ルイ(読み)るい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルイ」の意味・わかりやすい解説

ルイ(14世)
るい
Louis ⅩⅣ
(1638―1715)

フランス王(在位1643~1715)。大王le Grandまたは太陽王le Roi Soleilと称されたブルボン王朝最盛期の王。

 彼は、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの第1王子として1638年9月5日に生まれた。幼少で即位したため、母后アンヌ・ドートリッシュが摂政(せっしょう)となり、宰相にマザランを用いた。王が10歳のときパリ高等法院の反抗に発する「フロンドの乱」に直面してパリを脱出、国内を転々とした。この幼少期の不安と恐怖の記憶はその後の王の人間形成に根深い影響を与え、貴族と高等法院を憎み、騒乱の地パリそのものを嫌悪する感情を植え付けた。成人後もマザランが実権を握り、1659年スペインとピレネー条約を結んだとき、王はスペイン王女マリア・テレサ(1638―1683)と政略結婚した。

[千葉治男]

親政開始

マザラン死後の1661年、王は親政を実現し、自ら定めた「王の仕事」に規則的に取り組んだ。国家統治や戦争政策から、狩りや音楽、舞踏、玉突きなどの趣味に至るまで、その仕事を精力的にこなすだけの体力の持ち主でもあった。人間不信感の強い王は、特定の宰相に政治を一任することはなく、起用する腹心も名門貴族を避け、相互に牽制(けんせい)させて強力な実権者の出現を防いだ。「卑しい町人どもの政治」(サン・シモン)といわれるゆえんである。もちろん、親政は、リシュリューからマザランによって進められた集権的行政官僚制のうえに築かれたのであり、王はそれをいっそう強化するとともに、地方特権と慣行をしだいに縮小し、王権の国家公権力性を高めた。「朕(ちん)は国家である」という有名なことばがある。王がこの語を発したという証拠はない。しかし、この語がふさわしい政治状況がその治世につくられたのである。

[千葉治男]

対内・外政策の推進

親政初期は、国家財政の樹立と不況からの脱出が重要課題であった。それまで王国には王家の家計はあっても国家財政は存在しなかった。また、17世紀は生産、流通、消費が停滞し、疫病流行と凶作の年が周期的にみられる世紀であった。そのため、財務総監にコルベールを起用した。コルベールは海洋植民帝国の構想を掲げ、貿易振興と産業育成、植民活動の促進と間接税の増徴をもって不況克服と財政健全化を図った。目標を先進国オランダに置き、高関税政策をもって挑戦した。この結果起こったオランダ戦争(1672~1678)は、ナイメーヘンの和約によって終わった。それはコルベール政策の挫折(ざせつ)を意味したが、ルイ14世にとっては最盛時代への幕開きとなった。

 1682年、宿願のベルサイユ新宮殿へ移った王は、モンテスパン夫人から隠れた王妃マントノンに至る寵妾(ちょうしょう)を従え、多くの諸侯に奉仕を強いる宮廷生活を繰り広げた。親政は、対内的には「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」をその方針としていたが、それは政治的、文化的斉一化政策となって現れる。国王行政官僚は身分的、職域的、地域的な諸特権に介入してその縮小を試み、アカデミー・フランセーズを通じて文化の規格化、序列化と言語の統一が進められた。そのため、地方の伝統的慣行と文化や方言はしだいに圧迫され、固有の文化伝統をもったブルターニュの住民は1675年、印紙税一揆(いっき)を引き起こした。

 一方、親政の対外政策は、コルベールの構想を退けて「大陸帝国」の実現に向けられた。そのため、ル・テリエさらにその子ルーボアを起用し民兵制による陸軍力を強化して、ハプスブルク勢力を圧倒する大陸制圧政策を強行した。「私は戦争を好む」と語る王の親政54年のうち、31年は戦争のときである。戦争はまず、王妃の権利を利用したフランドル戦争(別名帰属戦争、1667~1668)に始まり、オランダ戦争、プファルツ戦争(別名アウクスブルク同盟戦争、1688~1697)を経て、晩年のスペイン継承戦争(1701~1714)に至る。それはヨーロッパ最高の君主の座を目ざすルイ14世の野望の表現でもあった。

[千葉治男]

