明治・大正時代の仏教学者、チベット探検家。もと黄檗(おうばく)宗の僧。和泉(いずみ)国(大阪府)堺(さかい)の出身。幼名は定次郎。東京の哲学館(東洋大学の前身)を卒業したのち、1890年(明治23)に出家した。1897年仏教の原典研究の必要性を感じてインドに渡り、チベット語を学んだ。1899年ネパールを経て、ラダック(西チベット)の医師と称し、日本人としては初めて鎖国状態のチベットに入国し、セラ大学に学んだが、国籍が発覚して、1903年(明治36)帰国。1905年ふたたびネパールに入り、1913年(大正2)チベットに入国した。ネパールではサンスクリット仏典、チベットではパンチェン・ラマの協力を得て大量のチベット仏典を収集し、また植物標本や民俗資料などを入手。1915年帰国、東洋大学教授となり、仏教の原典研究、旅行記の執筆、チベット学者の養成などに尽くす。また東洋文庫でチベット語辞典(『蔵和辞典』)の編集にあたったが、完成をみず、昭和20年2月24日、80歳で没した。晩年は僧籍を返上したが、戒律を守り在家(ざいけ)仏教徒として布教に努めた。収集した原典資料などはすべて公共の機関に寄贈され、仏教学の発展に大きく寄与した。著書は、諸経の漢蔵対訳や『西蔵(チベット)文典』『西蔵語文法』『西蔵旅行記』など。
[石川力山 2017年6月20日]
『河口慧海著『チベット旅行記』(旺文社文庫/講談社学術文庫)』
明治〜昭和期の仏教学者,チベット探険家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
仏教学者。大阪府堺市出身。1890年黄檗(おうばく)宗で出家し,97年インドに渡り,1900年西チベットを経て翌年日本人として初めてラサに至った。セラ寺のガリ・ピトゥプ僧房にとどまったが日本人であることが露見し02年ダージリンに脱出,翌年ネパールで梵語仏典を集めて帰国した。《西蔵旅行記》(1904)を著した翌年再びネパールに行き,梵語仏典を集め,年末から翌06年にかけてインド訪問中のパンチェン・ラマと接触し,09年亡命中のダライ・ラマとも会った。14年シガツェ経由でラサに至り,翌年両大ラマから写本カンギュルとナルタン版大蔵経を受けとって将来した。21年僧籍を脱し,29年中国亡命中のパンチェン・ラマを訪ねた。前後を通じてチベットとその仏教の研究紹介にあたり,収集品のいっさいを公共機関に寄付した。《西蔵文典》(1936)などを著し,晩年《蔵和辞典》編纂を始めたが果たさなかった。
執筆者:山口 瑞鳳
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(川村邦光)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1866.1.12~1945.2.24
明治~昭和前期の仏教学者。黄檗(おうばく)宗の僧。本名定治郎。大坂生れ。哲学館卒。1897年(明治30)チベットに向け出発,1900年密入国したが,チベット語訳一切経に接するという宿志をはたせないまま03年帰国,チベット探検家として知られた。翌年再渡航して15年(大正4)に帰国,ナルタン版チベット大蔵経をもたらし,チベット仏教学の開拓者となった。のち僧籍返上。著書「西蔵旅行記」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…ツオンカパの名代として明の永楽帝に招かれ,大慈法王の称号を受けたシャキャ・イェシェーShakya ye shes(1354‐1435)が1419年に創建した大僧院,三つの仏教哲学研修学堂と一つの密教実践道場を持ち,ダライ・ラマ2世以来その直轄寺となった。ここには河口慧海,多田等観が留学した。当時の僧数は700人に近かったとされている。…
※「河口慧海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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