ビザンティン帝国(読み)ビザンティンていこく

改訂新版 世界大百科事典 「ビザンティン帝国」の意味・わかりやすい解説

ビザンティン帝国 (ビザンティンていこく)

古代ローマ帝国の中世における連続体(ただし首都はコンスタンティノープル。旧称ビュザンティウム,現イスタンブール)に対して,前者と区別する意味で後代につけられた名称。英語ではByzantine Empire。日本では東ローマ帝国と呼ばれることもある。両者はとぎれなき連続体であり,また正式の国名そしてまたこの国家の自己了解は,あくまでもローマ帝国Politeia tōn Rhōmaiōn(ギリシア語),Res Publica Romana(ラテン語)であった。

この国家と,その文化を対象とする専門研究分野はビザンティン学Byzantinologie(フランス語),Byzantinistik(ドイツ語)と呼ばれる。その誕生は,H.ウォルフをはじめとする16世紀のルネサンス人文主義者たちにさかのぼるが,研究対象が同じギリシア語文献だった関係もあって,ビザンティン学はいまだ古典文献学とは別の専門領域を形づくらなかった。

 続いて,すべてを理性の光に照らして見る18世紀の啓蒙主義者ボルテール,モンテスキュー,なかんずくギボンによって,ビザンティン帝国は,近代ヨーロッパの生活理想を先取り的に実現したと彼らが考える古代ギリシア・ローマとは対照的な,野蛮と宗教が勝利を収めたその堕落形態という評価を与えられた。今日なお,煩瑣(はんさ)な(儀式),狡猾(こうかつ)な(外交),阿(おもね)った(美辞麗句),枝葉末節の(論議),そして旧套(きゆうとう)墨守の(態度)等々の意味で用いられる〈ビザンティン式〉という形容詞は,そこに発している(それらはいずれも,この歴史的一国家の特性として,事実,否定しえない)。

 歴史的個体を,他によって置き換えることができない固有の価値として理解しようとする19世紀の歴史主義のもとで,ビザンティン学もまた,独自の自覚と厳密な方法を備えた歴史研究の一専門領域として確立された。しかし近代化に焦点を合わせた明治以来の日本における歴史研究・教育のシステムでは,ビザンティン学は存在の場をもたなかったといえよう。

ビザンティン帝国の終末を,オスマン帝国のスルタン,メフメト2世によるコンスタンティノープル攻略(1453年5月)に置くことに見解の分れはない(ただしビザンティン帝国の名目的宗主権下にあったモレア公国のミストラは1460年に,ギリシア人を支配者とする1204年以来の分裂国家の一つ,トレビゾンド帝国の首都は1461年に開城)。ビザンティン帝国は1453年に滅びたといえるとしても,オスマン帝国支配下および独立後のギリシアのみならず,それを越えて広く後代に,〈ビュザンティウムなき後のビュザンティウム〉という問題を残した。これに対し,その開始時点を設定することは,同帝国が古代ローマ帝国の延長である以上,そもそも問題たりえず,仮に叙述の便宜上なんらかの発足時点を設けなければならないとしても,一義的に行うことはできない。たとえば,それを,コンスタンティヌス1世による〈第二のローマ〉としてのコンスタンティノープル開都式(330年5月)に置くことは,この首都が,続く歴史において,文字どおり帝国の中心として比類なき役割を果たした点で,決して不当ではないが,それにはなお1世紀近くを要したのであって,むしろ4世紀は,アレクサンドリア,アテナイ,アンティオキア,エルサレムなど,古い伝統をもった帝国東半部の諸都市の並存によって特色づけられる時代であった。また統治機構の点からみれば,ビザンティン帝国の礎は,コンスタンティヌス1世よりも,ディオクレティアヌス帝にさかのぼり,テオドシウス1世の死(395)後に始まる東西分治も,広大な領土を治めるためディオクレティアヌスが定めた四分治制に基づく行政措置の適用例にすぎない。そして文化の点でも,たとえば文学史上,4世紀はヘレニズムの延長としてまとまった単位をなさず,キリスト教教父の文学活動という点では,すでに3世紀前から始まっていた。

