アルサケス朝(読み)アルサケスちょう(その他表記)Arsaces

改訂新版 世界大百科事典 「アルサケス朝」の意味・わかりやすい解説

アルサケス朝 (アルサケスちょう)
Arsaces

パルティア王朝。スキタイ系遊牧民パルノイの族長アルシャクArshakを祖とする。彼は前247年にイラン北東部のアサアクで即位し,前238年ころパルティアを征服して王国の基礎を築いた。彼の後継者は王の称号として代々アルシャクを名のった。アルサケスギリシア・ローマの文献にみえる呼名であり,中国では安息と記された。史料の不足のほかに,王権動揺と対立王の出現が,アルサケス朝の継承関係や王の在位年代の確定をきわめて困難にしている。パルティアからササン朝ペルシアへ帝国支配の交替がおこなわれたのは226年であるが,その2年後までアルサケス朝の王の存在が証される。
パルティア
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

関連語 佐藤進

山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルサケス朝」の解説

アルサケス(アルシャク)朝(アルサケス(アルシャク)ちょう)

パルティア

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルサケス朝」の意味・わかりやすい解説

アルサケス朝
アルサケスちょう

「パルティア帝国」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアルサケス朝の言及

【安息】より

…パルティア王国に対する古代中国人の呼称で,この王朝が始祖アルサクArsakにちなんでアルサケス朝と呼ばれていたことに由来する。前2世紀末の張騫(ちようけん)によって中国に紹介されて以来,南北朝期までの漢籍にみられる。…

【イラン族】より

…イラン,アフガニスタン,中央アジアに分布するイラン系言語を話す諸族の総称。インド・ヨーロッパ語族に属する言語を使用する諸族の東方分派にアーリヤを自称する集団があり,その一部がイラン族の起源をなした。イランの名もアーリヤ(古代ペルシア語アリヤariya)に由来する。なお,他の一部はインドに入り,インド・アーリヤと呼ばれる。 イラン族は騎馬遊牧民として前1千年紀にイラン高原からタリム盆地にいたる地域に広がり,遊牧とならんで各地において定着農耕への移行を開始した。…

【パルティア】より

…西アジアの王国。アルサケス朝パルティアともいう(図)。中国ではアルシャクArshak(アルサケスArsaces)を音訳した〈安息〉の名で知られる。…

【パルティア美術】より

…パルティア美術とは,アルサケス朝(前247‐後226ころ)下の西アジアに栄えた美術をいうが,必ずしもパルティア人の手になるものではない。前期と後期に大別される。…

※「アルサケス朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

苦肉の策

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android