ムッソリーニ(読み)むっそりーに(英語表記)Benito Mussolini

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムッソリーニ」の意味・わかりやすい解説

ムッソリーニ
むっそりーに
Benito Mussolini
(1883―1945)

イタリアの政治家、ファシズムの創始者。ロマーニャ地方プレダッピオ村の鍛冶(かじ)職人の息子として生まれる。無政府主義者で反教権的社会主義者であった父親の強い影響の下で青春期を過ごした。師範学校卒業後、1902年から約2年間スイス各地を放浪。亡命者の集まるこの国で社会主義運動の生活体験を積み、弁説やジャーナリストの才能に目覚める一方、のちに彼のうちで発酵することになる種々の思想的酵母(ソレル、ブランキ、ニーチェパレート)を知った。帰国後、兵役についた(1905~1906)が、除隊して各地で教師生活をしながら社会主義地方新聞に寄稿する(1908)。その後オーストリア領トレントの労働会議所書記となったが、まもなくロマーニャに帰り、フォルリ社会党連盟書記になった(1910)。ここで『ロッタ・ディ・クラッセ(階級闘争)』紙を創刊、反教権主義と革命的社会主義を宣伝し、リビア戦争が起こると反戦行動を扇動し、5か月間投獄された(1911)。この事件以来、党内で過激主義者として多少知られるようになるが、1912年の党大会では右翼改良主義者の追放演説で脚光を浴び、一躍指導部に選出された。まもなく党機関紙『アバンティ(前進)』の編集長(事実上の党委員長)になると、彼の指導下に執行部と党機関で非妥協的左派が多数となり、同紙は党外の旧サンジカリストを含めた革命的左派の論壇となった。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)(1914)当時、彼は党是である絶対中立の立場を擁護したが、戦局の展開とともに、戦争を通じて革命を展望するサンジカリストの論理に共鳴し、1914年10月、参戦論を機関紙に発表し、党を追われた。翌11月、イタリア工業家などの融資を受けて日刊新聞『イタリア人民』紙を発刊したが、これは左翼および民主的参戦運動の組織化に貢献しただけでなく、戦後ファシズム運動の機関紙にもなった。1915年8月に応召して前線勤務につき、重傷を負って除隊した。

 大戦後、参戦派と反戦派の反目・対立が激化する1919年3月、ムッソリーニは参戦勢力の一部とともにミラノで「戦闘ファッシ」を結成。この運動は1920年末から社会党に敵対する勢力として急速に膨張し、1921年秋にはファシスト党に改組された。彼は党首としてこの党をてこにアナーキーなファシスト運動を統制し、旧支配層との政治的取引に運動を利用しながら、1922年10月ローマ進軍を行い、組閣して権力に到達した。以後20年以上も首相の座を守ることになる。当初連立政権から出発したが、1924年のマッテオッティ暗殺後、反ファシズムの世論の沸騰を前に危機に陥ったムッソリーニは民主主義の装いをかなぐり捨て、ファシズム以外のあらゆる政党と組織を解体し、いわゆる一党独裁体制を樹立した(1925~1926)。階級闘争の凍結と経済の安定化、さらに教会とのラテラン協定調印(1929)により旧支配層との妥協政策を完成し、国民の同意を得ることにも成功した。この体制の頂点にあってすべての権力を掌握したムッソリーニは、公式にドゥーチェ(首領)とよばれた。

 1935年10月エチオピア侵略に乗り出したが、これに抗議する国際世論と国際連盟に対抗するためドイツへの接近を余儀なくされた。スペイン内戦への介入(1936)はこの接近をますます促し、ベルリン・ローマ枢軸の形成(1936)、国際連盟脱退(1937)、反ユダヤ主義の導入(1938)を行い、ドイツとの軍事同盟(1939)に達した。第二次世界大戦にドイツに遅れて参戦(1940.6)したが、1940年10月に始まるギリシア侵攻の敗北により、ドイツへの従属は決定的となった。敗色濃厚の1943年7月ムッソリーニは、軍部のクーデターによって一夜のうちに失脚し、グラン・サッソの山中に拘置された。ドイツ軍は彼を救出し、同年9月北イタリアに傀儡(かいらい)国家(イタリア社会共和国)を樹立。1945年4月パルチザンの蜂起(ほうき)により、ナチ・ファシストの支配は一掃され、スイスに逃亡を図った彼は、コモ湖畔でパルチザンに捕らえられ、同月28日処刑された。

[重岡保郎]

『ローラ・フェルミ著、柴田敏夫訳『ムッソリーニ』(1967・紀伊國屋書店)』『ポール・ギショネ著、長谷川公昭訳『ムッソリーニとファシズム』(白水社・文庫クセジュ)』『マクス・ガロ著、木村裕訳『ムッソリーニの時代』(1987・文芸春秋)』『R・ムッソリーニ他著、谷亀利一訳『素顔の独裁者――わが夫ムッソリーニ』(1980・角川書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムッソリーニ」の意味・わかりやすい解説

ムッソリーニ
Mussolini, Benito

[生]1883.7.29. プレダッピオ,ドビア
[没]1945.4.28. コモ湖畔ドンゴ
イタリアの政治家。師範学校卒業後,1900年社会党入党。 01年小学校教員。 12年党機関誌『アバンティ』の編集長をつとめ,当初反戦を唱えたが,第1次世界大戦勃発後,戦争支持に転じ党から除名された。大戦に従軍して負傷,19年復員兵などを集め戦闘者団 (戦闘ファッシ ) を創立,武装私兵 (黒シャツ隊) を組織し,社会主義者などを襲撃した。 21年国会議員に当選し,同年戦闘者団を国家ファシスト党に改組,その党首となった。 22年ローマ進軍を経て政権の座につき,最初から首相のほか内相,外相をつとめ,一時は7つの大臣を兼務した。また政権を掌握したほぼ全期間にわたり,陸・海・空の3軍の省をみずから押え,25年以降立法,司法両権も掌握,全体主義体制を固めた。また 35年のエチオピア侵略,36~39年のスペイン内乱への干渉など,帝国主義的政策を推進。 39年ドイツと軍事同盟を締結,40年イギリス,フランスに宣戦したが,各地の戦闘で敗れ,43年失脚,逮捕,監禁された。同年9月ドイツ軍に救出され,ナチス・ドイツの傀儡政権を組織したが,45年パルチザンに愛人クララ・ペタッチとともに逮捕され,即決裁判を受け銃殺された。

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