ビザンティン帝国の支配が現実に及んだ地域は,その時々の国際政治関係を反映して,時代とともに大きく変わったが(後述),領土が縮小した最後の数世紀を除けば,地理的自然条件を異にしたさまざまな部分から構成されていたことが大きな特徴としてあげられる。

 テオドシウス1世死後のローマ帝国分治の際の東半分領土は,6世紀前半のユスティニアヌス1世の再征服の結果,ダルマティア北部からイタリア半島,シチリア,サルディニア,コルシカ,バレアレス諸島,アフリカ北岸,そして一時的にはイベリア半島南東部にまで及んだ。続くランゴバルド族の南下にもかかわらず,イタリア南部は,ノルマン人が進出する11世紀後半までビザンティン帝国支配下にとどまった。7世紀以後のアラブ・イスラム教徒の地中海進出で,エジプト以西のアフリカ北岸は最終的に失われたが,10世紀には,クレタとアラブとの共同統治下にあったキプロスが奪回され,11世紀にはシチリア再征服さえ部分的に遂行された。他方,シリアからアナトリア東部にかけての地帯も,10~11世紀に再びビザンティン支配下に編入された。こうして,イタリア半島以東の地中海の島嶼と海岸地帯,黒海沿岸およびその北のかなめとして南ロシアのステップをにらむクリミア半島,高い山脈が森林で覆われたバルカン半島,アナトリア高原とそれに続くアルメニア山岳地帯,そして中東の砂漠までの異なった景観をもつ諸地域から成るのがビザンティン帝国領土であった。これら地域間のコミュニケーションも,当時に与えられた手段をもってしては容易でなく,9世紀にコンスタンティノープルから海路イタリアに向かうビザンティン使節は,日和にめぐまれた夏季でも優に2ヵ月を要した。

 さまざまな民族が住み,その帰依する宗教や所属する教会,使用する言語が異なる点で,ビザンティン帝国はまた典型的な多民族国家の一つである。その政治,宗教,文化において指導的役割を果たしたのは,いうまでもなくギリシア人であるが,ビザンティン帝国はそれ以外の民族を多数抱えていた。

 ユダヤ教徒は非キリスト教徒として,しばしば迫害と弾圧の対象になった。コンスタンティノープルから援軍を得られないままに,自力でランゴバルド族と対抗しなければならなかった西境のイタリアの都市住民の間には,7世紀のうちに地域主義的独立意識が成長した。東境のコプト人,シリア人,アルメニア人はいずれも,それぞれ固有の文字で自分たちの最初の民族文学としてキリスト教文学を展開させ始め,カルケドン公会議(451)で異端とされた単性論を奉じて,コンスタンティノープルの政府への同調を拒否した。その他東部国境地帯には,シリアの山地を基地に略奪をこととしたキリスト教徒マルダイト人Mardaitai,アナトリア東部に勢力を張っていた異端キリスト教徒パウロ派など,コンスタンティノープル政府の命令に服さない集団がいた。

 他方ビザンティン帝国は,古代ペルシア帝国の再興を旗印にかかげた唯一の文化国家たるササン朝ペルシア帝国との対抗関係を別とすれば,その全期間を通じて,次々と国境に押し寄せる民族移動と直面しなければならなかった。バルカンでは,4世紀末にはゴート族(続いて彼らが移動した先のイタリアは,ユスティニアヌス1世の再征服後,6世紀末ランゴバルド族が侵入),5世紀にはフン族,6世紀以後にはスラブ人,6世紀末~7世紀前半にはアバール族,続いてセルビア人,クロアチア人,そしてブルガール族が現れた。7世紀中葉にはアラビア半島から地中海沿岸に到達したアラブが,パレスティナ,シリアを席捲してアルメニア,アナトリアに侵入する一方,エジプトからアフリカ北岸を西進するとともに,海軍力をもってコンスタンティノープル目ざしてエーゲ海を北上した。9世紀中葉以後にはバイキング(ルーシ)が黒海からコンスタンティノープル攻撃を繰り返した。カスピ海・黒海北岸のステップ地帯からは,9世紀末にはマジャール人,11世紀にはペチェネグ,クマンが相次いで現れ,11世紀後半にはセルジューク・トルコのアナトリア侵入が始まった。

