アフリカ大陸南端に位置し、人口は約6千万人。1910年に英自治領南アフリカ連邦が発足した。48年にオランダ系移民を中心とする政党が政権を掌握後、人種差別の制度化が急速に進んだ。アパルトヘイト(人種隔離)撤廃を主導した故マンデラ氏が94年の全人種選挙後に初の黒人大統領になり、白人支配が終結。アフリカの経済大国で、20カ国・地域(G20)に加わる。中国やロシアなど主要新興国で構成するBRICSにも参加する。(ヨハネスブルク共同)
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基本情報
正式名称=南アフリカ共和国Republic of South Africa
面積=122万1037km2
人口(2010)=4999万人
首都=プレトリアPretoria(行政府),ケープ・タウンCape Town(立法府),ブルームフォンテインBloemfontein(司法府)(日本との時差=-7時間)
主要言語=アフリカーンス語,英語,ズールー語,コーサ語,ソト語,ツワナ語,ベンダ語,ヌデベレ語,ペディ語,スワジ語,トンガ語
通貨=ラントRand
アフリカ南端部にある共和国。アフリカーンス語ではRepubliek van Suid-Afrikaと書く。インド洋と大西洋に臨み,海岸線は約3000kmに及ぶ。東部の一角にレソト王国を包み,ナミビア中西部のウォルビス・ベイ,はるか南東方インド洋上のプリンス・エドワード諸島を領有する。第2次世界大戦後,アフリカ人への主権移行がアフリカ各地で次々に実現している状況のなかで,少数白人による人種差別政策アパルトヘイトをつづけて譲らず,アフリカ統一機構(OAU)はもちろん,国連におけるたび重なる非難決議を無視し,世界から孤立した存在となった。しかし,長く,また多くの犠牲を伴った反アパルトヘイト運動と国際的な環境の変化にともなって,アパルトヘイトの廃止が進み,94年には初の全人種参加選挙による新政権が発足。国際社会への復帰を果たした。経済の水準はアフリカでは最高位にあり,世界の先進グループに準じている。
まず目をひくのは,内陸高原盆地のへりにつくられた浸食崖線で,グレート・エスカープメントと呼ばれる。稜線の高さは一般に1500~2000mであるが,東半部でよく目だち,ドラケンスバーグ(竜の山)山脈と呼ばれている。とくに,硬い粗粒玄武岩(中生代)で保護されたバスト高地では標高3000mを超え,レソトとの国境のインジャスーティ山(3408m)が南ア共和国の最高点となる。内陸高原部の中心は,オレンジ川,バール川水系によって排水される南アフリカ高原であり,その北東にリンポポ川流域のトランスバール高原がつづき,北西部は定常流を欠くカラハリ砂漠の一部である。一方,海側の地帯は,東部では開析斜面が比較的単調に低下していくが,南部にはケープ褶曲帯(古生代)に属する標高1000~2000mの数条の山列がある。また,西岸部はナミブ砂漠の延長部に当たる。
国土は南緯22°~35°に広がり,ほとんどが暖温帯に属している。気温は緯度のほか標高や海岸からの距離に支配され,ドラケンスバーグ山脈を最低に,北西部のカラハリ砂漠および南東部のインド洋岸に向かってしだいに高くなる。ドラケンスバーグ山脈での平均気温は1月に約16℃,7月に約7℃,カラハリ砂漠ではそれぞれ約27℃と約15℃,インド洋岸では約23℃と約15℃である。西岸は1月に約18℃,7月に約12℃を示し,沖合のベンゲラ寒流の影響を受けて,夏の気温が低い。一方,降水は卓越風向,地形などに支配される。国土の東半部では,南東貿易風がインド洋の湿気を運ぶ夏(10~3月)が雨季となり,南西岸部はいわゆる地中海式気候で,大西洋から移動性低気圧がやってくる冬(5~8月)に雨が集中する。西部は局地的雷雨が不確かな雨をもたらす乾燥域となっている。降水量は全域とも年による変動が多かれ少なかれ目だつが,平均では,南東岸部のほか,ドラケンスバーグ山脈やケープ褶曲帯の高所で1500mmを超えるが,東岸から内陸高原に入るにつれて,500~800mm程度へと減少し,高原の西半部では,100~300mmへとさらに低下し,西岸の砂漠部では50mm以下となる。
