改訂新版 世界大百科事典 「チベット探検」の意味・わかりやすい解説
チベット探検 (チベットたんけん)
チベットは世界の秘境で,世界のどの国からもこの地方に達するのは容易でなかった。そして何よりもこの地域のかたくなな鎖国制度が,長い間ここを世界の秘境にしてきた。
最初にここを訪れたのは,イエズス会の宣教師たちだった。1624年,ポルトガルのイエズス会士A.deアンドラデは,ヒンドゥー教巡礼団に加わって,チベット西部の小国グゲのツァパランに至った。ついで61年,2人のイエズス会士J.グリューバーとA.ドルビールは,中国からラサに達した。2人はそれからヒマラヤを越え,翌62年4月,インドのアーグラに着いた。1715年,イエズス会はフライヤーとI.デシデーリの2人をラダックのレーに派遣した。ついで2人はラサ行のキャラバンに加わり,翌16年3月ラサに入った。デシデーリはその後,5年間ラサに滞在した。18世紀末からはイギリスが積極的になり,何人もの通商使節をラサに送りこんだ。74年にG.ボーグル,82年S.ターナー,1811年にはT.マニングが送られたが,いずれも成功しなかった。ついで44年にはE.R.ユックとJ.ガベーという2人のラザリスト会士が,ラサに潜入した。2人はラサから東方に向かい,ヨーロッパ人として初めて東チベットの横断に成功した。
19世紀は清朝のチベット進駐により,チベットに入るのがもっとも難しい時代だった。イギリスのインド政庁は,パンディット(カシミールのヒンドゥー教徒)を訓練し,秘密裡にチベットの測量を行わせた。そのころチベット北部には,あいついでロシアの探検家が潜入したが,その中心人物はN.プルジェワリスキーだった。そのほか19世紀末には,W.W.ロックヒル,デュトルイユ・ド・ラン,グルナール,リトルデール夫妻,シュラーギントウェイト兄弟らが次々にチベットを探検したが,とくに大きな業積をあげたのはS.ヘディンだった。彼は1900年と1906-08年の2回にわたってチベットを探検し,トランス・ヒマラヤを発見したが,ラサには入れなかった。ところがこの聖都ラサには,日本の河口慧海が1901年3月,単独潜入に成功し,同年末,成田安輝もラサ入りに成功した。
執筆者:長澤 和俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報