フレゼリク(読み)ふれぜりく(英語表記)Frederik Ⅵ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フレゼリク」の意味・わかりやすい解説

フレゼリク(6世)
ふれぜりく
Frederik Ⅵ
(1768―1839)

デンマーク王(在位1808~1839)、ノルウェー王(在位1808~1814)。クリスティアン7世Christian Ⅶ(1749―1808、在位1766~1808)の子。1784年にデンマークの非ドイツ化を進める保守勢力を一掃したのち、政務遂行不能な父王の摂政(せっしょう)として「土地緊縛法」廃止等を内容とする改革事業(1786~1799)を中立主義者ベアンストーフAndreas Peter Bernstorff(1735―1797)らと推進し、のちに実権を握った。1801年、イギリスがデンマーク艦隊に大打撃を与え、さらにコペンハーゲン攻撃やデンマーク艦隊引き渡しを強行した(1807)ため、ナポレオンと同盟したが、スウェーデンベルナドット(後のカール14世)の率いる対仏同盟軍に敗れ、キール講和条約によりノルウェーを失った(1814)。1804~1814年には、諮問会議ではなく、武官による統治を行った。フランスの七月革命の影響や自由主義者の要求の前に四地方議会を設置した(1834)が、決定権は自ら掌握した。統治者としての能力は不十分であったが、勤勉で誠実な人柄のため晩年の人望は厚かった。

[荒川明久]

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世界大百科事典(旧版)内のフレゼリクの言及

【オレンボー朝】より

…1448‐1863年(ノルウェーでは1814年まで)。ドイツのオルデンブルクOldenburgに発する伯爵家のクリスティアンChristian(のち1世)が,1448年にデンマーク王に推戴され,開祖となり(在位1448‐81),2人の息子ハンス(在位1481‐1513),フレゼリク1世(在位1523‐33)から2系統のオレンボー家が発する。前者はクリスティアン2世(在位1513‐23)の死によって断絶し,後者はフレゼリク6世(在位1808‐39)まで続く。…

【デンマーク】より

…次王ハンスHans(在位1481‐1513)は,79年にコペンハーゲン大学を設立した。フレゼリク1世Frederik I(在位1523‐33)は,ルターのもとに学んだデンマークの修道士タウセンHans Tausen(1494‐1561)がもたらしたルター主義を保護し,これによってデンマークの〈宗教改革〉が始まった。没後その子クリスティアン3世(在位1534‐59)の王位継承が混乱の中で貴族会により1年間拒絶されたが,ユトランドの貴族らは彼を支持した。…

【オレンボー朝】より

…1448‐1863年(ノルウェーでは1814年まで)。ドイツのオルデンブルクOldenburgに発する伯爵家のクリスティアンChristian(のち1世)が,1448年にデンマーク王に推戴され,開祖となり(在位1448‐81),2人の息子ハンス(在位1481‐1513),フレゼリク1世(在位1523‐33)から2系統のオレンボー家が発する。前者はクリスティアン2世(在位1513‐23)の死によって断絶し,後者はフレゼリク6世(在位1808‐39)まで続く。…

【デンマーク】より

…次王ハンスHans(在位1481‐1513)は,79年にコペンハーゲン大学を設立した。フレゼリク1世Frederik I(在位1523‐33)は,ルターのもとに学んだデンマークの修道士タウセンHans Tausen(1494‐1561)がもたらしたルター主義を保護し,これによってデンマークの〈宗教改革〉が始まった。没後その子クリスティアン3世(在位1534‐59)の王位継承が混乱の中で貴族会により1年間拒絶されたが,ユトランドの貴族らは彼を支持した。…

【オレンボー朝】より

…1448‐1863年(ノルウェーでは1814年まで)。ドイツのオルデンブルクOldenburgに発する伯爵家のクリスティアンChristian(のち1世)が,1448年にデンマーク王に推戴され,開祖となり(在位1448‐81),2人の息子ハンス(在位1481‐1513),フレゼリク1世(在位1523‐33)から2系統のオレンボー家が発する。前者はクリスティアン2世(在位1513‐23)の死によって断絶し,後者はフレゼリク6世(在位1808‐39)まで続く。…

【グルベア】より

…デンマークの政治家。急進的政策を推進するドイツ人宰相ストルーエンセ打倒に成功したフレゼリク皇太子派の中心人物として,1772年以降実質的に宰相の地位に就いた(官職名としては1780以降)。前政策の反動として,ドイツ人官僚の排除,デンマークの絶対王制官僚機構の強化と言論の自由の規制が図られた。…

【ストルーエンセ】より

…その地位にあった16ヵ月の間に約2000の法令を発布し,自ら啓蒙主義改革者として言論の自由,拷問の禁止等をはじめ政治的・経済的にきわめて自由主義的色彩の濃い政策を敢行した。19世紀の経済的・社会的改革の先駆者として歴史的には評価されてはいるものの,時代の被抑圧者らの理解も得られることなく,その独裁的性向,性急すぎる改革,王妃との不貞,デンマーク語の不使用が,宮廷・軍部内の反対者を結集させるところとなり,第1王位継承者フレゼリクFrederik(1753‐1805)やグルベアを中心とする反ストルーエンセ派によって1772年1月17日逮捕され,4月28日斬首された。【村井 誠人】。…

※「フレゼリク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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