執筆者:戸谷 洋
1992年の推計に基づくと,白人は512万で,全人口に占める割合は全体の13%にすぎない。非白人人口のなかでは,アジア人が100万(2.6%),カラード(混血)が335万(8.5%)を数えている。アフリカ人の人口は2988万で,全体の75.9%を占め,白人対黒人の比率は1対6近くになっている。にもかかわらず,白人は南アフリカ共和国の土地の90%近くを占有している。
白人ではアフリカーナーAfrikaanerとイギリス系白人が多く,その比率は6対4で,アフリカーナーが多数派を占めている。アフリカーナーはかつてボーア人と呼ばれていた。17世紀にオランダからケープ地方に入植した移民の子孫であり,みずからをアフリカーナーと称し,アフリカーンス語を話す。アフリカーンス語はオランダ語の一つの方言であり,本国から隔絶した間に変化したものである。入植初期の苦闘と,イギリスとのボーア戦争に敗北した苦い経験から,アフリカーナーは一種のナショナリズムを抱くにいたった。それはさらに〈神の真の僕(しもべ)はキリスト教徒である白人のみで,他の人種は白人に仕えるために存在する〉という選民意識につながり,アパルトヘイトという人種隔離政策を打ち出した。アフリカーナーは国民党の支持勢力であり,アパルトヘイト政策のもと,政治権力では多数派を構成したが,一方では経済的に恵まれないプーア・ホワイトpoor whiteも多数いる。アフリカーナーとイギリス系のほかには,ドイツ系,オランダ系,ユダヤ人なども居住している。
カラードはとくに旧ケープ州(1994年より東,西,北に三分割された)に多く,ケープ・カラードCape Colouredと呼ばれることがある。旧ケープ州の人口509万(1980)の構成は,白人人口126万に対し,カラード223万,黒人157万,アジア人3万となっており,カラードが最多数を占めている。カラードの先祖は,オランダからの初期移民と現地の黒人である。少数ながら奴隷として移住していたインドネシア人,マレー人の血も混じっている。何代も混血を重ねてきたため,肌の色や毛髪は白人と違わない白い肌や金髪から,黒い肌で縮毛まで,身体の形質はたいへん複雑である。そのため白人社会に溶け込んでいるカラードも多いが,ときたま黒人の遺伝的形質が発現して,白人社会から追放される悲劇が生まれる。アパルトヘイト政策に基づいて人種分類局という内務省内の機関が,つねにカラードの家系図をチェックし,白人社会へ潜り込む者を摘発していた。また,白人人口の純粋を保ち,カラード人口の増加を防ぐ目的で,白人と非白人の間の性的関係を禁じた背徳法が存在したが,85年廃止された。
アジア人は,インド,パキスタン,スリランカなどから移住したヒンドゥー教徒やイスラム教徒であるが,そのうちではインド人が多い。クワズールー・ナタール州に多く居住し,イギリスの植民地時代にサトウキビ畑の労働者として強制移住させられた人々の子孫が多いが,商人として自発的に移民した者もいる。黒人相手の商店や小工場の経営者,下級労働者が多い。ほかに鉱山の労働者として流入し,そのまま定住した中国人,マレー人がいる。また自由州(旧オレンジ自由州)はアフリカーナーの本拠で,最も人種差別が激しいため,アジア人の居住はほとんどみられない。日本人はアパルトヘイト下では名誉白人として遇されたが,それは居住地に関する限り白人なみに扱うという政府の方針によるものであり,白人専用のレストラン,ホテルの使用が許されたとはいえ,法的に身分が保証されているわけではなく,永住権も与えられなかった。
