルであった。おもな輸出品目はバラ、紅茶、コーヒーなどである。また、2010年の日本からの輸入額は7億3500万ドルで、おもな輸入品目は自動車、鉄鋼、電気製品などである。ナイロビなどケニアに在住の日本人は649人(2011)に及び、日本人学校もある。また、日本には549人のケニア人が在留している(2009)。

 日本は、ケニアにとって主要な協力・経済援助のパートナーの一つでもある。ケニアに対する政府開発援助(ODA)は1963年のケニア人研修生受入れに始まり、1964年には日本人専門家が、1966年には青年海外協力隊員がケニアに派遣されている。2009年の日本からの経済協力ODAは約3366万ドルで、同年までのODAの累計額は22億9068億ドルに達している。2009年までに、日本は3500人以上の技術専門家や青年海外協力隊をケニアに派遣し、ケニアから受け入れた研究員の累計者数は6647人にのぼる。

 日本とかかわりの深い人物としては、2004年にアフリカ人女性として初めてノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイがあげられる。彼女は2005年に来日した際に日本語の「もったいない」ということばを知って感銘を受け、環境保護や平和運動の実践理念としてこのことばを世界中に広めた。

[赤阪 賢・楠 和樹]

『吉田昌夫著『世界現代史14アフリカ現代史2 東アフリカ』(2000・山川出版社)』『武内進一編『現代アフリカの紛争――歴史と主体』(2000・日本貿易振興会アジア経済研究所)』『ARC国別情勢研究会編・刊『ARCレポート ケニア2010/2011年版』(2010)』『松田素二・津田みわ編『ケニアを知るための55章』(2012・明石書店)』『宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』(講談社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケニア」の意味・わかりやすい解説

ケニア
Kenya

正式名称 ケニア共和国 Republic of Kenya。スワヒリ語では Jamhuri ya Kenya。
面積 59万1971km2
人口 4895万2000(2021推計)。
首都 ナイロビ

アフリカ東部にある国。北は南スーダンエチオピア,西はウガンダ,南はタンザニア,東はソマリアと国境を接し,南東はインド洋に臨む。国土の西半はケニア高原を含む高地で,赤道直下にもかかわらず一年中日本の春秋に似た気候でしのぎやすく,特にケニア高原は肥沃で,人口が集中。海岸地帯は高温多湿。雨季は 4~6月の大雨季と 10~12月の小雨季の 2回。河川の多くは間欠的。変化に富む美しい自然と多種の野生動物が保存され,重要な観光資源となっている。7世紀頃から海岸地帯にアラブ人が定住,1498年バスコ・ダ・ガマモンバサに到来して以来,アラブ人とポルトガル人の間で海岸地帯の争奪戦が繰り返された。16世紀初期から約 200年間ポルトガルが占領,1729年から再びアラブ人に支配されたが,1887年イギリス東アフリカ会社に譲渡され,1895年イギリスの東アフリカ保護領となった。1920年代からキクユ族を中心として独立の機運が高まり,第2次世界大戦後激しい独立運動へと発展,1963年独立,翌 1964年共和国となった。1991年独立以来のケニア・アフリカ民族同盟による一党独裁を放棄,複数政党制に移行した。農業を主とし,コーヒー,サイザルアサ,トウモロコシ,小麦,チャ(茶),綿花などを産し,酪農も盛ん。工業は発展途上にあり,自動車組み立て,タイヤ,セメント,アルミニウム製品,家具,乾電池,靴,石鹸などの工場がある。地下資源は少ないが,マグネタイト,蛍石,天然ソーダ,石灰石などを産する。観光業も重要。住民の約 98%はアフリカ人で,キクユ族,ルオ族マサイ族ルイア族,カレンジン族などを主に,言語,文化を異にする約 70の諸族が住む。民族固有の伝統宗教のほかキリスト教徒も多い。公用語はスワヒリ語,英語。

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