 11世紀末以降ビザンティン帝国は西ヨーロッパからの新たな勢力と対応しなければならなくなった。ノルマン人の侵入を先ぶれとした十字軍騎士の遠征,経済的活力にあふれたベネチア,ピサ,ジェノバなどのイタリア商業都市のレバント貿易進出がそれであり,その帰結が,ビザンティン領土での,十字軍封建諸国家(ラテン帝国)の建設,ならびにイタリア都市国家の植民地設定であった。そして,ヨーロッパの大砲鋳造技術者を雇い入れたオスマン・トルコによって,ついにコンスタンティノープルは陥落した。

 以上の諸民族の一部はビザンティン帝国領土に住みついてその統治に服する帝国民となった(続いて彼らは,しばしば国内の人口過疎地帯に植民のため移住させられた)ほか,国境外に住む者も,集団的に,あるいは個々に国境を越えてビザンティン帝国の軍隊に傭兵として編入された。国家高位の文武官職や爵位の保持者となったこれら諸民族の出身者も決して少なくなく,彼らはビザンティン帝国の正統信仰を受け入れ,ギリシア的教養を急速に身につけた。その点でとくに顕著なのが,7~11世紀ではアルメニア人,12世紀以後には,フランク人と呼ばれた西ヨーロッパ人であった。以上の諸民族との関係を律するにあたってのビザンティン帝国の外交基本原則は,キリスト教ローマ帝国理念から発していた。

コンスタンティヌス1世の時代にカエサレアの司教エウセビオスによって提唱されたこの理念の内容は次のようであった。すなわち,ローマ帝国初代の皇帝アウグストゥスは,神の摂理で世界をキリスト降誕のそのときに統一し,それによってキリストの福音がひろまるべき政治的な枠組みをつくり上げた。その300年後にコンスタンティヌス1世が現れ,同じく神の摂理で自らキリスト教に改宗するとともに,ローマ世界帝国のなかにキリストの教えを有機的に植えつけた。こうして出現したキリスト教ローマ帝国は,全世界を包括し,全人類をキリストの再来までまとめ上げておくべき唯一の秩序として,神の人類救済計画の最後の,必然的な一環である。天上のキリストの帝国の,不完全な模像であるこの帝国に君臨するのは,天上の唯一の〈全能の神(パントクラトルPantokratōr)〉に相当する〈全能の皇帝(アウトクラトルAutokratōr)〉であり,彼は世俗的な事がらだけでなく,精神的な事がらについても,最高の権限を神から委託された代理人である。この皇帝の臣民たる〈ローマ人(ロマイオイRhōmaioi)〉は,天上の秩序の模像たるローマ法の秩序に守られ,その保障する平和のもとで文化の名に価する生活を独占的に享受する。そして,天使の階層秩序を範として序列づけられた皇帝役人によって統治される。このローマ人に属さないのが〈野蛮な(バルバロスbarbaros)〉民族(エトネethnē)である。彼らはローマ皇帝の支配下にたまたま立ってこそいないが,いつの日かそれに服すべき,潜在的なその臣民である。その彼らに対しては,皇帝の二重の使命,つまり支配権(インペリウム)によって世界を統轄すべき政治的使命と,布教によって世界をキリスト教化すべき宗教的使命とが,相携えて遂行される。こうして,歴史的偶然にすぎない一国家を必然化する一つの政治神学が誕生した。

 この〈ローマ人と蛮族〉という句によって表明されたのは,ビザンティン帝国民の政治的独占意識である。ここでいうローマとは,テベレ河畔の都市の名称ではもはやなく,人類史上最後のものとしての帝国の名称であり,その名を称しうるのは地上で自分たちの国家しかありえなかった。それを物語るのが,カール大帝がローマ皇帝を称したとき,彼らが示した拒否反応である。そして,この〈ローマ人〉が独占的に所有していると彼らが考える文化とは,内容的には古典ギリシア文化にほかならなかったことを,たとえば,ラテン語を蛮族用語とみなす,ギリシア語中心のその言語観が裏書きしている。いずれにせよ,かかる意識の背後にあるのは,地中海周辺の全域にわたる民族移動のただなかにあって,ひとりビザンティン帝国でのみその名に価する国家と文化が存続したのに反し,その国境地帯に定住した諸民族が,例外なしに,初めてその国家と文化の建設に向かわなければならなかったという,中世初期の現実である。

