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植民地 しょくみんちcolony

翻訳|colony

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

植民地
しょくみんち
colony

本来は,民族や国民の一部が本来の郷土あるいは国土を離れて新しい地域に移住して形成する社会を意味する。古代ギリシアの植民市ローマコロニア coloniaは,このような移住地としての植民地の例である。「地理上の発見」以後の近代世界における植民地とは,単なる移住地とは異なり,本国に対して政治的従属関係にある地域を意味する。名目的には独立国でありながら,実質的には他国の政治的経済的支配のもとにおかれた国を半植民地国家と呼ぶ。かつての中国やバルカン諸国はその例である。植民地は形式的には,属領保護国または保護地,租借地委任統治信託統治などに分類することができる。

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デジタル大辞泉の解説

しょくみん‐ち【植民地】

ある国からの移住者によって経済的に開発され、その国の新領土となって本国に従属する地域。武力によって獲得された領土についてもいう。

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百科事典マイペディアの解説

植民地【しょくみんち】

本国の政治的・経済的支配下に置かれた地域をいい,完全に本国の主権下にある領土(狭義の植民地)のほか,自治領保護領租借地信託統治委任統治領なども含まれる。
→関連項目韓国統監府コロニアル・スタイル産業革命拓務省プランテーション

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世界大百科事典 第2版の解説

しょくみんち【植民地 colony】

植民地という概念は,ラテン語coloniaに起源をもち,それが近代ヨーロッパ語のcolony(英語),colonie(フランス語),Kolonie(ドイツ語)として広く用いられ,さらに近代日本において,その日本語訳として定着したものである。この概念は古典古代,近代ヨーロッパ,近代日本と三重の歴史的位相をもち,それに応じて,意味する内容も拡大してきた。近代以前には,植民地という言葉はおもに,ある集団か,その一部が従来の土地を離れて新たな地域に移住し,そこで形成する社会を意味した。

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大辞林 第三版の解説

しょくみんち【植民地】

ある国からの植民によって形成された地域。
特定国の経済的・軍事的侵略によって、政治的・経済的に従属させられた地域。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

植民地
しょくみんち

アジア、アフリカ、ラテンアメリカの大部分の地域、すなわち今日第三世界とよばれている地域は、その多くが植民地であった土地である。植民地化された時期や植民地状態から離脱した時期にはそれぞれの地域によってかなりの相違はあるが、ヨーロッパ近代国家の発展がこれらの地域を犠牲として遂げられてきたことにおいて共通するものがある。[斉藤 孝]

植民地ということば

英語のコロニーcolony、ドイツ語のコロニーKolonieなどのことばは、ラテン語のコロニアcoloniaに由来する。これは、ローマ人が征服地に移住してつくった町であり、移住植民地の原型をなすものである。古代ギリシアでも人口が増加すると、海外に移住して娘都市を建設し、それらをラテン語のcoloniaという語でよぶようになった。このコロニアとは、本国からの人口の移住と移住民による開拓とをあわせて意味している。英語のプランテーションplantation、セツルメントsettlementなども同様である。日本語の「植民地」ということばはコロニアに由来するヨーロッパ語からの翻訳である。以前は「殖民地」とも書いたが、最近は「植民地」の語が一般に用いられている。
 植民地ということばを集団的な移住地および開拓地という意味に用いることは、たとえばアメリカ合衆国を独立以後もヨーロッパのコロニーとか、アルゼンチンにおけるドイツ人居住地をコロニーとよぶことにも現れている。同様に北海道も日本人の植民地であるということができる。しかし、近代世界においては属領(ディペンデンシーdependency)ないし新しく獲得した領土(テリトリーterritory)を意味するようになった。すなわち、16、17世紀以降、ヨーロッパ諸国はヨーロッパ以外の地域を征服して、経済的収奪や政治的支配の対象とし、それらの地域を植民地とよんだのである。
 ここに植民地は単なる集団的移住地とは異なった異民族支配の地域、宗主国に従属する地域を意味するようになったのである。[斉藤 孝]