国の人口の大部分を占めるアフリカ黒人はバントゥー系に属する。人口の大きい部族を挙げると,ズールー族(568万),コーサ族(299万),北ソト族(235万),南ソト族(174万),ツワナ族(136万)などである(1980年)。1994年発足のマンデラ政権は,ズールー語,コーサ語,ソト語,ツワナ語,ベンダ語,ヌデベレ語,ペディ語,スワジ語,トンガ語の九つのアフリカ人の言語を,英語,アフリカーンスと並ぶ国語と定めた。
アパルトヘイト政策の一つであるパス法は,16歳以上のアフリカ人に,出生地,部族名,現住所,写真,指紋,雇い主の署名などの必要事項を備えた証明書を所持することを義務づけていた。そのため,証明書を不携帯であったり,指定された居住地を無断で離れている場合,身柄を拘束された。したがって,職を求めて地方から都市へ流入するアフリカ人は,つねに危機におかれ,もし浮浪者とみなされると,修正原住民法により,裁判なしに白人農場へ送られ強制労働を課せられた。しかし,国際非難が高まるなかで86年,法としては廃止された。ヨハネスバーグ南西の黒人居住区はソウェトSoweto(南西タウンシップの略)と呼ばれ,人口は公称60万であるが,実態は200万ともいわれる。
執筆者:赤阪 賢+編集部
17世紀の白人来住以前のこの国には狩猟・採集民のサン(ブッシュマン),牧畜民のコイ・コイン(ホッテントット)が住んでいた。15世紀以降,農耕民であるバントゥー系のアフリカ人が北方から南下し,広く全土に定着した。
1652年オランダ東インド会社は,ヤン・ファン・リーベックらを現在のケープ・タウンに上陸させた。東洋航路の補給基地を設けるためであった。その後オランダからの移民(ボーア人)が増加し,彼らはアフリカ人から土地を奪って入植地を拡大していった。18世紀末から19世紀初めにかけて,ナポレオン戦争中のイギリスは,ケープ植民地がフランスの手に落ちることを恐れて,同植民地を2度占領した。そしてナポレオン敗北後の1814年にケープ植民地は正式にイギリス領と認められた。イギリスの制度が導入されると,ボーア人はその支配を避けて北方内陸に移動(グレート・トレック)していった。ボーア人はナタール地方にナタール共和国を打ち建てたが,43年イギリス軍に敗れ,ナタールはイギリス領となった。ナタールを逃れたボーア人はイギリスと争いながら,ついにはトランスバール共和国(1852)とオレンジ自由国(1854)の二つの共和国の建国をイギリスに認めさせた。
1867年オレンジ自由国の西グリカランド地方でダイヤモンドの富鉱が発見されると,イギリスは直ちに同地方の割譲を要求し,71年イギリス領とした。次いで86年トランスバールのウィットウォーターズランドで金鉱が発見された。ケープ植民地の首相C.J.ローズは金鉱に着目し,トランスバール征服を企てたが失敗した。しかしケープ長官A.ミルナーは99年ボーア戦争を起こし,1902年イギリスはボーア人に勝利した。戦後イギリスはボーア人との和解を図り,10年にケープ,ナタール,トランスバール,オレンジ自由州の4州から成る南アフリカ連邦が成立した。
