ヨーロッパ南東部の地中海東部に突き出た半島。東から黒海、マルマラ海、エーゲ海、イオニア海、アドリア海に囲まれている。半島の付け根の部分をなすのはドナウ川とそれに合流するサバ川である。平野部は少なく、多くの褶曲(しゅうきょく)山脈とその谷をなす河川によって構成される。しかしそれらは半島部への人々の移動を妨げるものではなかった。バルカン半島はヨーロッパとアジアの結節点に位置し、交通の要(かなめ)であったので、商業活動はもちろん軍事的にも重要であり、古来多くの人間集団の流入、移動がみられた。イベリア半島(スペイン、ポルトガル)より小さく、イタリア半島の2倍の面積があり、東西約1300キロメートル、南北約1000キロメートル、面積約50万平方キロメートル。
半島名はブルガリア中部を東西に走るバルカン山脈(スタラ・プラニナ山脈)に由来するが、この「バルカン」ということばはオスマン(トルコ)語で「山脈」を意味した。「バルカン」が半島名として使われ始めたのは19世紀の初頭で、その名称が普及、定着していくのは19世紀末からバルカン戦争、第一次世界大戦にかけての時期であった。この過程で「バルカン」は地理的概念としてだけではなく、歴史的・政治的概念としても認識され、前述の地理的範囲である半島内に領土が限定されるアルバニア、ブルガリアだけではなく、半島外部にも領土が及ぶ旧ユーゴスラビア、ルーマニア、ギリシア、トルコなどもバルカン諸国とみなされるようになった。しかし地理的概念と政治的概念との間にはつねにずれがあり、現在も歴史的・政治的概念規定は確立されたものとはいいがたい。たとえばトルコ共和国はバルカン半島に領土の一部をもつが、現在のトルコをバルカン諸国とすることはむずかしい。一方、かつてソ連の構成共和国であったモルドバをバルカン諸国に含むことは、ルーマニアとの歴史的共有性から妥当といえよう。さらに歴史的・政治的に「バルカン」を限定することが困難なのは、同地域の歴史的・文化的重層性にもよるが、半島内外の人々の「バルカン」認識の過程にもその一因をみることができる。西ヨーロッパ諸国での「バルカン」という名称の定着はさまざまな戦争の時代と重なり、「対立」「抗争」「無秩序」「後進性」といった負のイメージとともに認識されたため、バルカン諸国における「バルカン」認識には複雑なものがある。ブルガリアのように、半島の名称としてだけでなく、その歴史のなかで重要な役割を果たしてきた山脈の名称としても「バルカン」を認識し、肯定的にとらえていたり、一方、ルーマニアのように、地理的概念としてのバルカンに国土の大半が属さず、両世界大戦間期以来、歴史研究者をはじめ、国民一般が自国を南東欧として把握し、バルカンと距離を置く伝統をもっていたりとさまざまである。また旧ユーゴスラビアの分離解体に伴って、クロアチア、スロベニアでは、自国を中部ヨーロッパとして認識し、バルカンや旧ユーゴスラビアと切り離して考える傾向が強まっている。
地理的概念をもとに、さらに歴史的・政治的概念を考慮すると、バルカン半島に属する国として、以下の各国をあげることが可能である。すなわちアルバニア、ギリシア、北マケドニア共和国、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、コソボ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニア、ルーマニア、モルドバである。地理的な要素だけを考えれば、トルコのヨーロッパ大陸部分も含まれる。
[木村 真]
全体に山がきわめて多く、西側をアドリア海に接して北から南にディナル・アルプスが走り、ピンドス山脈などに連なり、南の部分は複雑な地形をもってエーゲ海とイオニア海に取り囲まれている。各山脈は石灰岩からなり、カルスト地形が発達し、海岸と内陸との障壁をなしている。アドリア海沿岸およびギリシアの大部分には、バルダル川を除いては河流のみるべきものはないが、大小の湖沼は多い。東部にはカルパティア山脈に続くトランシルバニア・アルプス、バルカン山脈、その南のロドピ山脈が東西に走る。これら山地の間をドナウ川ならびにその支流の諸河川が流れ、各地の孤立的傾向の一因となっている。水系は山脈の配列に支配され、大陸型の長流で緩やかな黒海流入水系(ドナウ川など)と、短流で急流のアドリア海流入水系(ネレトバ川など)、およびエーゲ海流入水系(バルダル川など)の3水系に大別される。