植民地の歴史

いわゆる大航海時代の16世紀、中・南アメリカにおいては植民地収奪の惨憺(さんたん)たる光景が進行した。スペインの植民地経営は略奪政策の典型であり、先住民(インディオ)は奴隷化され、労働を強制された。強制労働による死亡や自殺、反乱の失敗による殺害などによって、植民地における先住民の人口は急速に減少した。この人口の激減に対する措置としてとられたものが、アフリカからの黒人奴隷の輸入である。黒人奴隷の輸入と使用は15世紀末ごろからポルトガルなどで行われていたが、16世紀前半、スペインのカルロス1世は年間4000人の黒人奴隷を供給する特権をフランドル人に与えた。ここに近代植民地奴隷制の起源がある。スペインとポルトガルの中・南アメリカ支配に伴って植民地奴隷制が発展したが、17世紀に入ると、オランダ、フランス、イギリスに覇権が移り、奴隷貿易が盛んとなった。
 黒人奴隷はアフリカで捕らえられ、「奴隷海岸」などからアメリカ大陸や西インド諸島へ送られ、売買された。16世紀以降、全体としてどれほどの黒人が西半球へ送られたかは正確にはわからないが、輸送中に約3分の1が死に、西半球に着いたのは3分の2程度であったといわれ、合計約2000万人がアフリカから流出したという計算がある。フランス革命の影響などによって19世紀中葉には植民地奴隷制はほぼ廃止された。しかし、奴隷制廃止による新しい労働力の必要と、さらにヨーロッパ資本主義の発達によるインド・中国における窮乏農民の流出などの事情によって大量の人口移動が行われた。かくて、とくに19世紀後半において世界の民族分布は大きく変貌(へんぼう)した。
 スペイン、ポルトガルにかわって、オランダ、イギリス、フランスが新たに植民地争奪戦に登場した。これらの国々はどれも東インド会社を設立し、貿易の独占権を与え、東インド会社を通じて植民地を獲得した。各国の間に激しい植民地の争奪戦が展開したが、結局、七年戦争(1756~63)後イギリスが圧倒的な勝利を収め、フランスの北アメリカ植民地は失われ、制海権はイギリスに帰した。かくてイギリスは広大な植民地を支配し、その「世界の工場」としての優越を誇るようになった。
 イギリスの重商主義政策は北アメリカにおいて市民の反撃に遭遇し、18世紀後半には北部13州はアメリカ合衆国として独立した。しかし一方、南アジアにおいてはイギリスはインドやビルマ(ミャンマー)を植民地化した。18世紀後半からイギリスでは産業革命が進行し、植民地の役割に大きな変化をもたらした。すなわち、紡績機の発明などによる産業資本の発展は、原料供給地としてのインドおよびイギリス製品の市場としてのインドを必要とするに至った。こうしてインドの土着の伝統産業は破壊され、綿花とともにアイやアヘン、茶などの輸出に頼らざるをえないように社会を基礎的に変容させ、インドの経済的従属は決定的となった。イギリスはアヘン戦争によって中国の門戸を開き、中国社会の自主的発展を阻止して、中国を半植民地とした。
 19世紀において資本主義の発達は著しく、工業の発達による生産力の増大はいよいよヨーロッパ列強と後進的諸地域との格差を広げ、後進的諸地域はますます従属化していった。この時期における「東方問題」とよばれるトルコ帝国内の諸民族の独立運動と列強の介入の結果は、トルコの支配下にあった諸民族をトルコの専制的統治から解放したかわりに、新たにイギリスの従属下に置いたものであった。
 ヨーロッパ資本主義が発展するにつれて植民地諸地域ではモノカルチュアが形成された。キューバの砂糖やブラジルのコーヒー、メキシコの綿花のように世界市場に輸出するために単一の作物を栽培し、それがその地域のおもな部門になっているものをモノカルチュアとよんでいる。これらの地域では経済の諸部門が直接的、有機的に連携しているのではなく、世界市場を媒介として絡み合っているのであり、その地域の経済は植民地の宗主国あるいは有力な資本主義国の利害に左右されざるをえない。たとえばブラジルは形式的には独立国であるものの、実際上はコーヒー栽培に特化され、その輸出を握るイギリス、のちにアメリカ合衆国に経済的に従属する半植民地的な状態にあったのである。[斉藤 孝]

