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ミハエル[8世] Michaēl VIII Palaiologos

世界大百科事典 第2版の解説

ミハエル[8世]【Michaēl VIII Palaiologos】

1224ころ‐82
ビザンティン帝国の皇帝。在位1259‐82年。外交手腕に富む軍人皇帝。ニカエアのヨハネス4世(8歳)の摂政(1258)から共同皇帝となり,ラテン帝国からコンスタンティノープルを奪回した(1261)後に,幼児皇帝を排し自ら即位してパライオロゴス朝(1259‐1453)を開く。シチリアのシャルル王(アンジュー家)の反ビザンティン路線を,1度は教会統一宣言への署名(第2リヨン公会議。1274)により,2度目はアラゴン家のペドロ3世と結ぶことにより(シチリアの晩鐘

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

世界大百科事典内のミハエル[8世]の言及

【アカイア大公国】より

…首都はアンドラビダ。ギヨーム1世(在位1205‐09),ジョフロア1世(在位1209‐29),ジョフロア2世(在位1229‐46)の領土拡大戦争をギヨーム2世(在位1246‐78)はモネムバシア占領(1248)で完成するが,ビザンティン皇帝ミハエル8世パライオロゴスにペラゴニアの戦で敗れて捕虜となり(1259),同市のほか,ミストラ,マイナ,イエラキオン移譲と引換えで身柄を釈放された(1261)のち,失地回復のためシチリアのシャルル・ダンジューの封建家臣となった。以後大公国はアンジュー朝の封建領土化した。…

【ラテン帝国】より

…しかしアンリ帝死後,後継者に指名されたその姉妹ヨランデYolande de Hainautの夫ピエールPierre de Courtenayは,西方からコンスタンティノープルに赴く途次アルバニア山中でエピロス帝国のギリシア皇帝テオドロス1世に捕らえられ(1217),息子のロベールRobert de Courtenay(在位1221‐28),続いて後者の弟ボードアン2世(在位1228‐61)と,いずれも幼少で即位した皇帝のもとでラテン帝国は急速に衰退し,小アジアの領土およびレスボス,キオス,サモスをニカエア帝国によって奪われ,トラキアでは同帝国およびエピロス帝国によってコンスタンティノープル周辺に支配を狭められた。1261年7月首都は奇襲でニカエア皇帝ミハエル8世の手に落ち,ラテン帝国は滅びた。イタリアに落ちのびたボードアン2世の亡命皇帝の名義は,後代その子孫の婚姻関係を通じてアンジュー王家に帰し,そのコンスタンティノープル奪回の企ての口実となった。…

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