[三井嘉都夫]
地中海性気候が卓越するが、山がちであるために内陸部に海洋性気候の影響がほとんど及ばず、内陸部は乾燥した大陸性気候となっている。地中海性気候は南部沿岸地帯とギリシア沿岸の島嶼(とうしょ)に顕著である。夏は暑く乾燥し、冬季に降雨があり、夏の乾燥に強いオリーブ栽培や白壁の家屋など文化様式にも影響を及ぼした。冬の穀物栽培の北限は地中海性気候の北限に一致している。アドリア海に臨むダルマチアの狭い沿岸は地中海性気候と大陸性気候との漸移帯をなし、一般に温暖で、オレンジ、オリーブが栽培されるが、北へ行くにつれて気候は著しく変わり、秋から冬にかけて内陸の山から吹き出してくる有名なボラとよばれる寒風の襲来により作物や人畜に被害が出ることも少なくない。しかしリエカ、ザダル、スプリト、ドゥブロブニクなどのアドリア海沿岸はその風光明媚(めいび)さにより夏季は観光客でにぎわう。エーゲ海の北部沿岸、マケドニア南部とトラキア西部は亜地中海性気候で、バルダル川の河谷から北風が吹き下ろすため、寒暑の差が大きくなる。この地方は地中海の果樹栽培の北限をなしている。バルカン内陸部の大部分は大陸性気候で、山脈の起伏により多少の変化はあるが、年降水量は西部で700~1500ミリメートル、東部で400~700ミリメートルと減じ、ロシア平原の北風にさらされるトラキア地方はステップ(短草草原)状である。
[三井嘉都夫]
バルカン半島には、歴史的背景や言語・宗教などの文化的要素、また少数民族の存在などが複雑に絡んでいくつかの国家が形成されている。第二次世界大戦後、各国には社会主義政権が樹立され、五か年計画に基づき、工業の発展を目ざした経済運営が行われてきたが、それぞれの国の経済のなかで、なお農業など第一次産業の占める割合が高く、経済の後進性を残していた。しかし1989年以降、社会主義体制が崩壊し、市場経済が導入された。
旧ユーゴスラビアの場合、民族構成はセルビア人、クロアチア人など、多民族国家であった。20世紀初頭まで外国の支配を受けていたこと、セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語の4言語が使われていたこと、正教、カトリック、イスラム教の3宗教が信仰されていたこと、アルバニア系やイスラム系の少数民族が存在していたことなどが絡み、旧ユーゴスラビアは6共和国と2自治州の連邦国家を形成していた。政府は企業間競争や労働者の企業自主管理制度などを認め、新しい社会主義を目ざしたが、国内の南北の経済格差が顕著なことや、少数民族の自治権拡大などの問題を抱え、1991年以降、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア(2019年国名を北マケドニア共和国に変更)が相次いで独立し、セルビアとモンテネグロは新しくユーゴスラビア連邦を形成(2003年新たな連合国家として国名を「セルビア・モンテネグロ」へと変更)した。ボスニア・ヘルツェゴビナは、1992年に正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教のモスレム人が勢力圏を三分し、いわゆる「民族浄化の戦い」(ボスニア内戦、ボスニア紛争)を始めた。1995年デイトン合意により妥協的な取決めがなされたが、根本的な解決には至っていない。また、2003年新ユーゴスラビアは連合国家セルビア・モンテネグロとなったが、モンテネグロでは、かねてより独立志向が強く、その後2006年6月に独立を宣言、独立国家モンテネグロ共和国となった。また、モンテネグロの独立を受け、セルビアは、セルビア・モンテネグロの承継国として独立国家セルビア共和国となり、セルビア・モンテネグロという連合国家は消滅。こうして、かつて旧ユーゴスラビアを構成した6共和国スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロは、それぞれ独立国家となった。セルビアのコソボ自治州では、独立を求めるアルバニア人勢力とセルビア当局が争うコソボ問題(コソボ紛争)が続き、2008年2月17日コソボ議会が独立宣言を採択。アメリカやEU諸国が独立を認め、日本も同年3月コソボ共和国を国家として承認した。