連邦最初の首相となったボータLouis Botha(1862-1919)の政府は,鉱山での白人労働者を保護するため,最初の人種差別法といわれる〈鉱山・労働法〉を1911年に制定し,13年にはアフリカ人を原住民指定地に隔離する〈原住民土地法〉を立法化した。第1次世界大戦中,南ア連邦は連合国側につき,ドイツ領南西アフリカ(現,ナミビア)を占領,戦後国際連盟の委任統治領とした。一方,大戦中にイギリスからの輸入が減少し,国内経済は自立化を迫られ,工業化が進んだ。24年に成立したヘルツォークの国民党・労働党連立政府は,プーア・ホワイトと呼ばれるボーア人労働者を保護するため,文明化労働政策の名の下に〈産業調停法〉〈賃金法〉などの人種差別法を立法化していった。これらの法によって,労働条件や賃金などが保護されるのは白人労働者のみで,アフリカ人労働者は法の保護の適用外とされた。これらの政策に対しアフリカ人は,最初の民族主義運動組織アフリカ人民族会議(ANC)や労働組合運動組織〈工商組合〉を結成し反対した。第2次世界大戦に際しても南ア連邦は連合国側に立って参戦した。
第2次大戦後にアジア,アフリカ各地で起こった反植民地闘争や,さらには国内のアフリカ人の反人種主義闘争の高揚に対し,国民党のマランDaniel François Malan(1874-1959)は白人有権者にアパルトヘイトの必要を訴え,1948年の総選挙で圧勝した。マランは選挙公約に基づき〈人種間通婚禁止法〉(1949),国民の人種別区分を定める〈人口登録法〉(1950),人種別に居住区を定める〈集団地域法〉(1950)などの人種差別法を次々と立法化し,またアフリカ人民族運動を弾圧した。
一方,50年代初め,全国土の13%にしかすぎない土地に隔離されたアフリカ人の間で,人口増加による土地不足への不満が高まった。政府は調査委員会を発足させ,その調査結果を受けて,59年〈バントゥー自治促進法〉を制定,国内に白人国家と黒人国家を並存させる〈分離発展政策〉を明らかにした。それに基づき部族ごとに10のバントゥースタン(ホームランド)をつくり,一定限度の自治をアフリカ人に許した。その結果63年のトランスカイ自治国の成立に続いて,70年代初めまでにシスカイなど10の自治国が成立した。政府はまた1970年バントゥー・ホームランド市民権法を制定,以後バントゥースタンをバントゥー・ホームランドあるいは単にホームランドと呼んでこれに〈独立〉を付与する方針をとり,76年のトランスカイの〈独立〉を皮切りにいくつかのホームランドが〈独立〉したが,南ア共和国を除いて国際社会はこのような〈独立〉を認めなかった。
南アフリカ連邦はその人種差別政策をイギリス連邦に非難されたのを契機に,1961年5月イギリス連邦を脱退し,新たに共和制に移行し,同時に共和国憲法を制定した。同憲法では大統領の下に白人議員のみからなる上・下両院制を採った。憲法では,大統領の権限は定められていたが,首相の権限については規定されていなかった。しかし実質的な政治的指導は首相が行ってきた(マラン以後は,1958-66年フルウールトH.F.Verwoerd,66-78年フォルステルB.J.Vorster,78-84年ボータPieter Willem Botha(1916-2006)が国民党を支持基盤としてその地位に就いた)。一方,非白人は国政への参政権を認められなかった。アフリカ人に対しては単なる諮問機関である原住民代表審議会を置き,カラードとインド人に対しても同様のカラード代表審議会とインド人代表審議会を置いた。
60年3月ヨハネスバーグ近郊のシャープビルで,アフリカ人民族会議(ANC)から分かれたパン・アフリカニスト会議(PAC)指導のパス法反対のデモ隊に警官隊が発砲,69人が死亡,300人以上が負傷したシャープビル事件が発生した。政府はANCとPACを非合法化し,約2万人を逮捕した。その後,黒人解放運動は低迷を続けたが,70年代に入って活動を活発化させた。72年5月トランスバール州のアフリカ人大学に始まった教育改革要求運動,73年2月ダーバンのアフリカ人労働者5万人によるストに続き,76年6月,ヨハネスバーグ郊外の黒人居住区ソウェトでアフリカ人学生の蜂起が発生した(ソウェト蜂起)。蜂起は大規模な出勤拒否闘争に発展,76年末までにアフリカ人の死者は700人を超えた。この蜂起は強大な警察力によって鎮圧されたが,蜂起の核となった南アフリカ学生運動(SASM)や黒人人民会議(BPC)は60年代後半から教育や文化など身近な問題で改革を進め,ビコSteve Biko(1946-1977)を中心に〈黒人意識運動〉と呼ばれる新しい運動方式を生み出した。
