改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ東アフリカ会社」の意味・わかりやすい解説
ドイツ東アフリカ会社 (ドイツひがしアフリカがいしゃ)
Deutsch-Ostafrikanische Gesellschaft
1885年にドイツ皇帝の勅許状を得た特許会社。ペータースCarl Peters(1856-1918)が創設したドイツ植民会社は,1884年にザンジバルの対岸,現在のタンザニア本土の数部族の首長から保護条約と称するものを手に入れた。これをもとに翌年,ドイツ政府は同地域をドイツ保護領とし,ドイツ植民会社に統治を委託することを宣言した。会社名はドイツ東アフリカ会社と変わり,ペータースらはザンジバルの首長と交渉して,ダル・エス・サラーム,パンガニの2港と,首長が権益を持つ海岸地帯を内陸部との通商のため無関税で使用する権利を得た。ドイツの進出はイギリスを刺激し,帝国イギリス東アフリカ会社設立の契機となった。しかしドイツ東アフリカ会社の内陸部への進出は数多くの住民との衝突を引き起こした。まずパンガニ地域でアラブ人首長のアブシリに率いられて1888年に始まった反乱がインド洋沿岸部へ広がった。会社はビスマルクに援軍派遣を懇請し,ウィスマンを司令官とする軍隊が89年末に反乱を鎮圧した。アブシリの反乱と同時期にジグア族のヘリやヘヘ族のムクワワらも反乱を指揮し,ドイツ東アフリカ会社は統治能力を失った。このため90年4月1日よりドイツ政府が直接植民地を統治することになり,会社は通商のみに活動を限定されて存続した。
執筆者:吉田 昌夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報