改訂新版 世界大百科事典 「シュリーケ」の意味・わかりやすい解説
シュリーケ
Bertram Johannes Otto Schrieke
生没年:1890-1945
オランダの民族学・社会学者。従来,日本ではスフリーケと呼び慣らわされてきた。ライデン大学のイスラム学者ヒュルフローニェに師事し,学位取得の後,オランダ領東インド政庁に勤務するかたわら,バタビアの高等法律学校(現,インドネシア大学法学部)で,人類学,社会学を講じた。1934-35年にはアメリカに招かれ,その間の研究の成果は《外来のアメリカ人》として高く評価される。36年以後はオランダに戻り,アムステルダム大学の植民地民族学担当教授に就任。行政的手腕でも知られ,39年には文部大臣となり,45年にロンドンで開かれた第1回国際連合会議にオランダ代表として出席中,急死した。彼の主要な業績は英訳され,《インドネシア社会学研究》2巻として1956-57年に出版された。従来のインドネシア史研究の外来の文化要素に重きをおく傾向を批判し,その連続性を強調した点で功績は大きい。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報