ドイツの政治家。ドイツの政治的統一、帝国建設に功績があった。
[木谷 勤]
プロイセンのユンカーの旧家に4月1日生まれる。ベルリン大学、ゲッティンゲン大学で法律を学び、プロイセンの官吏(1836~1839)になるが、まもなく辞任、故郷に帰り、領地経営に専念。1847年連合州議会議員となる。この時期は視野の狭い保守政治家で、ドイツの統一や政治改革など自由主義者の要求にいっさい耳を傾けなかった。1848年、三月革命が起こるとベルリンに出、保守派の『十字架新聞』を発行して、王制の擁護に努めた。その活躍が認められ、1851年からフランクフルト連邦議会でのプロイセン代表、1859年駐ロシア大使、1862年駐フランス大使を歴任。この間、ヨーロッパ情勢に目を開くとともに、オーストリアを排除し、プロイセンを中心とするドイツ統一の必要を信ずるようになった。
[木谷 勤]
1862年9月、国王ウィルヘルム1世によりプロイセン首相に任命された。当時のプロイセンは、王権と政府が軍制改革をめぐり議会多数派と対立、窮地に陥っていた。ビスマルクは「鉄血政策」とよばれる強行策で議会と対決、軍備増強を実施した。進歩党に代表される有産市民が一見急進的な言辞を弄(ろう)しながら、二度と革命を起こす気のないことを見抜いていた。そして対デンマーク戦争(1864)、プロイセン・オーストリア戦争(1866)、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)といった一連の戦勝の実績で国内の反対派を圧倒した。これらの戦争を通じて1871年ドイツ帝国を建設、プロイセンを中心とするドイツ統一事業を完成したが、それはドイツの市民階級が長年待ち望んでいたものであった。
この過程はまたドイツ産業革命の完成と一致した。経済政策では自由主義を貫き、営業の自由や保護関税の廃止を進め、また鉄道、銀行、郵便など国民経済の発展に必要な制度を整備した。ドイツの資本主義はこれにより飛躍的な成長を遂げた。それゆえ、ビスマルクのドイツ統一事業は、その政治的目的がたとえ反革命であっても、旧支配層の代表が新興市民階級の要求を一部先取り実現することによって、結果的に封建社会から市民社会への移行を促進した「上からの革命」であったといえよう。このような成立の事情を反映して、ドイツ帝国の政治の仕組みはきわめて複雑で、強力な王権と弱体ながら普通選挙に基づく帝国議会が共存し、君主大権と人民主権、連邦主義と中央集権といった相反する原則が拮抗(きっこう)していた。そして全制度の中心に位置したのが帝国宰相としてのビスマルクで、憲法上は皇帝の任命する一大臣にすぎなかったが、現実にはすべての権限を一手に集めた独裁者であった。
1870年代なかばまで、帝国議会の多数派、国民自由党を与党にして、自由主義路線を歩んだ。しかしその後、経済不況が深刻になるにつれ、ユンカーと重工業資本家が保護関税を求めるようになり、また社会民主党の急成長は支配層の間に不安を引き起こした。1878年社会主義者鎮圧法を制定して労働運動の弾圧に乗り出し、翌1879年には鉄と穀物を中心に保護関税を導入した。これは国内政策全般の保守主義への転換を意味した。
[木谷 勤]
一方、この時期いちばん目覚ましい成果を収めたのは外交の分野であった。対独復讐(ふくしゅう)を叫ぶフランスを孤立させ、ヨーロッパの現状を守ろうとする外交は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882)、ロシアとの二重保障条約(1886)、イギリスも加わる地中海協定(1886)を通じて完成し、ヨーロッパ外交の手綱はビスマルク一人の手に握られたかのようであった。しかし1880年代末、ルールの炭坑ストや社会政策の問題をめぐり、若い皇帝ウィルヘルム2世と対立、1890年3月辞任した。その背景には、国力を充実させたドイツが、ビスマルクの現状維持政策を乗り越え、世界政策に進もうとする新しい気運があった。
なお、引退後もウィルヘルム2世の内外政策に対する批判を続け、さまざまな政治的波紋を投げかけたが、1894年に両者は和解した。
[木谷 勤]
『木谷勤著『ドイツ第二帝制史研究』(1977・青木書店)』
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ドイツの政治家。プロイセンのユンカーの出身。ゲッティンゲン,ベルリン大学に学び,プロイセンの官吏をへて,プロイセン連合州議会議員として政治活動に入る。1848年の三月革命期には極端な保守・反革命主義者として登場したが,その後,ドイツ連邦のプロイセン公使,ロシア大使,フランス大使などを歴任するなかで,プロイセン国家の拡大・強化のためにオーストリアとの対決とドイツ統一問題の利用について認識を深めた。62年プロイセン首相となり,いわゆる〈鉄血政策〉にもとづき普墺戦争(1866)に勝利するとともに,国内紛争(プロイセン憲法紛争)を収拾し,さらに71年,普仏戦争に勝利してドイツ統一を完成し,ドイツ帝国初代の宰相(1871-90)となった。