ブルガリアの場合は、南スラブ系のブルガリア人が85%を占めるが、かつてトルコの支配下にあったため、トルコ人が9%を占める。ギリシア正教のほか、イスラム教が信仰されている。もともと後れた農業国であったが、社会主義時代に五か年計画の実施やソ連の援助などで工業が発達した。産業人口の約4分の1が第一次産業、約5分の2が第二次産業に従事している。ルーマニアはラテン系のルーマニア人が約90%を占め、そのほかにハンガリー人やロマ人がいる。1989年の社会主義体制崩壊後に市場経済に移行したが、経済は順調とはいいがたい。モルドバは64.5%がモルドバ人で、ついでウクライナ人、ロシア人、ガガウズ人、ブルガリア人、ユダヤ人、その他の少数民族と、少数民族の比率の高い多民族国家である。1991年にソ連から独立したが、モルドバ人とロシア人の民族対立があらわになっている。アルバニアは第二次世界大戦後、社会主義国家群のなかでも独自の鎖国政策をとってきた。1991年市場経済に移行したが、経済の停滞は慢性的である。ギリシアは歴史的、文化的にはヨーロッパの起源をなすが、現在は貿易や観光などに頼っている。ヨーロッパ連合(EU)の加盟国でもあり、経済面でEU諸国に強く依存している。政治面でも当然ながらEUの影響が強い。このように、多様さと複雑さがバルカン半島の社会と経済の特徴をなしているといえる。
[佐々田誠之助]
先史時代以来、バルカン半島はさまざまな人間集団の往来する土地であり、文明が交錯する土地であった。紀元前6500年ごろからバルカン半島で始まった農耕牧畜は紀元前5000年ごろには半島全域に広がり、ヨーロッパで最初に初期農耕社会が形成され新石器時代が始まった。この新石器文化の担い手である先住民と黒海北岸から移動してきたインド・ヨーロッパ語系の民族集団が融合して、ホメロスの叙事詩などに現れる諸民族が形成されたと考えられる。
バルカン半島南部でミケーネ文明を築いたギリシア人は、紀元前8世紀後半からポリス(都市国家)を形成し、アドリア海、黒海沿岸に植民市を建設した。中西部にはイリリア人、東部にはトラキア人が、またバルカン山脈以北のドナウ川下流地域にはゲタイ人、トランシルバニア地域にはダキア人が居住した。紀元前334年ごろ、マケドニアのアレクサンドロス大王はバルカン半島の南部を拠点に東方遠征を行い、半島の大半を従えた。その後ローマの東方進出によりバルカン半島はしだいにローマの属州となり、その支配領域は一時ドナウ川を越えてダキアにまで及んだ。ローマは征服活動とともに都市建設を行い、さらにその都市を結ぶ幹線道路も建設された。紀元後330年にビザンティウム(コンスタンティノープル)がローマ帝国の首都となったことで、バルカン半島は食料供給地としての役割が生まれ、さらにローマ帝国の東西分裂後、1000年以上存続した東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の中心地域としてバルカン半島は重要性を増した。
[木村 真]
4世紀以降バルカン半島は東西ゴート人の移動やフン人、アバール人の侵入を受けるが、6世紀から8世紀にかけて南スラブ諸族のバルカン半島への移動、定住が活発になり、バルカン半島のスラブ化が進んだ。また半島南端、さらにエーゲ海、小アジアに到達したグループの多くはギリシア人と融合し、イリリア人など先住民は山岳地域に移住した。黒海沿岸ドナウ下流域に進出したブルガール人は、当初スラブ人を支配し、後には融合しながら、ビザンティン帝国と競合、同盟を繰り返し、第一次、第二次ブルガリア帝国(7~11世紀、12~14世紀)を形成した。9世紀のボリス1世、シメオン1世の時代にはキリスト教を受容し、領土拡大に成功した。