宗教対策

親政のなかでも最大の焦点となった問題は、宗教対策である。「唯一の宗教」を目ざす王は、まず異端ジャンセニストを抑圧したが、1680年代には国内ユグノーに対する大弾圧を開始した。そして、1685年、信教の自由を約したナントの王令(勅令)を廃止した。この行為は内外世論の激しい批判を受け、国際的に孤立するだけでなく、国内においても反発は根強く、やがて南フランスのユグノー農民による「カミザールの大反乱」(1702~1709)を誘発する。諸国はルイ14世の政策に反対しアウクスブルク同盟を結んだが、フランスの同盟者であったイギリスのジェームズ2世が名誉革命(1688)で失脚すると、イギリスを加えて一斉に反フランスの戦い(プファルツ戦争)を開始した。戦いは1697年ライスワイクの講和をもって終わり、ルイ14世の制圧政策はここに阻止され、王の威光はようやく落日へと傾く。

 1700年、王孫アンジュー公がスペイン王位を継承すると、ふたたび反フランスの戦い、いわゆる「スペイン継承戦争」が開始された。戦争は泥沼の長期戦となり、国内の反乱や大厳冬(1709)の飢饉(ききん)も加わって、ルイ14世の時代は悲惨のなかに終わる。王は、1715年9月1日、77歳で没した。

[千葉治男]



ルイ(16世)
るい
Louis ⅩⅥ
(1754―1793)

フランス王(在位1774~92)。ルイ15世の孫。オーストリアの皇女マリ・アントアネットと結婚(1770)。1774年祖父の後を継いで即位。性格が弱く、鈍重とさえいわれ、趣味の狩猟と錠前づくりにふけって政務に熱心ではなく、国王としての適性を欠いたことが後の悲運を招く最大原因となったといえよう。

 チュルゴー、マルゼルブなどを重用して革命前の旧制度の矛盾の解決、さらには財政危機の打開にあたらせたが、宮廷や貴族および僧侶(そうりょ)の2特権身分の抵抗にあって失敗した。ついでネッケルを起用したが、アメリカ独立革命への介入による国費の浪費で財政を破綻(はたん)させ、以後カロンヌ、ロメニー・ド・ブリエンヌを用いたが財政は悪化する一方で、名士会の招集などのすべての改革は特権身分の反抗で挫折(ざせつ)したうえ、第三身分もこれに戦術的に同調して三部会の招集が全国民的な要求となった。ルイ16世はこれに屈して1788年夏に三部会招集を決定、ふたたびネッケルを起用して難局にあたらせたが成功せず、翌年三部会が成長変身して国民議会となり革命が本格化すると、軍隊による議会弾圧を策し、かえってバスチーユの攻略を招くこととなり、ついに彼は人民の圧力に屈した。革命の勃発(ぼっぱつ)以来、断固とした首尾一貫の路線をとりえなかったことが、このような追い詰められる事態を招いた。

 以後、立憲王政の試行錯誤に対しても、自らの無定見と王妃マリ・アントアネットを中心とする宮廷の圧力とが相まって、新体制への面従腹背の姿勢で終始しつつ、ミラボー、ラ・ファイエット、ついでバルナーブと、主としてフイヤン派を通じて権力の回復を図ったが、すべて失敗した。ついに1791年6月20日一家をあげての逃亡を企てたが、これも失敗(バレンヌ逃亡事件)、立憲王政を基調とする「1791年憲法」の承認を余儀なくされた。

 彼は、憲法を具体化する立法議会期になってからもなお素志を捨てきれず、ジロンド派の戦争政策に便乗し、敗戦による敵軍の干渉を通して絶対王政の回復を目ざした。そのため、開戦後は戦争推進にサボタージュを続けて人民の怒りを買い、1792年8月10日の人民蜂起(ほうき)で王政を覆され、タンプルの牢獄(ろうごく)に幽閉された。国民公会期に山岳派(モンタニャール)の主唱する裁判で祖国と革命に対する裏切りのかどで断罪され、翌1793年1月21日ギロチンの犠牲となって刑死した。

[樋口謹一]

『クレリー他著、ジャック・ブロス編、吉田春美訳『ルイ十六世幽囚記』(1989・福武書店)』



ルイ(11世)
るい
Louis Ⅺ
(1423―1483)