帝国主義と植民地

1870年代から第一次世界大戦に至る時期は「帝国主義」の時代とよばれる。この間にヨーロッパの強国は競って海外領土の獲得に乗り出し、遅れて日本、アメリカ合衆国もこの競争に加わった。とくに「暗黒大陸」とよばれ、無主地とみられたアフリカは、その奥地の事情が知られるにつれて、好個の領土的分割の対象とされた。20世紀初めにはアフリカはほとんどヨーロッパ諸国の領有するところとなった。ここに設定された人為的な国境は、今日のアフリカにおいて深刻な問題を引き起こしている。
 アジア諸国は列強の植民地となるか、名目は独立国であっても内実は経済的に半植民地化された。わずかに外国資本の直接投資のなかった日本だけが植民地化を免れた。太平洋の島々も余すところなく列強の領有するところとなった。かくて、世界の諸地域は強制的に資本主義に編入された。列強の植民地領有への衝動は、激化しつつあったヨーロッパ諸国の国際対立を転位するために、さらに、国内における深刻な社会的対立から国民の関心を外に向けるために、はぐくまれたものである。しかも、この間に資本主義は自由競争段階から独占段階へと移行し、資本主義的大国は資本輸出に力を注いだ。植民地は、従来の商品市場および原料供給地としての意義に加えて新たに資本の投下地としての意義を担った。鉄道(たとえばドイツによるバグダード鉄道)の敷設と経営は、この時期に特徴的な外国企業の活動である。さらに、列強の激しい対立によって、植民地のなかには、軍事的要衝や軍港として重要な役割をもつに至った所もある。[斉藤 孝]

植民地諸民族の抵抗

列強の支配に対して植民地における諸民族の抵抗は激烈なものであった。19世紀末から20世紀にかけてのブーア戦争や中国における義和団の蜂起(ほうき)などはその代表的な例である。しかし、この時期においては反植民地運動は国際的に連帯することが困難であり、結局、自らの植民地化を許さざるをえなかった。
 第一次世界大戦は、植民地諸民族に対して重要な影響を及ぼした。イギリス・フランスの対ドイツ戦争は、インド兵やセネガル兵らの植民地兵の動員によって支えられ、また、イギリスはドイツ側にたったトルコ帝国の崩壊を促進するために、アラビアの民族運動にも支援を与えなければならなかった。大戦中にヨーロッパ勢力の後退によって、植民地や従属地域のなかには、工業が発達し、民族主義的なブルジョアジー階級の伸張と工場労働者の増加が著しく、民族運動の新たな担い手が育成されたところもあった。民族独立の要求に覚醒(かくせい)した諸民族にとってアメリカ大統領ウィルソンの唱える「民族自決」は、独立運動の旗幟(きし)となった。たとえば、朝鮮民族の三・一運動や中国の五・四運動、エジプトのワフド運動などはそのような民族運動であった。しかし、ウィルソン自身が諸民族の期待を裏切り、民族運動はより革命化した方向をたどるようになった。共産党の国際組織であるコミンテルンが、植民地の民族運動を帝国主義国における労働者階級の革命運動との連関において位置づけたのは、このような情勢を背景としている。[斉藤 孝]

第二次世界大戦後の植民地の独立

植民地の歴史において第二次世界大戦は画期的な意義をもっている。戦時中の植民地諸地域に対する圧迫、中国をはじめとする諸民族の枢軸国に対する抵抗、イギリス・フランス・オランダの後退、コミュニケーションの技術的発達などの諸条件は、独立運動を促進した。とくに、侵略に対する抵抗運動において組織的であり、社会の変革と建設の展望において積極的な綱領をもった共産党は、戦後アジアにおいて勢力の伸張が著しかった。日本の敗戦ののち、初めて独立の声をあげたのはインドネシアとベトナムであり、続いてフィリピン(1946)、インドおよびパキスタン(1947)が、ビルマ(ミャンマー)、セイロン(スリランカ)、朝鮮の南北政権(韓国・北朝鮮)がそれぞれ建国を宣言した。1949年には、中国に中国共産党を指導勢力とする中華人民共和国が成立した。以後、59年までにラオス、カンボジア、マラヤ連邦(マレーシア)、シンガポールが独立し、97年7月には香港(ホンコン)、99年12月にはマカオが中国に返還されて、アジアにおいては植民地・半植民地が独立を達成した。[斉藤 孝]