またネマーニャ朝セルビア王国(12~14世紀)が成立し、ステバン・ドゥシャン帝の時代にその中世国家は隆盛を極めた。さらに14~15世紀にはボスニア王国が形成された。一方サバ川上流部に定住したスロベニア人はフランク王国に組み込まれ、13世紀以降はハプスブルク家支配下に入った。フランク王国とビザンティン帝国の影響を受けていたクロアチア人は9世紀末に独立国家を形成し、一時はスラボニア、クロアチア、ダルマチア地域の政治的統一も果たした。しかし1102年ハンガリー支配下に入り、ダルマチアでは15世紀以降ベネチアの影響が強まった。ドナウ川以北ではワラキア、モルドバ(モルダビア)の両公国が独立を果たした。
[木村 真]
セルビア王国に対抗するためビザンティン帝国はアナトリアのオスマン朝に援助を求めたが、これはオスマン朝の勢力拡大の機会となった。1354年にバルカン進出の拠点を得たオスマン帝国は、コソボの戦いでセルビアを中心とするキリスト教徒連合軍を破るなど、バルカンでのオスマン支配を決定づけ、トラキア、ブルガリア、マケドニアを獲得し、1453年にはコンスタンティノープルを征服してビザンティン帝国を滅亡させた。15世紀末までにオスマン帝国はボスニア、アルバニア、ギリシア、ワラキア、モルドバを直接、間接に支配し、バルカン半島を政治的に統一した。さらに16世紀にはベオグラードを陥落させ、モハーチの戦いを経てハンガリー領のクロアチア、スラボニア、バナートなどを支配下に収め、トランシルバニアを属国とした。アルバニアのスカンデルベグの反乱やミハイ勇敢王によるワラキア、モルドバ、トランシルバニア統一も一時的なものであった。オスマン帝国進出に伴うバルカン半島へのトルコ人の移住や、ボスニアなどにおける先住民のイスラムへの改宗により、トルコ化、イスラム化が進んだが、ギリシア系をはじめとする商人は各地に商館を築き、都市部は多様な言語、宗教をもつ人々が職能集団を形成して居住する多文化的空間だった。オスマン支配下のバルカン社会では、ムスリムだけでなくキリスト教徒やユダヤ教徒などの宗教共同体にも一定の自治が与えられたが、その形態は地域、時代によっても差があり多様なものであった。
[木村 真]
オスマン帝国の軍事的衰退は1683年第二次ウィーン包囲失敗後、1697年サボイ公オイゲン率いるオーストリア軍に敗れて決定的となり、1699年のカルロウィッツ条約でハンガリー、トランシルバニアを放棄した。さらに1768~1774年のロシア・トルコ戦争(露土戦争)後に締結されたクチュク・カイナルジ条約によって、ロシアは黒海とエーゲ海の自由航行権、オスマン帝国内の正教徒住民の保護権を獲得し、内政干渉の根拠となった。これ以降衰退するオスマン帝国と、その領土をめぐって対立するヨーロッパ列強、自治・独立を求めるバルカン諸勢力の間で東方問題が展開された。18世紀後半にはムスリムの有力者が台頭し、オスマン中央から独立して勢力圏を築いたアリ・パシャのような豪族がバルカン各地に現れた。近代バルカン国家形成のプロセスには、こうした内外の環境やナポレオン戦争以降のヨーロッパ列強諸国の情勢が影響を与えたが、文語確立や民間伝承収集、文芸協会設立などの「民族再生運動」もその構成要素となった。
19世紀初頭の二度にわたるセルビア蜂起(ほうき)の結果、セルビアはオスマンの宗主権のもとで自治公国となり、ギリシア独立戦争は1830年イギリス、フランス、ロシア3国を保護国とする独立国家ギリシアを誕生させた。ワラキア、モルドバ両公国はクリミア戦争後のパリ会議を経て事実上合同を果たした。1878年ベルリン会議の結果、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアは独立、ブルガリアは公国(1908年独立)となり、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国占領下(1908年併合)に置かれた。バルカン諸国は大ギリシア主義、大セルビア主義、大ブルガリア主義、大ルーマニア主義など膨張主義的な国家目標を掲げ、近代化と軍備拡充を競い合った。二次にわたるバルカン戦争の結果、アルバニアは独立、マケドニアはギリシア、セルビア、ブルガリアによって分割され、バルカン半島のオスマン領は帝都イスタンブールと東トラキアのみとなった。