 しかしビザンティン帝国はそのキリスト教ローマ帝国理念の国際関係への適用にあたっては,驚くほど柔軟であった。それを示すのが,ビザンティン皇帝を家父長とし,諸国の支配者たちをその兄弟,息子,友人などにみたてる,霊(プネウマ)をきずなとした擬制的家の理論であり,ビザンティン帝国は,自らが唯一の世界帝国だという基本理念は下ろさないままに,この理論によって,現実に対等の政治勢力となったフランク王国やアラブ・イスラム国家のその支配者を,ビザンティン皇帝との兄弟関係に位置づける平和共存の道も心得ていた。また,その支配権の妥当する範囲が全世界に及ぶとする主張にもかかわらず,自らの力の限界をわきまえていたビザンティン帝国は,対外関係において,多くの場合,お家芸の外交手段を尽くして問題の処理に努めたのであり,少数の皇帝を別とすれば,せっぱ詰まらなければ,軍事力の投入に踏み切らなかった。まして宗教のための十字軍という思想のごときは,この帝国には無縁であった。ビザンティン帝国が力こぶを入れたのはキリスト教化の使命の方であり,周辺諸民族へのキリスト教布教は,ビザンティン皇帝を洗礼の名付け親として,まずその支配者とその宮廷を取り込むというかたちで端緒が切られ,民族ぐるみの改宗への道が開かれることになった。こうして南スラブ諸族やキエフ・ロシアのキリスト教化がおこり,東方正教圏が成立した。異民族宮廷のキリスト教改宗としばしば組み合わされたビザンティン皇女の〈降嫁〉も,少なくとも一時的な国際的緊張緩和に役立った。相次いでコンスタンティノープルを訪れる周辺〈蛮族〉からの使節の応対にいとまない迎賓館マグナウラMagnaura宮殿の謁見の間では,彼らが3度跪拝(きはい)する間に,皇帝は天井まで引き上げられ,〈機械じかけの神〉が実演された。彼らの列席のもとに繰り広げられる宮廷儀式への参加を通じて,コンスタンティノープル市民は,自分たちが選ばれたシオンの町の民であることを自己確認した。

政治神学によって,この世における神の代理人にまで高められたビザンティン皇帝の地位は,対内的にはきわめて不安定であった。皇帝支配の政体そのものを変革しようという企ては起こらなかったが,帝位に就いた個々の皇帝個人が絶えざる批判にさらされたばかりでない。この帝国の1000年余の歴史で,主帝として文字通り統治を行った88人のうち,43人を下回らない者が革命で失脚し,そのうちの30人もが非業の最期を遂げた。しかもこの数字は,たまたま革命が成功した例外ケースにすぎず,不首尾に終わった大部分の例は枚挙にいとまがない。帝位に一族出身者を送り続けた支配者家族,いわゆる王朝を数えれば,30に達する。しかも4~5という少数によってカバーされたビザンティン帝国最後の300年においてさえ,血統カリスマの観念が,支配の正統化の原理として自らを貫徹させたわけではなかった。これは,国民が皇帝を選挙する権利を有するというコンセンサスが,ビザンティン帝国の書かれざる憲法として人々の意識のなかに定着していたからである。ただ選挙といっても,それは投票ではなく,候補者として新たに名のりをあげた者を国民が歓呼して受け入れるというかたちで,換言すれば,自分たちの同意を儀式として演出し,それを法的に拘束力あるものとして表明することを通じて行われた。あるいは,現皇帝が自分の息子を後継者候補として国民の前に提示し,同じ手続きで彼らから承認を取り付けるかたちで行われた。つまりビザンティン帝国では,革命たると父から子への帝位継承たるとを問わず,皇帝たらんとする者はこうして合憲性を得たのであり,そのどちらになるかは,時の政府に対する世論の動向や,その時々の力関係とかかわっていた。手続きの省略は必ずといっていいほど批判を呼んだ。これを要するにビザンティン帝国では,皇帝とは,共同体の主人ではなく,共同体のメンバーからその管理をゆだねられた存在だったのであり,事実,何人ものビザンティン人自身の口を通してそのことが語られている。それは,ローマ古来の国家(レス・プブリカ)の伝統が,アウグストゥスがそのかたわらに設置した皇帝権(元首政)によっても,またその強化(独裁政)にもかかわらず,包摂され尽くすことなく生き続けたからである。