植民地体制の崩壊

アフリカでは、第二次世界大戦の戦場になった北アフリカのアラブ系民族の間に民族運動が高揚し、1952年エジプト革命が起きた。56年にはナセル政権はスエズ運河の国有化を宣言し、これに対してイギリス・フランスはスエズ戦争を起こしたが、失敗に帰し、これがアフリカにおける植民地体制の崩壊の一つの里程標となった。57年のガーナの独立は「ブラック・アフリカ」の独立の出発点となった。1960年は「アフリカの年」とよばれ、カメルーンからモーリタニアに至る17か国が独立した。アルジェリアにおいては、久しく民族解放戦線の独立闘争が続き、62年フランスはアルジェリアの独立を認めた。以後もアフリカにおいては諸国の独立が続き、独立した国々は相次いで国際連合に加盟した。
 アフリカに続き太平洋の島々が独立した。これらは多く「ミニ・ステート」とか「マイクロ・ステート」とよばれる小さい国であり、ナウル共和国などは人口約1万人、面積21平方キロメートル、ともに世界最小である。このようにして、アジア、アフリカ、オセアニアにおける独立国はしだいにその数を増し、世界人口の95%以上が独立国のもとに置かれることになった。[斉藤 孝]

植民地と国際法

植民地は、その政治的・法的・経済的諸関係を管理する権利を、その地域を征服し獲得した国に握られており、植民地に対する宗主国はこの権利を最大限に行使した。この権利の法的根拠として、初めスペインやポルトガルが用いたのは、土地はそれを「発見」したものが領有するという原則であったが、これに対して、あとから植民地獲得競争に加わったイギリス、オランダなどが「先占」occupationの原則を唱えた。土地は発見されるだけでなく、そこに実際に足を踏み入れて、実体と実体とを結合させる、すなわち経営することが必要なのである。これは国際法の父といわれるグロティウスが唱えて、やがて国際法上の原則として承認されるに至った。発見の原則も先占の原則も、植民地化された地域を無主地とみることを前提としており、このような原則そのものが植民地主義的なイデオロギー性をもったことが、ようやく第二次世界大戦後、植民地の独立という情勢に伴って指摘されるようになった。アジア・アフリカの新興諸国の主張によって国際連合が採択した「天然の資源に対する永久的主権」宣言(1962)は、このような植民地主義国の国際法の原則がもはや通用しにくくなったことの現れである。さらに国際連合総会は、「植民地諸国・諸民族に対する独立付与に関する宣言」(1960)で「外国による人民の征服、支配および搾取は、基本的人権の否認である」ことを宣言した。こうして植民地主義は国際的にアナクロニズムとなっている。[斉藤 孝]

植民地の種類

植民地には時代によって、また地域によって種々の形態があった。植民地の本来の意味である移住植民地に対して、近代に入っては異民族支配の地域、宗主国に従属する地域をさすようになったが、植民地と宗主国との関係は法的および実際上さまざまである。属領はまったく宗主国の領土であるが、保護国は国際法上は主権をもっているものの、保護条約によって事実上支配国によって統治される。租借地・租界は条約によって外国に一定期間統治をゆだねられた地域であり、実際には外国の領土と変わらないものである。第一次世界大戦の結果、委任統治という形式が生まれた。これは、旧ドイツ領および旧トルコ領を国際連盟が受任国に統治を委任するという形のものである。しかし、事実上は受任国の植民地支配と変わるものではなかった。さらに第二次世界大戦ののち、信託統治が生まれた。これは、旧国際連盟の委任統治地域、第二次世界大戦の結果、敗戦国から分離された地域、統治国が自ら信託制度の下に置くことを希望した地域という三つの場合に適用されるものである。信託統治下にあった地域は、その後つぎつぎと独立し、アメリカ統治下のミクロネシアが独立したのを最後に、信託統治下に置かれた地域は消滅した。
 また、植民地は、そのあり方によって、移住をおもな目的とする移住植民地settlement colonyと、利潤の追求をおもな目的とする投資植民地investment colonyに分けられる。前者には独立前の北アメリカやオーストラリア(流刑植民地として始まった)などがあり、後者にはインドやアフリカの大部分などがあった。しかし、植民地は多く後者の意味で用いられており、搾取植民地exploitation colonyともよばれる。[斉藤 孝]

