河口慧海(読み)カワグチエカイ

デジタル大辞泉 「河口慧海」の意味・読み・例文・類語

かわぐち‐えかい〔かはぐちヱカイ〕【河口慧海】

[1866~1945]仏教学者・探検家大阪の生まれ。仏教の原典研究を志し、鎖国状態のチベットに二度入国。多数仏典を持ち帰り、仏教学の発展寄与。著「西蔵チベット旅行記」など。

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精選版 日本国語大辞典 「河口慧海」の意味・読み・例文・類語

かわぐち‐えかい【河口慧海】

  1. 仏教学者。チベット探検家。大正大学教授。大阪府出身インドチベット語を学び、チベットに入国。多くの経典、史書を持ち帰り、仏教、チベット文化の研究に貢献。著「チベット旅行記」「西蔵(チベット)文典」など。慶応二~昭和二〇年(一八六六‐一九四五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「河口慧海」の意味・わかりやすい解説

河口慧海
かわぐちえかい
(1866―1945)

明治・大正時代の仏教学者、チベット探検家。もと黄檗(おうばく)宗の僧。和泉(いずみ)国(大阪府)堺(さかい)の出身。幼名は定次郎。東京の哲学館東洋大学の前身)を卒業したのち、1890年(明治23)に出家した。1897年仏教の原典研究の必要性を感じてインドに渡り、チベット語を学んだ。1899年ネパールを経て、ラダック(西チベット)の医師と称し、日本人としては初めて鎖国状態のチベットに入国し、セラ大学に学んだが、国籍が発覚して、1903年(明治36)帰国。1905年ふたたびネパールに入り、1913年(大正2)チベットに入国した。ネパールではサンスクリット仏典、チベットではパンチェン・ラマの協力を得て大量のチベット仏典を収集し、また植物標本や民俗資料などを入手。1915年帰国、東洋大学教授となり、仏教の原典研究、旅行記の執筆、チベット学者の養成などに尽くす。また東洋文庫でチベット語辞典(『蔵和辞典』)の編集にあたったが、完成をみず、昭和20年2月24日、80歳で没した。晩年は僧籍を返上したが、戒律を守り在家(ざいけ)仏教徒として布教に努めた。収集した原典資料などはすべて公共の機関に寄贈され、仏教学の発展に大きく寄与した。著書は、諸経の漢蔵対訳や『西蔵(チベット)文典』『西蔵語文法』『西蔵旅行記』など。

[石川力山 2017年6月20日]

『河口慧海著『チベット旅行記』(旺文社文庫/講談社学術文庫)』

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20世紀日本人名事典 「河口慧海」の解説

河口 慧海
カワグチ エカイ

明治〜昭和期の仏教学者,チベット探険家



生年
慶応2年1月12日(1866年)

没年
昭和20(1945)年2月24日

出身地
大阪府堺市

別名
幼名=定治郎,僧名=慧海仁広(エカイジンコウ)

学歴〔年〕
東京哲学館(現・東洋大学)卒

経歴
明治20年井上円了の東京哲学館に入り、宗教、哲学を学び、23年東京・本所の黄檗宗五百羅漢寺の僧となって慧海仁広の僧名を受けた。チベット語の仏教原典を入手するため30年6月神戸港を出航、インドでチベット語を学び、34年ネパールを経てチベットの首都ラサに入る。仏門に入って調査、35年文献を持って脱出、36年に帰国し、翌年「西蔵旅行記」(上下)を刊行。38年再びネパールに入り、大正2年までインド大学でサンスクリット語を学び、チベット入り。ダライ・ラマとも交歓、チベットの一切経(大蔵経)や仏像、仏画などを得て5年帰国。10年僧籍を返上、のち大正大学教授、東洋文庫研究員などを務めた。“チベット学”の祖といわれる。他の著書に「西蔵文典」「漢蔵対照・国訳 維摩経」「梵蔵伝訳・国訳 法華経」「西蔵語文法」などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「河口慧海」の意味・わかりやすい解説

河口慧海 (かわぐちえかい)
生没年:1866-1945(慶応2-昭和20)

仏教学者。大阪府堺市出身。1890年黄檗(おうばく)宗で出家し,97年インドに渡り,1900年西チベットを経て翌年日本人として初めてラサに至った。セラ寺のガリ・ピトゥプ僧房にとどまったが日本人であることが露見し02年ダージリンに脱出,翌年ネパールで梵語仏典を集めて帰国した。《西蔵旅行記》(1904)を著した翌年再びネパールに行き,梵語仏典を集め,年末から翌06年にかけてインド訪問中のパンチェン・ラマと接触し,09年亡命中のダライ・ラマとも会った。14年シガツェ経由でラサに至り,翌年両大ラマから写本カンギュルとナルタン版大蔵経を受けとって将来した。21年僧籍を脱し,29年中国亡命中のパンチェン・ラマを訪ねた。前後を通じてチベットとその仏教の研究紹介にあたり,収集品のいっさいを公共機関に寄付した。《西蔵文典》(1936)などを著し,晩年《蔵和辞典》編纂を始めたが果たさなかった。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「河口慧海」の意味・わかりやすい解説