 皇帝選挙権者として国民を代表する勢力は時代とともに変遷した。皇帝が軍団を率いて国境地帯を転戦していた3~4世紀には,皇帝候補を軍隊宿営地で,歓呼によって信任するのは軍隊であった。だが4世紀末以来皇帝は新首都コンスタンティノープルを常住の地とするようになった。首都で帝国統治のための中央政府の官僚機構が形成されるに伴って,皇帝は高官や元老院議員によって取り巻かれる一方,その頃属州各地から急速に集まった大都会住民のまっただなかにおかれることになった。この変化に見合って皇帝選挙権者として新たに登場するのが元老院および市民という2要素であり,軍隊と相まって,この3者による選挙が合憲的な皇帝をつくり出すことになった。総主教による新皇帝戴冠はかかる憲法行為の意味をもたなかった。帝国行政の最高幹部から成る元老院はもはや古ローマのように古い家がらの議員から成ってはいなかったが,その後継者をもって任じ,かつて共和政的諸特権の移譲を通じて皇帝権を設けたのは自分たちの祖先だということを決して忘れなかった。これに反して,雑多な構成から成る市民は,依拠すべきかかる伝統をもたなかった。しかし社会的流動性に富み,ことのほか政治に関心を寄せるレバント的な大都市住民として,彼らはただ数だけがたよりであり,衆をたのんで皇帝選挙への参加をかちとるとともに,全帝国民を代表する首都市民という自意識を急速に身につけ,この最高の国家儀式への参加を通じて,そのつど皇帝選挙権者としての自らの地位を身をもって再確認した。これに反して軍隊はますます背後に退き,儀仗兵としてそれに加わるシンボル的一要素にすぎなくなった。

 11世紀以後,首都聖職者層の皇帝選挙への介入という新傾向がおこった。その担い手の一つは,総主教が主催する,〈滞在者宗教会議(シュノドス・エンデムサ)〉に参加する首都滞在の主教たちであり,アナトリアの大半がアラブ,トルコのために失われた結果,管轄区を失って首都に逗留する彼らの数は増し,会議は恒常的になった。いま一つの担い手は,同会議の本来の議事進行者である,ハギア・ソフィア教会の輔祭や管理職のスタッフであり,彼らはエクソカタコイロイと呼ばれ,法学的知識を学び,首都の名家と同族関係にあった。なお皇帝と教会の関係については〈皇帝教皇主義〉の項目を参照されたい。

〈ヨーロッパ中世におけるビザンティン帝国の独自性は,13世紀以前にはこの帝国がただひとり,中央集権的な国家のタイプを提示したところに由来する。ここでは,中央から発した衝撃は最遠隔の属州に達し,国家は,言語の点で異なり,ときに利害の分かれる諸民族にただ一つの意志を強制することができた〉(ビザンティン学者ブレイエの言葉)といわれる。しかしビザンティン帝国の行政組織は,官僚の権限が指揮命令系統や職務分掌関係の上で一分のすきもなく整然と統合された状態からはほど遠く,反対に,以下のような諸特色がみられた。

 それぞれ別個に設けられた官職体系と爵位体系との間には,通常,対応関係がみられたが,その際,皇帝との緊密な関係を表す爵位の方が,官職にまさる社会的評価を与えられた。特定の官職をもたない爵位保持者も存在した。その上,本来両体系のいずれにも属さず,自らは所轄庁をもたず,ビザンティン人歴史家によってオスマン・トルコの大ワジールと比較された皇帝補佐(メサゾンmesazōn)があって,諸官庁の職務遂行を調整,統轄,監督した。その他宮廷内の職務を担当した宦官は,皇帝に最も近い場所にいた関係上,しばしばその特命をじきじきにうけた。こうしたさまざまな手段で皇帝は,固有の自意識をもった官僚勢力を統御しながらその政策の実現をはかった。