1914年サライエボ事件を端緒として第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)するとバルカン諸国はいずれも参戦し、半島は再度戦場となった。戦後パリ講和会議で結ばれた一連の講和条約と、ギリシア・トルコ戦争の結果締結されたローザンヌ条約によって国境線が画定し、バルカン諸国はベルサイユ体制に組み込まれた。
[木村 真]
第一次世界大戦後のバルカン諸国は、戦勝国・敗戦国、領土の拡大・縮小、戦争被害、地政学的位置など、それぞれ異なる環境にありながらも、少数民族問題、議会制民主主義、生活水準向上など共通の課題を抱えていた。セルビア王国、モンテネグロ王国、それにオーストリア・ハンガリー帝国に属していた諸地域が統合され、南スラブ人国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が形成された。またルーマニア王国はトランシルバニア、バナート、ブコビナ、ベッサラビアを統合したが(大ルーマニア)、各地域の歴史的経験、社会経済的特徴や少数民族問題は国民統合をむずかしくした。ギリシア、トルコ、ブルガリアの間では住民交換協定が結ばれ、戦時中に生じた難民問題や少数民族問題の解消が試みられ、地域住民の均質化、同化が進められた。
バルカン諸国は政治的には男子普通選挙制を導入し、立憲君主制のもとで議会制民主主義の制度的枠組みを確立したが、軍事クーデターを含む政権交代が繰り返され、1920年代後半から1930年代末にかけて国王による独裁体制が敷かれた。経済的には農業技術改善や農村人口過剰問題を解決できず、工業化も進まなかった。1930年代にはドイツ、イタリアの経済圏に入り、第二次世界大戦期には政治的・軍事的同盟国として、あるいは占領によって、両国の勢力下に組み込まれた。
[木村 真]
バルカン諸国では、共産党をはじめとする抵抗運動やソ連軍の攻勢によって枢軸勢力が排除され、第二次世界大戦後の1948年までは一定の政治的選択の幅が存在した。しかし冷戦の進展とともに東西陣営に組み込まれていった。ギリシアは大国間の勢力圏合意により唯一西側陣営に組み込まれ、左右対立によって内戦を経験した。その後一時軍事政権が成立したが民政移管され、EC(ヨーロッパ共同体)加盟を果たした。チトー率いるユーゴスラビアは1948年コミンフォルム追放後、自主管理社会主義、非同盟など独自路線を歩んだ。アルバニアはスターリン批判、中ソ論争で親中路線を進んだが、毛沢東没後は対外的に門戸を閉ざし孤立を深めた。ルーマニアではチャウシェスク、ブルガリアではジフコフの長期政権が生まれ、外交的には自主外交と親ソ路線の対照をなしたが、いずれもナショナリズムをテコにして国内政策を実施した。孤立主義をとったアルバニアを除けば、各国とも戦間期以上に社会インフラ整備など近代化が進展した。
[木村 真]
1980年代以降、バルカン社会主義諸国の経済停滞は著しく、また少数民族抑圧政策は政権の行き詰まりを表していた。ゴルバチョフの登場から東欧革命をへて、ブルガリア、ルーマニア、アルバニアでは事実上の共産党一党体制から複数政党制への移行が行われ、市場経済化が進む一方、民族主義も顕在化している。国名国旗の変更にまで発展したマケドニアとギリシアの国家承認問題(2019年にマケドニアが「北マケドニア共和国」に国名を変更することにより決着)、ルーマニアのトランシルバニア地方に住むハンガリー系住民問題、さらに、ソ連から独立したモルドバ共和国におけるルーマニアとの統一をめぐる政治勢力の対立などが表面化している。ユーゴスラビアでは、連邦統合の要(かなめ)であったチトー没後、コソボ問題をテコにセルビア民族主義を掲げてミロシェビッチが台頭し、連邦強化を求めた。1990年の連邦構成共和国選挙では、共産党系が勝利したセルビア、モンテネグロを除いて民族主義政党が勝利し、1991年のスロベニア、クロアチアの独立宣言に端を発してユーゴ連邦は分離解体し、ユーゴ紛争が起こった。コソボ問題解決のためNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)による空爆も実行されたが、その一方でバルカン外相会議が継続され、初のバルカン・サミットが開催されるなど、バルカン地域内の対話の場も設けられている。