バロア朝第6代フランス王(在位1461~83)。母はアンジュー公女マリ。父シャルル7世が廃嫡された王太子として亡命政権をたてていたブールジュに生まれる。青年時代は父王に反逆し、王太子領ドーフィネにこもり、ついにはブルゴーニュ公家の庇護(ひご)を求める。1461年家督を相続した彼は父王の顧問官たちをすべて退けるなど専権を振るい、王弟を含む諸侯の反乱を招く(1464~65、公益同盟戦争)。乱の指導者格だったのがブルゴーニュフィリップの息子シャルル4世で、67年シャルル4世が公位を襲うや、両者の死闘は避けがたいものとなった。ルイ11世は、フランス王権の統制からの離脱を図って独立国家を構想するシャルルをドイツ諸侯、スイス諸都市、あるいはイングランド王家と結んで包囲し、自ら手を汚すことなく、77年シャルルをナンシーに敗死させた。ルイ11世は、ブルゴーニュ公女マリアと自分の息子シャルルとの結婚を通じて公国の合併吸収を図るが、これは失敗し、軍事力をもってブルゴーニュ公領(フランシュ・コンテ)とアルトア伯領を王領に加えることで満足しなければならなかった。ブルゴーニュの軍事力を失った諸侯は、相次いでルイ11世の統制に服し、王権の直接統制を受けない諸公領はブルターニュ公領を残すのみとなった。ルイのマキャベリズムに徹した王権政策の展開は、ローヌ川中流のリヨン、河口のマルセイユを基地とする地中海交易への進出、リヨン、さらにロアール川中流のトゥールへの絹織物産業の導入、鉱山の開発など積極的な経済政策に負うところが大きかった。彼のあだ名「商人王」の由来の一端はここにもみられよう。また、注目すべきは、彼の行政機構の人事に振るった手腕、また情報収集、指令伝達のための駅逓(えきてい)制度の創設である。政治を技術として操ったルイ11世の代、フランス王制は一つのスタイルを得た。晩年の彼は、ただ1人信頼するフィリップ・ド・コミーヌとともに、トゥール近郊プレシ・レ・トゥールの館(やかた)にこもり、孤独のうちに死んだ。

[堀越孝一]


ルイ(13世)
るい
Louis ⅩⅢ
(1601―1643)

フランス国王(在位1610~43)。アンリ4世とマリ・ド・メディシスの長子。9歳のとき父王の暗殺に接し、母后が摂政(せっしょう)となった。1614年成人を迎えたが政治から遠ざけられ、そのいらだちで母后のお気に入りであったコンチニの暗殺を導いたが、その後自分の配下リュイヌの権力濫用を被った。宰相リシュリューとの長い信頼関係は24年から始まった。リシュリューは王国の隆盛と国王の尊厳の確立を目ざして王の信頼にこたえ、王はまた宮廷の数々の陰謀(有名なものに30年11月10日の「斯かれた者たちの日」事件がある)にもかかわらず、彼を信頼し続けた。ルイ13世は健康に恵まれず、臆病(おくびょう)であったが、自己の義務と権威については細心の注意を払い、王国を聖母マリアに捧(ささ)げるほどの信心家でもあった。国内ではプロテスタント勢力の打破に努めて1629年その牙城(がじょう)ラ・ロシェルを落とし、対外的には反ハプスブルク家の立場から三十年戦争に介入してアルトア、アルザスの大部分、ルシヨンを征服した。彼は1615年アンヌ・ドートリッシュと結婚したが、世継ぎの王子が誕生(1638、後のルイ14世)するまで23年間も待たねばならなかったため、この長い王太子の不在が、王弟で推定継承者のガストン・ドルレアンに希望を抱く貴族たちの陰謀を助長することにもなった。しかし、ルイに次いでフィリップの誕生(1640)は王政を堅固にした。ルイ13世の治世は民衆運動が激発した時代でもあり、フランス南西部からノルマンディーそして南フランスへと広がって混乱に満ちた統治期であった。しかしそのつどリシュリューの指導力によって困難を脱し、絶対王政の生みの苦しみの時代を生き抜き、リシュリューの死後は彼の政策を維持して王国の統治に努めた。

[志垣嘉夫]



ルイ(15世)
るい
Louis ⅩⅤ
(1710―1774)

フランス王(在位1715~74)。最愛王le Bien Aiméと称される。ルイ14世の曽孫(そうそん)。5歳で即位したため、故王の甥(おい)オルレアン公フィリップが摂政(せっしょう)となる。摂政政治(1715~23)は多元会議制Polysynodieの無力な統治で終わり、成人した王は元ポーランド王女レクザンスカと結婚(1725)した。1726年以来枢機卿(すうききょう)フルリーが実権を握る時代(1726~43)に入るが、この時代はようやく長い不況から脱出して経済は安定成長を始め、啓蒙(けいもう)の時代へと向かうときである。また、ポーランド継承戦争(1733~35)を起こし、ロレーヌを取得した。