河口慧海
かわぐちえかい

[生]慶応2(1866).堺
[没]1945.2.24. 東京
日本で最初にチベットに入国した仏教学者。 1897年ダージリンにおもむき,99年1月ネパールから単身入国。セレー・アムチ (セラの医師) と称してセラ寺に留学したが発覚して追放され,1903年5月帰国して『西蔵旅行記』を新聞に発表した。 04年再度インドに渡り,翌年ネパールでサンスクリット語写本を集め,13年にチベットに再入国,15年8月帰国した。この間に各版大蔵経や写本大蔵経,蔵外文献の収集のほか,仏画,仏像,法器や地質,動植物などの標本も集めてそれぞれの学界に貢献した。 26年還暦に際し還俗して在家仏教運動に入り,29年中国に亡命中のパンチェン・ラマ6世をたずねた。またチベット学の後進を育て,36年『西蔵語文典』を著わし,チベット語辞典の編纂も志したが成らなかった。

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百科事典マイペディア 「河口慧海」の意味・わかりやすい解説

河口慧海【かわぐちえかい】

学僧,チベット探検家。堺の出身。井上円了(いのうええんりょう)の哲学館を卒業,1890年黄檗(おうばく)宗で出家。チベット訳一切経入手の大志をいだき,1900年ダウラギリ山を越えて鎖国中のチベットに入り,ラサで仏寺に入門,1902年脱出して仏典を日本へもたらした。1913年―1915年再び探検。著書《西蔵(せいぞう)旅行記》。
→関連項目亜東セラ寺

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朝日日本歴史人物事典 「河口慧海」の解説

河口慧海

没年:昭和20.2.24(1945)
生年:慶応2.1.12(1866.2.26)
チベット仏教学者。大阪府堺市に生まれ,定治郎といった。哲学館(東洋大学)卒。大正大学教授。明治23(1890)年,黄檗宗で得度して出家する。漢訳仏典の正確さに疑問を抱き,チベット語仏典の研究を志し,鎖国体制のチベット探検を計画する。同30年にインドに渡り,チベットに密入国,同34年3月に日本人として初めてラサに至った。日本人であることが露見して脱出し,同36年,多くの仏典を持って帰国した。大正3(1914)年,再度,ラサに至り仏典を収集した。<著作>『西蔵旅行記』『西蔵文典』

(川村邦光)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「河口慧海」の解説

河口慧海 かわぐち-えかい

1866-1945 明治-昭和時代前期の仏教学者,探検家。
慶応2年1月12日生まれ。黄檗(おうばく)宗の五百羅漢寺で得度。明治33年仏教の原典研究のためインドからチベットに密入国,日本人としてはじめてラサに到達。38年再渡航し,ナルタン版大蔵経などの仏典を入手して帰国。チベットの文化と仏教の研究・紹介をおこなう。また僧籍を返上して在家仏教をとなえた。昭和20年2月24日死去。80歳。大坂出身。哲学館(現東洋大)卒。本名は定治郎。著作に「西蔵旅行記」「西蔵文典」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「河口慧海」の解説

河口慧海
かわぐちえかい

1866.1.12~1945.2.24

明治~昭和前期の仏教学者。黄檗(おうばく)宗の僧。本名定治郎。大坂生れ。哲学館卒。1897年(明治30)チベットに向け出発,1900年密入国したが,チベット語訳一切経に接するという宿志をはたせないまま03年帰国,チベット探検家として知られた。翌年再渡航して15年(大正4)に帰国,ナルタン版チベット大蔵経をもたらし,チベット仏教学の開拓者となった。のち僧籍返上。著書「西蔵旅行記」。

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367日誕生日大事典 「河口慧海」の解説

河口 慧海 (かわぐち えかい)

生年月日:1866年1月12日
明治時代-昭和時代の仏教学者;探検家。東洋大学教授
1945年没

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世界大百科事典(旧版)内の河口慧海の言及

【セラ寺】より

…ツオンカパの名代として明の永楽帝に招かれ,大慈法王の称号を受けたシャキャ・イェシェーShakya ye shes(1354‐1435)が1419年に創建した大僧院,三つの仏教哲学研修学堂と一つの密教実践道場を持ち,ダライ・ラマ2世以来その直轄寺となった。ここには河口慧海,多田等観が留学した。当時の僧数は700人に近かったとされている。…

※「河口慧海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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