帝国宰相在任20年間のうち前半期には自由貿易政策をとり,また経済諸制度を整備し,資本主義の発展を促進するとともに,カトリック的分邦主義と争い(文化闘争),帝国の統一性の強化に努めた。しかし78-79年を転機に保守的体制維持の政策へと転じていく。労働者懐柔策として社会保険制度の導入と社会主義者鎮圧法の制定とを結合させたいわゆる〈アメとムチ〉の政策,重工業とユンカー的大農業の利益をはかる保護関税政策への移行が行われた。外交面ではフランスの孤立化とロシアとの友好を基本にして,幾多の同盟・条約の体系をつくりあげ,いわゆるビスマルク的国際関係を構築し,ドイツの国際的地位の安定化と向上をはかった。
このような内外における多彩で重層的な政治的営みについて,これまで〈国民的英雄〉という肯定的評価とともに,〈ユンカー的権力的政治家〉という否定的評価が交錯してきた。このことはドイツ帝国における国家と社会の複雑さとかかわっていた。さまざまなレベルに近代的要素と前近代的要素とが混在しており,ビスマルクはそのような帝国体制を維持しつつ,ときには時代に逆行し,ときには時代に対応しようとした。90年に彼が宰相を辞任したのも,このような政治的営みが,すでに限界に達していたことを物語るものであった。
執筆者:望田 幸男
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1815~98
プロイセン,ドイツの政治家。ユンカーの出身。ベルリンの三月革命には反革命派として活躍,保守党の創立者の一人となる。革命後ドイツ連邦へのプロイセン公使に任ぜられてフランクフルトの連邦議会におもむき,そこでしばしばオーストリアと対立した。ついでロシア大使,フランス大使となったが,1862年国王ヴィルヘルム1世が軍備拡張のため議会と衝突した際に首相に任ぜられ,有名な「現在の大問題は言論や多数決によってではなく,鉄と血によって決せられる」という演説を行い,議会を無視して軍備拡張を実行した。その武力によってドイツ統一を遂行しドイツ帝国宰相(在任1871~90)となった。ドイツ統一後はヨーロッパの平和維持に努め,ロシア‐トルコ戦争後ベルリン会議を主宰して「公正なる仲介者」の役割を演じた。彼はフランスの復讐を恐れてドイツ‐オーストリア同盟,三国同盟,三帝同盟,再保険条約などの同盟関係によりドイツの地位を安泰にした。しかし国内の反対勢力には力で対処し,カトリック教徒に対して文化闘争を行い,社会主義者鎮圧法によって社会主義を圧迫した。ヴィルヘルム2世が即位すると,これと衝突して90年辞職した。
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…狩猟が行われなくなって以来,頑強で巨大な体軀(たいく)を残し,温和で柔順な性格に育種改良された。ドイツの宰相ビスマルクがこのイヌを護身犬としてひざもとにおいた話は有名。また狭いアパートの部屋でも容易に飼いうる唯一の巨大犬であるといわれる。…
…その理由の一つは,ドイツに代表される潮流で,中央集権の確立と国防力強化の手段として鉄道を国有化したことである。1879年ビスマルクはプロイセンの鉄道を国有化し,1918年のワイマール共和国成立で国有化が完了した。現在のドイツの連邦鉄道は国の行政機関の一部であるが,ある程度の自主性を与えられた企業体である。…
…英仏露三国協商と対立し,第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。ドイツ帝国成立後のビスマルク外交の目標は,フランスを孤立させ,その対独復讐戦争を防止することにあった。ビスマルクは1881年にドイツ,オーストリア・ハンガリー,ロシアの間に三帝同盟を成立させたが,イタリアがチロル,トリエステをめぐってオーストリア・ハンガリーと不和であったことから,フランスに接近するのを恐れていた。…
…ドイツの社会主義運動は1875年にアイゼナハ派とラッサール派が合同してドイツ社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)が結成されて以来,勢力の伸張が目ざましかった。ビスマルクはこれを危険視し,弾圧の機会をうかがっていたが,78年5,6月あいついで起こった皇帝狙撃事件を利用し,帝国議会にいわゆる社会主義者鎮圧法を上程し,同年10月強引に成立させた。この法律は社会主義的傾向をもつ政党や労働組合の結社・集会を禁止し,新聞・雑誌・ビラの印刷・配布を禁じ,〈危険分子〉を特定地域から追放する権限を警察に与えた。…