 フルリーの死(1743)後、親政が開始された。王は神経質で気まぐれ、しかも怠惰な気質の持ち主で、親政といっても、政治は有能な大臣に任せ、また寵妾(ちょうしょう)ポンパドゥール夫人の才知に影響された。親政時代の政策は、啓蒙専制的改革の性格をもっていた点に特色がある。親政初期の財政総監マショー(在任1745~54)は、新直接税バンティエームを創設するにあたって、不公正な免税特権を排し、収入に応じて課税しようとした。それは貴族から「租税戦争」と恐れられた税制改革であり、そこに特権体制否定の思想が表現されている。中期には、実力者ショアズールのもとに重農主義思想をもった開明的官僚が任用され、財政負担の平等と経済活動の自由化政策が企てられた。また、この時代にアンティル諸島を保守し、コルシカ島の領有(1768)に成功したが、七年戦争(1756~63)による深刻な打撃は財政を極度に悪化させた。この改革路線は財政危機打開のために必要であったが、それはつねに高等法院の反対を受け、挫折(ざせつ)した。そして、親政末期に行われた大法官モプーの改革は、この高等法院そのものを廃棄する改革であった。しかし、この改革もルイ15世の死(1774年5月10日)とともに覆され、未完に終わった。

[千葉治男]



ルイ(9世)
るい
Louis Ⅸ
(1214―1270)

カペー朝第9代のフランス王(在位1226~1270)。ルイ8世の子。1297年ローマ教会によって列聖され、通称は聖王、サン・ルイsaint Louis。即位後10年は、年少のため、母后ブランシュ・ド・カスティーユが摂政(せっしょう)となる。この間、母后は封建諸侯の反乱を鎮定し、アルビジョア派のトゥールーズ伯領を王領化する道を開いた。ルイの親政は、正義と平和に徹したから、国内は平穏で、ソルボンヌ神学校(後のパリ大学)の創設をはじめ、学問、芸術、慈善事業が振興された。内政面では、聖俗諸侯による国王諮問会議から高等法院と財務官房が分化独立、国王金貨の基準が設定されて、経済の安定が図られた。外交面では、平和主義を貫き、ピレネー山脈を国境と定めてアラゴンとの紛争を解決(1258)、ノルマンディー、アンジュー、トゥレーヌなどをフランス領とするかわりに、ギエンヌなど南フランスの諸地をイギリスに与え(1259)、イギリスとの間に和平を保った。こうして彼の治世は、フランス王権の威信を国際的に高める結果となったので、イギリス王ヘンリー3世とイギリス諸侯の争いを解決したアミアン裁定(1264)のように、諸国の国内紛争の調停を依頼されるほどであった。敬虔(けいけん)な信仰心に生きた彼は、ローマ教皇の信任も厚く、十字軍にも進んで参加した。第七次十字軍ではエジプトに遠征して捕虜となり、第八次十字軍に参加してついにアフリカのチュニスに没した。

[井上泰男]


ルイ(18世)
るい
Louis 18
(1755―1824)

フランス王(在位1814~24)。ルイ16世の次弟。初めプロバンス伯と称し、ルイ16世即位後は「殿下(ムッシュー)」とよばれた。フランス革命の初期には革命を容認する態度をとったが、反革命陰謀の疑いをかけられ1791年6月20日、ルイ16世のバレンヌ逃亡事件当日ベルギーに亡命、ついでコブレンツで弟アルトア伯(後のシャルル10世)と落ち合い、フランス国内の王党派と結んで反革命運動を展開した。1814年4月ナポレオン1世の廃位ののち亡命先のイギリスより帰国。サン・トゥーアン宣言により大革命の成果である基本的自由権と代議政体とを保障して王位につき、ブルボン王朝を復活させた。連合国とのパリ講和条約に調印するとともに、欽定(きんてい)憲法たる「憲章(シヤルト)」を発布して立憲王制を樹立した。15年ナポレオンの「百日天下」の間はベルギーへ亡命。ナポレオン没落後白色テロが荒れ狂い過激王党(ユルトラ)派が議会を支配したが、王は反動の行き過ぎを極力抑え、旧貴族と上層ブルジョアの間の和解を図った。16年の過激派議会の解散後リシュリュー、ドカーズら立憲王党派の手によって穏和な自由主義的改革が進められ、王の政治路線が定着するかにみえた。しかし、20年の王位継承者ベリー公暗殺を機に過激王党派がふたたび優勢となり、同派のビレールが首相となって反動政策を推進し、自由主義者や共和派との対立を深めたため、王の中庸、和解の政策は結局失敗に終わった。

[服部春彦]


ルイ(7世)
るい
Louis Ⅶ
(1121ころ―1180)

