ドイツの劇作家、小説家。10月18日、プロイセンの軍人の家系に生まれる。ポツダムの近衛(このえ)連隊に入り少尉に進んだが、人生の幸福、真実を自己の内面の問題として追求する道を選び、軍籍を離れる(1799)。郷里フランクフルト(オーデル河畔)の大学に学び、婚約者を得、官吏の途を模索。カント哲学から絶対的認識の不可能を読み取り、衝撃を受ける。パリへ旅行する。この大都会の生活を嫌悪し、ルソーへの傾斜を強め、スイスの自然のなかで農夫を志す。不同意の婚約者と関係を絶ち、孤独のうちに本格的な創作活動に入る(1802)。婚約者あての一連の書簡は、作家誕生に至る青年の精神の所在を伝えるユニークな記録である。スイスでは処女作『シュロッフェンシュタイン一族』(悲劇)を書き上げるが、野心的悲劇『ローベルト・ギスカール』を完成できず放浪、心身の病に悩まされる(1803)。ふたたびプロイセンの役所に入るが、役所勤めは長続きしない。この時期、創作意欲を回復。プロイセンもナポレオンに屈伏し、フランス軍に捕らえられるが創作を続行。喜劇『アンフィートリュオン』を刊行(1807)。釈放後ドレスデンに移り、活発な文学活動を開始する。A・ミュラーと月刊誌『フェーブス』を創刊。悲劇『ペンテジレーア』をはじめとする戯曲のほか短編も発表。この間、喜劇『こわれ甕(がめ)』の初演が失敗し、演出したゲーテと確執。ナポレオンに対する憎悪から愛国的な詩や戯曲を書き下ろす。ベルリンを舞台に最後の活動を展開する(1810)。ロマン派の文人と交際し『ベルリン夕刊新聞』を発行、自作の短編やエッセイ(『人形芝居』ほか)も掲載。戯曲『ホンブルク公子』を王室に献上。『短編小説集』2巻(1810~1811、『ミヒャエル・コールハース』以下8編)を出版。不遇のうちに1811年11月21日、人妻とともにベルリン郊外ワンゼー湖畔でピストル自殺。その場に埋葬され、墓所となる。
クライストは19世紀初頭のほぼ10年間に各8編の戯曲と短編を創作したが、ドイツの作家には珍しく悲劇と喜劇の両面で希有(けう)の才能を発揮し、散文では本格的な近代短編小説を開拓、ジャーナリズムの分野でも先駆的役割を果たした。人間の認識能力の不備(誤認・誤解)とそれに起因する激烈な葛藤(かっとう)を描くが、同時にこれを自我の内奥の絶対的「感情」によって克服し、他者や外界との信頼関係を回復しようとする。作中人物には天上的幸福の記憶あるいは予見があり、この幸福の再現、成就を熱望する。幸福のかりそめの成立と崩壊の過程が劇的に展開し、彼らは歓喜と絶望、愛と憎しみの両極を経験する。人間存在の「謎(なぞ)」の深部への肉薄と過激な表現は、啓蒙(けいもう)主義の悟性や古典主義の調和を突き破る。夢や分身のモチーフはロマン派と共通するが、主観的幻想に埋没せず、無類の筆力によってリアルな形式の完結性を保持する。彼をプロイセンの国粋的詩人あるいは病的異常性格の作家に限定することはできない。今日では実存主義文学の先駆ないし20世紀文学の源流として、その現代性は国際的にも評価されている。
[中村志朗]
『短編小説集』2巻(1810、1811)には、『ミヒャエル・コールハース』をはじめ『O侯爵夫人』『チリの地震』『サント・ドミンゴ島の婚約』『決闘』など8編の名短編が収録されているが、全編に共通する魅力や特徴として次のようなことをあげることができる。
(1)短編の自立
クライストの短編は、もはや詩歌を織り込む悠長な物語の一部でもなければ、社交の場(サロン)における談話調の連鎖形式の一部でもない。各短編は単独で存在し、完結した内容と形式をもつ。語り手も叙述の対象の背後に隠れ、主観的告白を作中に交えることはほとんどない。
(2)劇的短編
天成の劇作家の手腕を反映し、戯曲同様の緊密な構成、迫力ある展開を示す。衝撃的な発端も特色。主人公を巻き込む異常な事件や状況が冒頭で一気に述べられ、その筆力は圧倒的。この重い発端はその後の展開や結末までも射程に収めている。あるいは動乱の嵐(あらし)のさなかに配される、台風の目のような静穏の場面。人生の夢が成就(じょうじゅ)したようなこのつかのまの場面は印象的で哀切である。
(3)主題と変奏
作者特有の主題やモチーフの興味深い変奏を、8編の短編のそれぞれにおいて味わうことができる。世界は神の不在を物語る偶然的な「脆(もろ)い仕組み」を露呈する一方、隠れたる神の存在をも暗示する。異常事に襲われた人間の運命も、非情な横死や惨死から、反逆的憤死や錯乱狂気を経て、自力による更生、さらには神意を暗示する救済にまで及ぶ。筋の運びも、ほぼ現実の時間の経過に従って一直線に進行する緊迫したものから、ジグザグに進行する推理小説風のものまである。
