オランダ戦争(読み)オランダせんそう

改訂新版 世界大百科事典 「オランダ戦争」の意味・わかりやすい解説

オランダ戦争 (オランダせんそう)

フランスルイ14世が1672-78年にオランダを侵略した戦争。ネーデルラント戦争ともいう。ライン川自然国境説を唱えていたルイは,先のフランドル戦争では目的達成に失敗したが,今度はイギリスとドイツ諸侯をだきこんで,1672年4月に約12万の大軍をもってオランダ東部に侵入した。ほぼ同時にドイツ軍も侵攻し,海上からは英仏連合艦隊が攻撃して,オランダは国家存亡の危機に立たされた。しかしウィト失脚の後をうけたウィレム3世が陸軍を再編制して反撃に移り,海上ではロイテル指揮のオランダ艦隊が再三にわたって英仏艦隊を破り,73年末にはオランダは危機を脱した。その後イギリス,ドイツ,スペインがオランダ側についたため形勢は逆転し,78年にナイメーヘンの和約が成立した。この戦争の背景にはコルベールの高関税政策に端を発したフランスとオランダの経済的対立もあった。オランダは全土を保持したものの,戦争による疲弊ははなはだしく,以前の栄光は失墜した。なおオランダ戦争というのはフランス側の呼称であり,オランダではルイ14世の侵略戦争と呼ぶのが普通である。
フランドル戦争
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「オランダ戦争」の意味・わかりやすい解説

オランダ戦争
おらんだせんそう

フランス王ルイ14世の対オランダ侵略戦争(1672~78)。コルベールの対オランダ高関税政策と、ルイ14世の大陸制圧政策推進の結果起こった戦争。戦いは、フランスと密約したイギリスの第三次イギリス・オランダ戦争の形で開始され、ついでルイ14世が大軍を率いてオランダに侵入した。危機に直面したオランダ民衆は、洪水作戦を展開し、さらにウィット政権を打倒しオラニエ家のウィレム(後のイギリス王ウィリアム3世)を共和国総督に迎え、徹底抗戦を続けた。オランダの蘇生(そせい)を機に、スペイン、ドイツ皇帝や諸侯がオランダを支持し、1674年イギリスも単独講和した。孤立したルイ14世はオランダから撤兵し、戦いはハプスブルク勢力との長期戦に変わり、結局、78年8月ナイメーヘンの講和(対ドイツ講和は79年2月)をもって終わった。フランスは高関税を撤回し、コルベール政策は挫折(ざせつ)したが、フランシュ・コンテほかを獲得し、フランスの軍事、外交、文化上の威勢は全ヨーロッパに及んだ。

[千葉治男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オランダ戦争」の意味・わかりやすい解説

オランダ戦争
オランダせんそう
Dutch War

日本では,普通ネーデルラント戦争をさす。 1672~78年におけるフランス王ルイ 14世のオランダ侵略戦争。フランスは経済先進国オランダに対抗して高関税政策を強行し,イギリスと結んでオランダ占領をはかった。 72年5月フランス軍はフランドルからドイツのケルン大司教領を迂回して東部国境からオランダ共和国に侵入,ユトレヒトを攻略してオランダの心臓部アムステルダムまで数十 kmの地点に迫った。危機に直面したオランダは堤防を切る浸水作戦をもって抵抗。同時にオランニェ家のウィレム3世 (のちのイングランド王ウィリアム3世 ) を総督に迎える政変が起り,立直った。海上でも名提督 M.デ・ロイテル指揮下のオランダ艦隊はイギリス=フランス連合艦隊を撃退した。また神聖ローマ皇帝レオポルト1世とスペイン王カルロス2世の支援を取付け,逆にフランスを孤立に追込み危機を脱した。 78年ナイメーヘンの講和により終結。フランスのオランダ合併の意図は失敗したが,ルイ 14世の威光は全ヨーロッパに広まった。

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百科事典マイペディア 「オランダ戦争」の意味・わかりやすい解説

オランダ戦争【オランダせんそう】

1672年―1678年,フランスのルイ14世によるオランダへの侵略戦争。ネーデルラント戦争とも。フランドル戦争の報復のため,ルイ14世は英国,スウェーデンなどと同盟してオランダに侵入。総督ウィレム3世(ウィリアム3世)はよく防戦し,またプロイセン,オーストリア,スペインと結んでルイを孤立化させ,ナイメーヘンの和約を締結した。
→関連項目英蘭戦争

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オランダ戦争」の解説

オランダ戦争(オランダせんそう)
Guerre de Hollande

フランス王ルイ14世の侵略戦争の一つ(1672~78年)。さきの南ネーデルラント継承戦争で領土拡大の成果をあげられず,オランダに反感を持ったルイ14世は,イギリスと組んで1672年にオランダに侵攻した。オランダはこれに反撃し,神聖ローマ皇帝,スペイン,デンマークを味方につけ,74年にはイギリスとも和解したためにフランスは孤立し,78~79年にナイメーヘンの和約が成立した。

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世界大百科事典(旧版)内のオランダ戦争の言及

【コルベール】より

…彼の経済観念も諸施策も革新的なものではなく,すでにラフマ,リシュリューら先駆者をもつが,経済状況の悪化と財政上の要請から,彼の施策は対外的には“貨幣戦争”という著しく攻撃的な性格を帯び,国内でも強権的で煩瑣な国家統制・国家後見を伴い,コルベルティスムColbertismeと総称されて王室的重商主義の典型といわれる。コルベルティスムは間接税の増収など一時的な成果をあげたが,イギリス・オランダの商工業との格差を克服できず,特権事業は不振に陥り,総じて“危機への絶望的対応”にとどまり,高関税率はオランダ戦争を招いて財政を破綻させた。また,工業への食糧・原料の供給源としてのみ考慮された農業は低穀価政策の下で停滞的な状態におかれた。…

※「オランダ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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