カペー朝第6代のフランス王(在位1137~80)。父王ルイ6世の政策を継ぎ、イル・ド・フランスの聖俗諸侯権力の除去あるいは服属に努め、カペー直轄領の強化を図った。ユリの花をフランス王家の紋章に定めた。信心深いキリスト教徒として、神聖ローマ皇帝コンラート3世とともに第二次十字軍(1147~49)に参加したが、1148年、ダマスカスを目前に撤退。政治的力量には欠け、国王顧問のシュジェールSuger(1081ころ―1151。サン・ドニ修道院長)の死去後、アキテーヌ公領の相続者たる妃アリエノールを離婚(1154)、これがやがてフランス王権に重大な危機をもたらすことになる。それは、アリエノールがノルマンディー公領の継承者でもあるアンジュー伯アンリ(後のイギリス王ヘンリー2世)と再婚したため、ノルマンディー、アンジュー、アキテーヌにまたがる広大な領域がイギリス王の手に帰したからである。

[井上泰男]


ルイ(1世)
るい
Louis Ⅰ
(778―840)

カロリング朝フランク王国第2代の王(在位813~840)。ドイツではルートウィヒ1世とよばれる。カール大帝の第3子で、初めアクィタニア分国王に封ぜられたが、2人の兄が早世したため813年父の共同統治者となり、翌年父の死後単独で帝国を統治した。信仰心厚く、教会・修道院を保護したので敬虔(けいけん)帝とよばれたが、政治的にはフランク王国を弱体化させる結果を招いた。帝国計画令を発し(817)、次子ピピンをアクィタニア、三子ルートウィヒをバイエルンの分国王に封じ、長子ロタールに皇帝位を譲ることを定めたが、再婚後生まれたカール(2世)のため相続令を修正しようとした結果、3人の子供に結束して背かれ、一時は廃位の憂き目をみた。この相続争いは彼の死後内乱に発展し、ベルダン条約(843)で帝国は3分割された。

[平城照介]


ルイ(12世)
るい
Louis Ⅻ
(1462―1515)

バロア朝第8代のフランス王(在位1498~1515)。オルレアン公家第3代当主。1498年継嗣(けいし)を欠いて死去したシャルル8世を継いで即位。ルイ11世の娘ジャンヌを妻としていたが、即位後これを離婚し、シャルル8世の寡婦アンヌ・ド・ブルターニュと再婚する。前王のナポリ王国に対する野望を継ぐとともに、祖母がビスコンティ家の血縁であることからミラノ公国に対する権利要求を押し立てて、99年以降イタリアに遠征し、ジェノバ、ミラノを占領する。この行動はベネチアおよびローマ教皇との対立を結果し、結局イタリアにおける地歩を失った。

[堀越孝一]


ルイ
るい

ルイス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルイ」の意味・わかりやすい解説

ルイ
Louÿs, Pierre

[生]1870.12.10. ベルギー,ヘント
[没]1925.6.4. パリ
フランスの詩人,小説家。本名 Pierre-Félix Louis。エコール・アルザシエンヌ在学中にジッドと親交を結び,バレリー,マラルメ,エレディアらを知る。 1891年雑誌『コンク』 La Conqueを創刊。ギリシア抒情詩の形式を模倣した詩集『アスタルテ』 Astarté (1893) のあと,古代ギリシアの架空の女流詩人に仮託した散文詩『ビリチスの歌』 Les Chansons de Bilitis (94) ,古代ギリシアの遊女の生活と官能的恋愛を描いた小説『アフロディット』 Aphrodite (96) ,情熱の猛威を描いた小説『女と人形』 La Femme et le pantin (98) などを発表,該博な知識と形式や色彩に対する鋭い感覚によって,華麗な世界をつくりだした。

ルイ
Louis, Pierre Charles Alexandre

[生]1787.4.14. シャンパーニュ
[没]1872.8.22. パリ
フランスの医師,病理解剖学者,医用統計学の開拓者。青年期をロシアで過して,既存の医学が疫病に対し無力なことを痛感,さらに勉学のためパリに戻った。 1820年以後は病理学に目を向けたが,25年医学的事実を統計的に分析することにより学説の当否を反証できること,実験不可能な場合にも統計の応用によって信頼できる結論を得ることに着想し,ピティエ病院,パリ市立病院で医用統計学の確立に努めた。病理学面では結核,腸チフスについて業績を残したほか,29年には腸チフスのバラ疹を記載した。

ルイ
Louis, Dauphin de France

[生]1729. ベルサイユ
[没]1765. フォンテンブロー
フランスの皇太子。国王ルイ 15世マリ・レシチンスカの間に生れた。政権から疎外され,信仰団体を主宰した。ルイ 16世,ルイ 18世,シャルル 10世の父にあたる。

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