(4)リアリズム
クライストの短編は、現実の時間や場所の設定から始まる。ロマン主義の世代でありながら、戦慄(せんりつ)的な即物描写も敢行し、リアリズムの先駆と目される。怪奇的・神秘的事象も扱うが、そこにはむしろ人間の深層心理の暗い風景がのぞく。彼のリアリズムはいわば実存のリアリズムである。クライストの短編は、わが国でも森鴎外(おうがい)訳の2編(『地震』『悪因縁』)以来知られている。
[中村志朗]
『中田美喜他訳『クライスト名作集』(1972・白水社)』▽『中村啓訳『クライストの手紙』(1979・東洋出版)』▽『相良守峯訳『O侯爵夫人他六篇』(岩波文庫)』
ドイツの劇作家。オーデル河畔フランクフルトの生れ。多くの将軍を出したプロイセンの名門の出であったが,幼くして孤児となり,財産も乏しく,14歳で軍籍に入ってフランス革命に続く戦争に従軍もした。まもなく軍務を捨て,官吏になろうとして法律を学んだり哲学の研究に没頭したりしたが,いずれも長続きせず,ついに詩人を志して創作と放浪の生活に入った。パリ,スイス,北イタリアそしてドイツ各地を転々としつつ,《シュロッフェンシュタイン家》(1803)などのすぐれた劇作で頭角を現すが,異常な才能への自負と強烈な名誉欲とをもって取り組んだ大作《ローベルト・ギスカールRobert Guiskard》はついに実現にいたらず,またドイツ喜劇の名作とされる《こわれ甕》(1806)のワイマール初演の失敗やクライスト文学の極北を示す悲劇《ペンテジレーアPenthesilea》(1808)の拒絶をめぐってゲーテとの関係が決定的にこじれたことも大いに影響して,ロマン的な劇《ハイルブロンのケートヒェン》(1808)を除く《ヘルマンの戦》(1808),《ホンブルクの公子》(1810)などの劇は生前公演も公刊もされず,クライストは劇詩人としても結局志を遂げることができなかった。ナポレオン戦争の激動が彼の生活をいっそう不安定かつ困難なものにした。プロイセン崩壊後,反ナポレオン的愛国主義の立場からアーダム・ミュラーとともに興した政治雑誌も短命に終わったし,プロイセン・オーストリア同盟のための奔走も実を結ばなかった。1810年からベルリンに出た彼は《ベルリン夕刊新聞》という日刊の大衆紙を始め,みずから執筆することはもちろん,印刷を除くいっさいの業務を担うジャーナリストの生活に入るが,一時的な成功ののち検閲制度との軋轢(あつれき)が災いして不振に陥り,翌年春には休止に追い込まれる。しかしそれとともに彼の挫折と苦悩もまた終わるのであり,彼はその秋病気で不幸な人妻とともにピストル自殺によって34歳の短い生涯を閉じる。皮肉にもクライストはその最晩年にようやく彼の《短編集》(1810)を公刊することができた。《ミヒャエル・コールハースMichael Kohlhaas》をはじめとする劇的な緊迫感に富むこれらの物語はドイツ短編文学の珠玉とされており,また彼が《ベルリン夕刊新聞》のためにすべて短時間で書き上げた〈逸話〉もその種の模範とされている。激しやすく変わりやすい,矛盾の多い病的な性向とは逆に,作品はほとんど古典的といってよいほどの造形力を示した異色の天才であった。
執筆者:中田 美喜
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1777~1811
ドイツの文学者。貴族の家に生まれ,軍籍に入るが肌にあわず退役,学業も中途で放棄した。以後各地を旅しつつ劇作を中心に作家の道を歩むが,あまりの激烈さのため世に入れられず,最後は人妻とともに自殺。代表作『ヘルマンの戦い』『ホンブルクの公子フリードリヒ』など。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…友人ゲンツFriedrich Gentzを通じて,E.バークの保守主義の影響をうけ,ベルリンのロマン主義者の仲間に入る。1808年クライストとともに雑誌《フェーブスPhöbus》を発刊,ドイツ・ロマン主義者の代表者となった。主著《国家学要綱》3巻(1809)では,啓蒙主義的国家観を排し,国家有機体説を鼓吹した。…
※「クライスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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