78年9月,フォルステル首相が情報省スキャンダル事件で失脚し,代わってボータが首相に選出された。ボータ首相は国民党内穏健派を支持基盤に,白人と有色人種の一定の融和をめざす漸進的改革路線をとった。81年に設けられた大統領評議会は人種別議会の設立を骨子とする次のような構想を明らかにした。(1)従来の白人議員のみの国会を改め,カラード,インド人にも参政権を認めて白人(議席数178),カラード(85),インド人(45)の人種別3院制の国会とし,各人種別社会の問題は各院で処理する。(2)各人種共通の問題で3院の合意が得られないときには,新たに設置される大統領評議会が最終決議を行う。同評議会の構成は白人20名,カラード10名,インド人5名,大統領が指名する25名の計60名からなる。(3)従来名目的であった大統領の権限を強化し,任期を7年とする。大統領は白人50名,カラード25名,インド人13名の国会議員からなる選挙委員会が選出する,というものであった。ボータ国民党政府は83年9月議会でまずこの憲法改正案を可決し,次いで同年11月白人のみの国民投票を行い,66%の賛成票を得た。この改正案に対し,国民党右派は白人支配の根底を揺るがすものとして反対し,野党進歩連邦党などの白人リベラル・グループも国民の大多数を占めるアフリカ人を除外しているとして反対した。カラードとインド人の間でも意見が分かれ,反対派はアフリカ人と合同して統一民主戦線(UDF)を結成した。この憲法改正に基づき,84年に人種別議会の選挙が行われたが,カラードの投票率は30%,インド人のそれは20%と低かった。新大統領にはボータ首相が選ばれた。
憲法改正による人種別3院制議会の導入を契機に84年9月,ヨハネスバーグ周辺のタウンシップを中心にアフリカ人の暴動が発生した。翌85年7月,政府は36行政区に非常事態宣言を発令し弾圧にあたった。政府は86年3月いったん非常事態宣言を解除し,4月にはパス法を廃止したが,6月に再度非常事態宣言を全土に発令し,反政府運動指導者をいっせいに逮捕した。非合法化されザンビアに本部を移したANCは1985年6月にカブエ会議を開き,執行部の拡大と戦術の強化を図った。国内合法反政府組織としては,82年に約600の組織が参加して結成された統一民主戦線(UDF),〈黒人意識運動〉の流れを汲むアザニア人民機構(AZAPO),ズールー族を基盤とするインカタ運動,それにツツDesmond Mpilo Tutu(1931- )大主教らの南アフリカ教会協議会(SACC),多くの学生組織が,それぞれの立場から闘争を展開し多くの犠牲者を出した。さらに80年代の闘争で重要な役割を果たしたのは,79年のウィーハン委員会の勧告によって承認されたアフリカ人労組である。新たに結成された多くの組合はしだいに統合され,かつ反政府政治組織と結びつき,また商品ボイコットをとおして地方自治組織と共闘した。特に85年11月に36労組が参加して結成された南アフリカ労働組合会議(COSATU)は,UDFと結び最大の連合体となった。これら反政府勢力の動きに対し,ボータ政権は88年2月,突如17組織の活動を停止し,指導者を逮捕したため,国際社会の態度はいっそう硬化した。