…資本主義の発展とともに賃金労働者が急増したが,彼らは失業,労働災害,老齢退職などの社会的リスクに不断にさらされ,きわめて不安定な生活状態におかれている。西ヨーロッパ諸国では労働者の共済組織として任意制の保険がつくられていたが,これをより広範な労働者階層に拡大するために強制加入の社会保険を創設したのは,ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクであった。これは後進資本主義国ドイツの工業化が進み,19世紀末には階級対立が激化して急進的な社会主義運動が激しくなったことから,この息の根を止めるために賃金労働者の深刻な生活不安を緩和するという名目で生まれたものであり,飴と鞭の政策の一端を担うものとされていた。…
…単に二国同盟Zweibundとも,また独墺同盟ともよばれる。1878年ベルリン会議以後,ドイツとロシアとの関係が悪化したので,ビスマルクはオーストリアとの結合を強め,79年10月7日,両国間の秘密軍事同盟がウィーンで調印された。この条約は,締約国の一国がロシアから攻撃された場合,他の一国が共同して戦い,ロシア以外の国の攻撃をうけたときには好意的中立を守ることを義務づけていた。…
…ドイツで帝制をとった国家は史上2度あり,第1は神聖ローマ帝国(962‐1806),第2がビスマルクのドイツ統一により実現したドイツ帝国(1871‐1918)で〈第二帝国〉ともいう。ヒトラーのナチス国家(1933‐45)もこれに次ぐものとして〈第三帝国〉を称した。…
…このドイツ統一の覇権争奪をめぐり普墺両国の対立も深化していた。プロイセン首相ビスマルクは,イタリアとの同盟を結び,フランス・ロシアの介入を阻止しつつ,オーストリアを戦争へと追い込んだ(1866年6月)。プロイセン軍はオーストリア軍をボヘミアのケーニヒグレーツKöniggrätzの戦で破って大勢を決し,大方の予想を裏切り,戦いはわずか7週間で決着がつけられた。…
…
[福祉国家の理念]
福祉国家の基底にある理念もまた,ある特定の哲学に基づいて形成されたものではなく,時代を異にして生まれた幾多の思想や哲学に起源を発し,それらが結合され融合されて今日にいたったものである。フランス革命の自由・平等・友愛,J.ベンサムによる功利主義,ビスマルクの社会保険の方式,ウェッブ夫妻のナショナル・ミニマム原則,ベバリッジの社会保障などは,その代表的なものである。これらの思想や理念にかなりの違いがあるにもかかわらず,ビスマルクを別にすると市民的自由を基礎とし,人道主義と平等主義を追求しているという点に共通性がある。…
…フランス側においては,メキシコ遠征の失敗と国内政情の不安から,ナポレオン3世は名誉回復をねらって,プロイセンへの冒険的対決の道につき進んだ。プロイセン首相ビスマルクは,スペイン国王選出問題を利用して,フランスを開戦へと挑発し,プロイセン王家の支流の王子レオポルトのスペイン王位就任をめぐり,普仏両国の対立は深まった。1870年7月14日,フランスの開戦決定をもって両国間に戦端が開かれた。…
…しかるにウィルヘルムは軍部の要求をいれて,プロイセン改革時代の理念をふみにじるような陸軍の改組拡充計画に乗り出したため,このころ議会で多数を占めた自由主義者と激しい対立におちいった。そこで61年,彼がウィルヘルム1世として即位すると,王はユンカー出身の保守主義政治家ビスマルクを招いて首相に任じ(1862),ここに軍事予算問題をめぐる〈プロイセン憲法紛争〉が燃え上がった。ビスマルクは議会の反対を無視して軍備拡張を強行,この軍事力と巧みな外交工作により普墺戦争でオーストリアを倒し,プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を組織,さらに普仏戦争の勝利により,南ドイツ諸邦をもこれに組み入れるかたちでドイツ帝国の建設をなしとげた。…
…このことはプロイセン憲法体制の性格とあり方をめぐる対立へと発展した。さらに自由主義者左派グループによるドイツ進歩党Fortschrittsparteiの結成(1861)とビスマルクの首相就任(1862)は,下院と政府の対立をいっそう激化させた。この紛争は,普墺戦争の勝利によって軍備拡張の成果が示されたことによって鎮静化し,ドイツ進歩党は分裂し,ビスマルク与党の国民自由党Nationalliberale Parteiが結成された。…
…ドイツ統一後,帝国宰相ビスマルクが行ったカトリック弾圧政策と,その結果生じた政府・カトリック間の争い。文化闘争の呼称は,フィルヒョーが使用した用語,〈文化に対する闘争〉に由来する。…
※「ビスマルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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