[木村 真]
『木戸蓊著『世界現代史24 バルカン現代史』(1977・山川出版社)』▽『鳥山成人著『世界の歴史19 ビザンツと東欧世界』(1978・講談社)』▽『C&B・ジェラビッチ著、木戸蓊・野原美代子訳『バルカン史』(1982・恒文社)』▽『柴宜弘編『バルカンの民族主義』(1996・山川出版社)』▽『細川滋著『東欧世界の成立』(1997・山川出版社)』▽『柴宜弘編『世界各国史18 バルカン史』(1998・山川出版社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
南東ヨーロッパにある半島で,東は黒海とエーゲ海,南は地中海,西はアドリア海,北はドナウ川とその支流のサバ川に囲まれ,アジアとの接点にあたる。トルコの一部をはじめ,ギリシア,アルバニア,ブルガリア,ルーマニア,マケドニア,ユーゴスラビア,ボスニア,ヘルツェゴビナ,クロアチア,スロベニアを含み,面積76万3500km2,人口7000万に達する。全般的に山がちで,中央部のマケドニア山地やロドピ山脈は古期造山帯,スターラ・プラニナ山脈(バルカン山脈)やディナル・アルプス山脈は新期造山帯に属する。この地域の諸民族は,19世紀になって,約500年にわたるオスマン帝国の支配をほぼ脱し,独立の民族国家を樹立した。言語や宗教は多様で,アルバニア語,ブルガリア語,ギリシア語,マケドニア語,スロベニア語,セルビア・クロアチア語,ルーマニア語,トルコ語が用いられ,カトリック,イスラム,東方正教が信仰されている。
→バルカン
執筆者:佐々田 誠之助
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…自然地理学者として出発したが,バルカン戦争と第1次世界大戦でバルカンの諸民族同士が相戦うという現実に直面して,新たな地域研究としてのバルカン学を提唱し,また歴史的・民族学的方法を駆使した人文地理学を確立した。有名な著書には,ソルボンヌ大学での講義をもとにした《バルカン半島》(パリ,1918)があり,同書で自然と歴史との複合関係に基づいてバルカン半島を数個の地域に分類した。【萩原 直】。…
…この時期になるとイギリス,ドイツも積極的に介入したが,ロシアが日露戦争後侵略の方向をバルカンに転じ,オーストリアが1908年にボスニア・ヘルツェゴビナを併合したことによって,バルカンの民族運動のなかに偏狭な民族主義と民族間の対立が生まれ,バルカンはヨーロッパの火薬庫といわれるようになった。その結果はバルカン戦争,14年のサラエボ事件となり,第1次世界大戦を引き起こした。 第1次大戦後のベルサイユ体制のもとで,バルカン諸民族はオスマン帝国からの独立を達成したが,マケドニアなどの領土問題は未解決のまま民族主義的傾向はむしろ強まった。…
…1908年オスマン帝国で起こった〈青年トルコ〉による革命を機に,フェルディナントはブルガリアの独立を宣言し,〈ツァール(王)〉を名乗った(在位1908‐18)。 12年,ブルガリアはセルビア,ギリシア,モンテネグロとともにバルカン同盟を形成,オスマン帝国に宣戦(第1次バルカン戦争)して勝利し,領土を広げた。しかしマケドニアの帰属をめぐって同盟諸国と対立,13年に第2次バルカン戦争が始まり,隣接国を敵としたブルガリアは敗れ,結局,南ドブルジャ(ドブロジャ)をルーマニアに,北部・中部マケドニアをセルビアに,南マケドニアの大部分をギリシアに割譲し,ピリン・マケドニア地方とアレクサンドルポリスを含むエーゲ海に至る西トラキア地方を獲得しただけに終わった。…
※「バルカン半島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新