現代外国人名録2016 の解説
ドラガン ストイコヴィッチ
Dragan Stojkovic
- 職業・肩書
- サッカー監督(広州富力) 元セルビア・モンテネグロサッカー協会会長,元レッドスター会長
- 国籍
- セルビア
- 生年月日
- 1965年3月3日
- 出生地
- ユーゴスラビア・セルビア共和国ニシュ(セルビア)
- 別名
- 愛称=ピクシー
- 勲章褒章
- 旭日小綬章(日本)〔2015年〕
- 受賞
- JリーグMVP〔1995年〕,Jリーグ功労選手賞〔2001年〕,Jリーグ最優秀監督賞〔2010年〕
- 経歴
- 1981年ラドニキ・ニシュでプロ契約。’86年レッドスター・ベオグラード(ユーゴスラビア)、’90年オリンピックマルセイユ(フランス)、’91年ベローナ(イタリア)を経て、’92年再びマルセイユ所属。レッドスターで優勝5回、マルセイユでリーグ優勝2回に貢献。’94年Jリーグの名古屋グランパスに入団。’95年に年間最優秀選手(MVP)となる。背番号10。一方、’83年11月18歳でユーゴスラビア代表となり40試合出場。’84年欧州選手権、’88年ソウル五輪に出場。’90年W杯イタリア大会決勝トーナメント1回戦、対スペイン戦で2ゴールを決めベスト8に貢献。民族紛争の制裁措置でユーゴスラビアは’92年の欧州選手権、’94年のW杯米国大会に出場できなかったが、スポーツ交流が認められるようになり、’98年W杯フランス大会ではユーゴスラビア代表の主将を務め、16強。2000年代表から退き、2001年Jリーグ第1ステージ終了後、現役を引退。華麗なプレーから“ピクシー”(妖精)の愛称で親しまれたが、Jリーグ最多13度の退場記録を持つ激情家でもある。国際Aマッチ84試合15得点。Jリーグベストイレブン3回。引退した年にユーゴスラビア(のちセルビア・モンテネグロ)サッカー協会会長に就任。2004年外務省よりバルカン半島の平和親善大使に任命される。2005〜2007年現役時代に所属していたレッドスター会長。2008年古巣の名古屋監督に就任すると、前年11位のチームをリーグ3位に躍進させた。2009年は9位。2010年悲願のリーグ初優勝に導き、Jリーグ最優秀監督賞を受賞。選手時代にもMVPを獲得しており、史上初の選手・監督の2冠制覇となった。2011年2位、2012年7位、2013年13位。2013年退任。2015年中国1部の広州富力監督に就任。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報