89年1月病気で倒れたボータ大統領に代わって国民党党首になったデ・クラークFrederik Willem De Klerk(1936- )は,9月の総選挙に向けてアフリカ人との対話路線を打ち出した。選挙の結果は,国民党は与党の地位を維持し,デ・クラークは新大統領に選出され,選挙公約に基づき10月にはW.シスルら8名のANC指導者を釈放した。さらに90年2月の議会開会演説で,ANC,PAC,南ア共産党の合法化,UDFなど33解放組織の活動禁止の解除を表明,そして2月11日には国家反逆罪で27年間服役していたマンデラを無条件で釈放した。マンデラはANC副議長に就任,病気療養中のタンボ議長に代わりデ・クラークの対話路線を受け入れて予備交渉に入った。
いくたの曲折をへて南ア史上初めての全人種が参加した制憲議会選挙が94年4月26~29日に実施された。選挙結果はANC62.6%,国民党20.4%,インカタ自由党10.5%,自由戦線2.2%,民主党1.7%,PAC1.2%で,投票率は80%と高かった。暫定憲法の規定に従い,マンデラANC党首が大統領,第一副大統領にT.ムベキ(ANC),第二副大統領にデ・クラーク(国民党)が就任し,ANC,国民党,IFPの連立政権が成立した。5月10日にプレトリアで実施された正副大統領就任式でマンデラ大統領は〈過去の対立を捨て,民主的な南アフリカを建設しなければならない〉と民族和解・協調を呼びかけた。
96年5月新憲法草案が制憲議会で採択されると,国民党は暫定憲法で規定された連立政権条項が廃止されたとして,マンデラ政権から離脱し野党となった。また,95年12月にツツ大司教を議長として発足した真実和解委員会の目的は,アパルトヘイト体制下で行われた政治的抑圧や人権侵害の真相を明らかにして被害者の復権を図るもので,懲罰や復讐を目的としたものではなかったが,この設立に国民党は強く反対した。さらに96年4月以降公聴会が進むとともに,ANC内の汚職が明らかとなった。
マンデラ政権は外交面では近隣諸国だけでなく国際社会と協調していく方針を明らかにした。そして94年5月にアフリカ統一機構,非同盟諸国連盟に加盟,イギリス連邦,国連に復帰した。近隣諸国に対しては同年8月に南部アフリカ開発共同体(SADC)に正式に加盟し,南部アフリカ地域の開発に協力しようとしている。さらに環インド洋構想を通してアジア諸国との関係も強化しようとしている。中国・台湾との関係では,中国は南アフリカに台湾との断交を要求し,96年11月南アフリカは断交を決意し,97年12月に中国との国交樹立を宣言した。
南ア共和国はアフリカ大陸最大の工業国であると同時に,豊富な鉱産資源をもっている。とくに第2次世界大戦以降,欧米資本の流入によって工業化は著しく進み,60年代半ば以降,国内総生産(GDP)に占める比重をみると,製造工業は鉱業を抜いて第1位(1987年で23.2%。ちなみに鉱業は13.2%)にある。しかし,この工業化によって恩恵を被っているのは白人で,全人口の18%を占める白人が国民総所得の74%を独占し,68%を占めるアフリカ人はわずか19%を得ているにすぎない(1987年)。工業は第2次大戦後,輸入制限,保護関税措置によって急速に発展した。工業総生産額は1946年の9億ラントから82年には176億ラントへ,就業人口も49万人から145万人へと増加した。業種は重工業から軽工業に至るまであらゆる分野にわたるが,鉄鋼,石炭液化,原子力発電を含む電力などのとくに戦略的に重要な部門は国家が介入する公社によって運営された。
