ドーバー条約(読み)ドーバーじょうやく(その他表記)Treaty of Dover

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドーバー条約」の意味・わかりやすい解説

ドーバー条約
ドーバーじょうやく
Treaty of Dover

1670年6月1日,イングランド王チャールズ2世フランスルイ 14世の間で締結された条約アンリエット・ダングルテールが連絡役をつとめた。イギリスはフランスを助けてオランダ開戦すること,ルイチャールズ毎年 30万ポンドの年金を贈ることなどを骨子としたが,ほかに,イギリスでは T.クリフォードとアーリントン伯にしか打明けられなかった秘密事項があり,これによりチャールズは自国でローマ・カトリックを復活させることを約束した。この条約での取決めにより,2年後チャールズはオランダと開戦 (第3次イギリス=オランダ戦争 ) 。

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世界大百科事典(旧版)内のドーバー条約の言及

【王政復古】より

…革命派の残党に追及の手がのび,議会は一連のピューリタン弾圧立法(クラレンドン法典)を制定して,国教会への信従を強制した。いっぽう国王は,従弟のフランス王ルイ14世の親政に刺激され,その援助のもとにカトリック復活を約した〈ドーバー条約〉(1670)をひそかに結び,さらに〈信仰自由宣言〉(1672)を発して,カトリック教徒への好意を示した。翌年議会は公職につくものを国教徒に限る〈審査法〉を制定してこれに対抗し,国王と議会の間の溝は深まった。…

【チャールズ[2世]】より

… 治世の初期には亡命中の顧問であったクラレンドン伯が国政を指導したが,財政は迫(ひつぱく)し,また復讐心に燃える騎士議会のピューリタン弾圧,第2次対オランダ戦争(1665‐67),ペストの大流行(1665),ロンドン大火(1666)と人心を動揺させる大事件がつづき,67年クラレンドン伯を解任して,後事を複数の顧問団(カバルCabal)にゆだねた。しかし国王は革命の教訓を忘れて従弟のフランス王ルイ14世の絶対主義体制の強化に憧れを寄せ,70年秘密裏に〈ドーバー条約〉を結び,多額の年金と引きかえにイギリスにおけるカトリックの復活を約し,72年〈信仰自由宣言〉を出した。議会はこの反動的風潮に態度を硬化し,〈信仰自由宣言〉を撤回させるとともに,〈審査法〉(1673),〈人身保護法〉(1679)をもって対抗し,さらに旧教徒の王弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)の即位を拒むため〈王位継承排除法案〉を上程した。…

※「ドーバー条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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