植民地の社会

植民地の社会といっても実に複雑である。その地域で多少とも近代化への道をたどりつつあった社会もあり、原始的な社会もあり、植民地化されたときの歴史的条件の違いによって一様ではない。しかし、その地の住民の意志に反して植民地化が遂行されたことは多くの場合に共通しており、そこから植民地に対する宗主国側の暴力的方法が必要となる。露骨な暴力から隠然とした差別に至るまで、植民地は絶えざる抑圧体制の下にあった。経済面でみれば、モノカルチュアに代表される、植民地であるがゆえのゆがめられた経済・産業構造によって地域民衆の生活は悲惨な境遇に置かれた。アフリカ諸地域には、言語を異にする諸部族が宗主国の言語を公用語として強制的に使用させられたり、同一あるいは親近の部族が国境を隔てて別々の宗主国に帰属させられたりした。このような植民地のマイナスの遺産は今日でもなお続いている。[斉藤 孝]

第二次世界大戦後の植民地問題

第二次世界大戦以後、植民地の独立の問題は、近代化しつつある民族から後進的な社会、植民地化された時期の古い地域へ移ってきた。植民地は今日では名目上独立国となっており、全体としていわゆる第三世界を形成している。しかし、国際政治におけるその地位や人口問題、飢餓、スラム化、さらにネーション形成など、第三世界の新興諸国の前途にはさまざまな困難な問題が山積している。現在では植民地という名称は大部分消滅しているが、実質的には植民地時代のマイナスの遺産が依然多く残されている。第三世界の新興諸国の多くはいまだ低開発状態にあり、先進資本主義国に対する経済的従属を脱しえない。そのうえ、人種問題および階級闘争などが社会問題化している。南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトの問題は、1991年それを規定する諸法が全廃された。この問題の起源はブーア戦争の結果にまでさかのぼるものであり、植民地時代の遺産は現在にまでさまざまな影響を与えている。[斉藤 孝]
『赤羽裕著『低開発経済分析序説』(1971・岩波書店) ▽W・ロドネー著、北沢正雄訳『世界資本主義とアフリカ』(1978・柘植書房) ▽A・G・フランク著、大崎正治他訳『世界資本主義と低開発』(1979・柘植書房) ▽川端正久著『政治学と民族・植民地問題』(1980・法律文化社) ▽浅田喬二著『日本植民地研究史論』(1990・未来社) ▽M・ピーティー著、浅野豊美訳『植民地――帝国50年の興亡』(1996・読売新聞社) ▽栗本英世・井野瀬久美恵編『植民地経験――人類学と歴史学からのアプローチ』(1999・人文書院) ▽J・P・サルトル著、多田道太郎他訳『植民地の問題』(2000・人文書院)』

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世界大百科事典内の植民地の言及

【植民地主義】より

…20世紀中葉にいたるまでの植民地帝国においては,植民地の領有と異民族支配は,当然で正当なことと広く意識されていた。この植民地支配を正当化するイデオロギーの特徴は次のように整理できよう。…

【植民地法】より

…植民地において施行される法。植民地法は,植民地の形態に応じて,本国の主権が及ぶ属領では本国法,保護国では保護条約と被保護国の法令,委任統治国では国際連盟規約など,まったく異なった法律形式をとる。…

【非自治地域】より

…国際連合憲章は〈人民がまだ完全には自治を行うに至っていない地域〉を〈非自治地域〉とする(73条)が,これは,俗に〈植民地〉〈属領〉などと呼ばれる地域である。信託統治のもとにおかれた非自治地域は,限られていた。…

※「植民地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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