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河口慧海 かわぐち えかい

美術人名辞典の解説

河口慧海

仏教学者・チベット探検家。チベット仏教研究の泰斗。大阪堺生。幼名は定次郎。黄檗宗、五百羅漢寺海野希禅のもとで得度、慧海と号す。従来の漢訳仏典の正確さに疑問を抱き、チベット語原典の研究を志して、インドからチベットへ密入国、日本人で初めて首都ラサに至り、チベット一切経などの多数の貴重な資料を将来。のち黄檗宗の僧籍を返上、還俗して在家仏教を提唱、大正大教授、東洋文庫研究員をつとめた。『チベット旅行記』『在家仏教』等著書多数。昭和20年(1945)歿、80才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

河口慧海

堺市で樽(たる)職人の長男として生まれる。1897年にインドに渡り、チベット語を習得。中国僧と偽ってネパールに入り、1900年にヒマラヤ越えで鎖国中のチベットに。帰国後の1904年に「西蔵旅行記」(英訳名「スリー・イヤーズ・イン・チベット」)を記した。日本のチベット学の祖とされ、民族学者、探検家としても評価が高い。

(2016-10-18 朝日新聞 朝刊 兵庫全県・2地方)

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デジタル大辞泉の解説

かわぐち‐えかい〔かはぐちヱカイ〕【河口慧海】

[1866~1945]仏教学者・探検家。大阪の生まれ。仏教の原典研究を志し、鎖国状態のチベットに二度入国。多数の仏典を持ち帰り、仏教学の発展に寄与。著「西蔵(チベット)旅行記」など。

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百科事典マイペディアの解説

河口慧海【かわぐちえかい】

学僧,チベット探検家。堺の出身。井上円了(いのうええんりょう)の哲学館を卒業,1890年黄檗(おうばく)宗で出家。チベット訳一切経入手の大志をいだき,1900年ダウラギリ山を越えて鎖国中のチベットに入り,ラサで仏寺に入門,1902年脱出して仏典を日本へもたらした。
→関連項目亜東セラ寺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

河口慧海 かわぐち-えかい

1866-1945 明治-昭和時代前期の仏教学者,探検家。
慶応2年1月12日生まれ。黄檗(おうばく)宗の五百羅漢寺で得度。明治33年仏教の原典研究のためインドからチベットに密入国,日本人としてはじめてラサに到達。38年再渡航し,ナルタン版大蔵経などの仏典を入手して帰国。チベットの文化と仏教の研究・紹介をおこなう。また僧籍を返上して在家仏教をとなえた。昭和20年2月24日死去。80歳。大坂出身。哲学館(現東洋大)卒。本名は定治郎。著作に「西蔵旅行記」「西蔵文典」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

河口慧海

没年:昭和20.2.24(1945)
生年:慶応2.1.12(1866.2.26)
チベット仏教学者。大阪府堺市に生まれ,定治郎といった。哲学館(東洋大学)卒。大正大学教授。明治23(1890)年,黄檗宗で得度して出家する。漢訳仏典の正確さに疑問を抱き,チベット語仏典の研究を志し,鎖国体制のチベット探検を計画する。同30年にインドに渡り,チベットに密入国,同34年3月に日本人として初めてラサに至った。日本人であることが露見して脱出し,同36年,多くの仏典を持って帰国した。大正3(1914)年,再度,ラサに至り仏典を収集した。<著作>『西蔵旅行記』『西蔵文典』

(川村邦光)

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世界大百科事典 第2版の解説

かわぐちえかい【河口慧海】

1866‐1945(慶応2‐昭和20)
仏教学者。大阪府堺市出身。1890年黄檗(おうばく)宗で出家し,97年インドに渡り,1900年西チベットを経て翌年日本人として初めてラサに至った。セラ寺のガリ・ピトゥプ僧房にとどまったが日本人であることが露見し02年ダージリンに脱出,翌年ネパールで梵語仏典を集めて帰国した。《西蔵旅行記》(1904)を著した翌年再びネパールに行き,梵語仏典を集め,年末から翌06年にかけてインド訪問中のパンチェン・ラマと接触し,09年亡命中のダライ・ラマとも会った。

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大辞林 第三版の解説

かわぐちえかい【河口慧海】

1866~1945) 僧侶・探検家・チベット語学者。大阪府生まれ。大正大学教授。仏教教典を求めて鎖国下のチベットに二回潜入、チベット一切経など貴重な資料を持ち帰った。著「西蔵旅行記」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

河口慧海
かわぐちえかい

[生]慶応2(1866).堺
[没]1945.2.24. 東京
日本で最初にチベットに入国した仏教学者。 1897年ダージリンにおもむき,99年1月ネパールから単身入国。セレー・アムチ (セラの医師) と称してセラ寺に留学したが発覚して追放され,1903年5月帰国して『西蔵旅行記』を新聞に発表した。 04年再度インドに渡り,翌年ネパールでサンスクリット語写本を集め,13年にチベットに再入国,15年8月帰国した。この間に各版大蔵経や写本大蔵経,蔵外文献の収集のほか,仏画,仏像,法器や地質,動植物などの標本も集めてそれぞれの学界に貢献した。 26年還暦に際し還俗して在家仏教運動に入り,29年中国に亡命中のパンチェン・ラマ6世をたずねた。またチベット学の後進を育て,36年『西蔵語文典』を著わし,チベット語辞典の編纂も志したが成らなかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

河口慧海
かわぐちえかい
(1866―1945)

明治・大正時代の仏教学者、チベット探検家。もと黄檗(おうばく)宗の僧。和泉(いずみ)国(大阪府)堺(さかい)の出身。幼名は定次郎。東京の哲学館(東洋大学の前身)を卒業したのち、1890年(明治23)に出家した。1897年仏教の原典研究の必要性を感じてインドに渡り、チベット語を学んだ。1899年ネパールを経て、ラダック(西チベット)の医師と称し、日本人としては初めて鎖国状態のチベットに入国し、セラ大学に学んだが、国籍が発覚して、1903年(明治36)帰国。1905年ふたたびネパールに入り、1913年(大正2)チベットに入国した。ネパールではサンスクリット仏典、チベットではパンチェン・ラマの協力を得て大量のチベット仏典を収集し、また植物標本や民俗資料などを入手。1915年帰国、東洋大学教授となり、仏教の原典研究、旅行記の執筆、チベット学者の養成などに尽くす。また東洋文庫でチベット語辞典(『蔵和辞典』)の編集にあたったが、完成をみず、昭和20年2月24日、80歳で没した。晩年は僧籍を返上したが、戒律を守り在家(ざいけ)仏教徒として布教に努めた。収集した原典資料などはすべて公共の機関に寄贈され、仏教学の発展に大きく寄与した。著書は、諸経の漢蔵対訳や『西蔵(チベット)文典』『西蔵語文法』『西蔵旅行記』など。[石川力山]
『河口慧海著『チベット旅行記』(旺文社文庫/講談社学術文庫)』

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世界大百科事典内の河口慧海の言及

【セラ寺】より

…ツオンカパの名代として明の永楽帝に招かれ,大慈法王の称号を受けたシャキャ・イェシェーShakya ye shes(1354‐1435)が1419年に創建した大僧院,三つの仏教哲学研修学堂と一つの密教実践道場を持ち,ダライ・ラマ2世以来その直轄寺となった。ここには河口慧海,多田等観が留学した。当時の僧数は700人に近かったとされている。…

※「河口慧海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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