アブー・サイード(読み)アブー・サイード(その他表記)Abū Sa`īd

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アブー・サイード」の意味・わかりやすい解説

アブー・サイード(不賽因)
アブー・サイード
Abū Sa`īd

[生]1304/1305
[没]1335
イランのモンゴル王朝,イル・ハン国第9代のハン (在位 1316~35) 。 12歳にして即位。宰相ラシード・ウッディーンおよびアリー・シャーの補佐を受けたが,1318年のラシード・ウッディーンの失脚後は,最高司令官アミール・チョバンの後見のもとに統治チャガタイ・ハン国キプチャク・ハン国からの攻撃を退け,また,エジプトマムルーク朝講和を結んだ。 27年にアミール・チョバンを除くことに成功したが,35年キプチャク・ハン国軍の侵入にそなえての陣中で没したときには,実権はジャラーイル族 (→ジャラーイル朝 ) のハサン・ブズルグや,チョバンの子ハサン・クーチェクらの掌中にあった。彼の死をもって,イル・ハン国は事実上滅びる。

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世界大百科事典(旧版)内のアブー・サイードの言及

【アブー・アルハイル・ハーン】より

…1428年,推戴されてハーン位につくと,キプチャク草原(現,カザフ草原)各地の遊牧勢力を平定して(1446),いわゆる遊牧ウズベク国家を建設。軍事力を背景に,しばしばティムール朝領内に侵入し,51年には,アブー・サイードAbū Sa‘īdの即位を助けるなど,その内政にまで介入した。56年,オイラート族と戦って敗れ,支配下にあった諸勢力の離反に悩まされるなかで没した。…

【ティムール朝】より

…トルコ化・イスラム化したモンゴル族(チャガタイ族)の子孫として中央アジアに生まれたティムールは,1370年マー・ワラー・アンナフル(トランスオキシアナ)の統一に成功,以後絶えまのない征服戦争を敢行し,95年にはモスクワに迫り,98年にはデリーを席巻,1402年にはアンカラの戦でオスマン軍を撃破するなどの大戦果をあげ,ユーラシア大陸の中心部を覆う大帝国を建設した。ティムールの成功は,中央アジア遊牧民の軍事力とオアシス定住民の経済力の結合を基盤として達成されたが,ティムールの没後も,遊牧民的発想に基づく一族の分封制と,時の真の実力者が君主位を占めるべきだとする遊牧民的君主位継承制が尊重され続けた結果,帝国は政治的分裂を避け難く,マー・ワラー・アンナフルとイランという帝国の最も重要な二つの地域を一つの統一体としてまとめえたのは,わずかに第3代の君主シャー・ルフ(在位1409‐47)と第7代の君主アブー・サイードAbū Sa‘īd(在位1451‐69)の両名にすぎなかった。このようにして,後者の死後,帝国はサマルカンドとヘラートをそれぞれの首都とする二つの政権に完全に分裂し,前者は1500年,後者は07年,ともにシャイバーニー・ハーンの率いるウズベク族によって滅ぼされた。…

※「アブー・サイード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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