日本大百科全書(ニッポニカ) 「フィウーメ問題」の意味・わかりやすい解説
フィウーメ問題
ふぃうーめもんだい
アドリア海沿岸の港湾都市フィウーメFiume(現クロアチア領リエカ)の帰属をめぐるイタリア、ユーゴスラビア間の紛争。第一次世界大戦までフィウーメはオーストリアの支配下にあったが、住民のなかでイタリア人が多く、文化的にもイタリア色が優勢で、またかつてベネチア領だったこともあって、オーストリアに対するイタリア・イレデンタ運動の対象となった。1905年には、イタリア系住民の間で「若きフィウーメ」という愛国的団体も結成された。戦後この問題へのイタリア国民の関心は高まり、19年初頭に始まったパリ平和会議はこの問題をめぐり紛糾し、同年4月にはイタリア代表の退場事件が生じた。
イタリア併合を要求していたフィウーメ国民会議が連合軍によって解散されると、同年9月詩人ダンヌンツィオは義勇兵を率いてフィウーメに遠征し、同市を占領して臨時政府を樹立した。20年11月、イタリアはユーゴスラビアとラパロ条約を結んでフィウーメを自由市として独立させ、それを認めないダンヌンツィオの義勇軍を一掃した。その後、ムッソリーニはユーゴスラビアとのローマ協定によりフィウーメのイタリア併合を実現した(1924)。第二次大戦中、フィウーメはユーゴスラビアのパルチザンに解放され、戦後パリ条約(1947)によりユーゴスラビア領になったが、91年に旧ユーゴスラビアから独立したクロアチア領となった。
[重岡保郎]