改訂新版 世界大百科事典 「阿氐河荘」の意味・わかりやすい解説
阿氐河荘 (あてがわのしょう)
紀伊国在田郡(現,和歌山県有田川町東部)の荘園。もと左大臣藤原仲平の遺領で,石垣上荘と称したが,992年(正暦3)右大弁平惟仲が買得し,1001年(長保3)白川寺喜多院(のち寂楽寺)に寄進。このころより阿氐河の呼称がみえる。寂楽寺第2代別当忠覚のとき,検校職が行尊僧正に寄せられたのを契機に,その法系をつぐ園城寺円満院門跡を本家とし,寂楽寺を領家とする荘園として確立した。有田川上流域を占める広大な荘園であるが,山地が大部分で,耕地は狭い河岸段丘上ないし支谷の棚田に限られている。12世紀前半期には上荘(上村)と下荘(下村)に二分されており,それぞれ田数は約50町歩である。地の利のある高野山が11世紀初めよりしばしば当荘の領有を企て,とくに12世紀末には源平合戦の混乱に乗じて源頼朝・義経の安堵まで獲得したが,いずれも失敗に帰している。1197年(建久8)鎌倉幕府が天王寺と高野山大塔の用材採取のために,神護寺の僧文覚を下司職に補任,その弟子行慈が湯浅党の出身であったことから,下司職は湯浅宗光に譲渡された。1210年(承元4)宗光は地頭職に補任され,以後この一族が上荘と下荘に分割して相伝する。13世紀中葉には静法院・寂楽寺修造の功により,預所職も兼帯し,事実上地頭の請所となった。ところが59年(正元1)寂楽寺が新たに預所を入部させたため,地頭と領家の抗争がはじまった。当荘の地頭職は新恩で得分もわずかだったので,湯浅氏の強引な在地支配が行われ,百姓との対立もしだいに激化した。寂楽寺と湯浅氏の抗争が頂点に達した75年(建治1)には著名な〈耳ヲキリ,鼻ヲソギ……〉という文言を有する百姓申状が提出されており,地頭の暴力的支配に抵抗する百姓の成長がうかがえるが,寂楽寺が六波羅での訴訟を有利に展開するために指導した形跡もある。この抗争の結末はつまびらかでないが,このころより高野山による領有の企てが強化され,離山閉門という強硬手段に訴えて1304年(嘉元2)円満院から避状を獲得した。以後高野山領として15世紀まで存続したことは確かであるが,荘園支配の実態はほとんどわからない。山間荘園の性格が強く,年貢も絹・綿・材木などであるが,13世紀半ばごろから代銭納となっている。
執筆者:小山 靖憲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報