鉱産資源は豊富で,石油を除くほとんどすべての鉱産物を産する。とくに金生産は全世界の2分の1を占め,世界第1位である。その他埋蔵量で世界第1位のものにマンガン,バナジウム,白金(プラチナ),クロムなどの希少金属類,第2位のものに蛭石(ひるいし),ダイヤモンド,ウラン,第3位のものにアンチモン,リン鉱石,チタンなどがある。これらの鉱産物の生産はイギリス系の鉱業会社によって行われてきたが,近年は南ア共和国系の鉱業会社の比重が増している。石油はアラブ産油国から輸出ボイコットを受け,イランから輸入していたが,イラン革命後はイランからの輸出も停止を受け,政府はその対策として豊富に産出する石炭を液化して石油を得る石炭液化公社の拡張を図るほか,石油のスポット買いによって備蓄を図った。
農業は白人の商業的大規模経営農業と,ホームランドでのアフリカ人による自給自足農業に分かれる。前者では広大な農場と機械化によってサトウキビ,タバコ,果物などの輸出用作物を栽培し,トウモロコシ,小麦の穀物を自給・輸出用に栽培している。一方,ホームランドでは土地は狭くやせており,土地に対する人口圧が高く,自給すらできていない。そのため成年男子の多くは鉱山その他に出稼ぎに出,その現金収入で家計を補っている。
国際収支をみると,金の輸出を除く貿易収支は毎年赤字で,金輸出によってその赤字を補塡しているのが南アの貿易構造である。工業化が進んでいるとはいえ,資本財,工業用原材料は依然先進国からの輸入に依存し,鉱・農産物などの一次産品を輸出している。貿易相手国は先進国が中心で,おもな輸出先はアメリカ,イギリス,ドイツ,日本,スイスで,輸入先もほぼ同様であり,対アフリカ貿易は7%以下である。資本収支は,EC,アメリカからの長期資本の流入が続いた。
経済のインフラストラクチャー部門は,他のアフリカ諸国に比べ格段に整備されており,鉄道総延長,舗装道路総距離はアフリカ一,自動車保有台数も同様である。さらに国外,国内の各地を結ぶ航空路網も発達している。主要商業港としてケープ・タウン,ポート・エリザベス,イースト・ロンドン,ダーバンがあり,その他近年鉱産物積出港として大西洋に臨むサルダニャ港(鉄鉱石),インド洋に臨むリチャーズ・ベイ港(石炭)が開港した。
英連邦諸国,EEC,日本,アメリカの部分制裁決議(1986)によって,南ア共和国進出企業の撤退が始まった。国際社会の経済制裁が強まるなかで南ア共和国経済は苦境に陥り,アフリカ人失業者の増大,社会不安の増大が起こった。しかし91年2月のデ・クラーク大統領のアパルトヘイト法廃止宣言により,同年中に国際社会の経済制裁は次々に解除されていった。
マンデラ政権の経済政策はアパルトヘイト体制下で生じた白人・黒人間の経済格差是正と,経済制裁により起こった経済不況からの回復を2本柱とする復興開発計画(RDP)であった。RDPは元来ANCの選挙公約であり,新政権はRDPを基にして94年11月RDP白書を公表した。その中で経済格差是正の方策として,(1)黒人に農地の30%の再配分,(2)5年間に100万戸の住宅建設,(3)1200万人の黒人に対する上下水道の整備,(4)公共事業を通じての250万人の雇用創出,(5)6歳以下の幼児・妊婦に対する保健・医療の無料化,(6)10年間の無償義務教育制度の導入などをあげた。同時に1989年以降のマイナス経済成長に対し,諸規制を緩和して外国資本の誘致に努めるとともに,従来の保護政策の下での輸入代替指向産業を国際競争力のある輸出指向産業へ代えていこうとした。しかし,政権交替による機構整備の遅れ,財源不足,人的資源の欠如などにより計画は著しく遅れた。このため政府は96年6月,新たな経済政策として長期マクロ経済成長戦略(GEAR)を発表し,経済成長の回復に重点を置いた。このため,これまでANCを支持してきた南ア労組会議(COSATU)は政府との対決の姿勢を強めた。
執筆者:林 晃史+編集部
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