 官僚は文官,武官から成っていたが,文官はコンスタンティノープルを牙城として全国の行政,財政,司法をその手におさめるとともに,皇帝から特定の軍事的職務を付託される場合がまれでなく,また肩書以外の,他の特定の文官職務の遂行に起用されることも多かった。武官が特定の文官職務を委託される例も存在するが,彼らは概して本来の職務に専念する場合が多かった。その他,兼職はしばしば行われた。売官,売位は広く普及した慣行であった。国家財政役人による徴税と並んで,租税徴集の請負制が大幅に採用された。軍隊司令官や財政役人に任ぜられた輔祭や修道士の個別例にもかかわらず,社会通念上,聖職者身分は国家官職就任の不適格者とみなされた。ビザンティン官僚の典型は,ギリシア的教養を身につけた〈マンダリン〉(原義はヨーロッパ人が,読書人であることを必須とした中国の士大夫官僚を指した呼称)であった。4世紀における官僚制の急速な展開に伴って,帝国行政での仕官によって身を立てようとする若者向けに,ローマ帝国東半部でもローマ法学教育が普及したが,時代とともにギリシア的一般教養に基づく教育理念が勝利をおさめ,この理念を体現したビザンティン文人により官僚層が構成された。コンスタンティノープルのいわゆる帝国大学法学部が目標としたのも,国家行政の専門職としての高級官僚の養成ではない。

 古代ローマ帝国から受け継がれた国家行政機構(その起源は,共和政の共同体的役職(マギストラトゥス)よりは,元首政下で皇帝がつくりあげた家産的な役職に発する)は,時代の変化に柔軟に順応した。その代表的事例がテマ制である。ディオクレティアヌス帝は,属州駐屯の諸軍団が相次いで革命を起こし,それぞれの司令官を皇帝に推戴した3世紀の教訓にかんがみて,軍民両政を分離するとともに,従来の属州単位を細分化した。しかし続いて異民族侵入の圧力が増大するなかで,例外措置を再び設けなければならない事態が到来する。6世紀末ラベンナとカルタゴに設置され,コンスタンティノープルの皇帝から〈副王〉にも近い大幅な独立的権限を与えられて軍民両政をつかさどる総督(エクサルクス)制がそれであり,ことに7世紀にアナトリアで開始するテマ制がそれである。軍民両政の権限は再び駐屯軍の司令官(ストラテゴスstratēgos)の手に帰するとともに,その管轄領域として,より広い地域が定められる。こうして侵入アラブ軍に対する在地の軍事抵抗組織ができるが,他面その結果,独断専行権を中央政府から認められたこの軍人属州知事は,皇帝に対し反乱を起こす。そこで属州の規模は縮小され,一人の軍人の手に集中されていた軍民両政の権限は再び分離されて,その一部は文官に戻されるとともに,地方に分散されていた軍隊指揮権は新たに中央に集中されなければならない。事実,東方ならびに西方軍総司令官のような大指揮権が現れ,続いてこの二つを合わせた統一的指揮権の保持者が帝位に就くことになる。

全行政・文化機能を自らに集中させたコンスタンティノープルはまた商工業活動の最大の中心地であり,それへの課税は重要な国庫収入を生む一方,全国農村人口から国家財政機構を通じて徴収される地租がここに流入した。これら条件のもとで,首都は全帝国をも巻き込む社会的流動性の主舞台となり,下層に属する者たちの上昇と,上層に属する者の転落という,社会的対流現象が大規模に繰り返された。その起動力となったのは皇帝である。皇帝は,しばしば最下層の属州民家族の生れであり,無一物のまま幸運を求めて都に上り,高官,高爵位の権門勢家を渡り歩いて奉仕を行いながら,社会的に上昇してやがて自らもそれに列し,ついに革命で帝位に就いた。彼は自らの従者団を用いてそれを行ったのであり,成功の暁には,そのメンバーに論功行賞として利権がらみの官職と爵位を配分し,統治機構の中枢部を自派で固めた。これは裏を返せば,同一の手順で皇帝権を獲得した先行皇帝のもとで要職を占めていたその従者団メンバーの上層からの転落と,その財産の没収が同時に進行したことを意味する。同一支配者家族内での政権交代の際でも,先行皇帝の政府首脳部が新皇帝によって引き継がれるとは限らず,事情に応じてそれなりの交代が起こった。上層から追われた先行皇帝の従者団は,中層の商工業者の段階に踏みとどまることができなければ,最下層の無産都市労働者になるか,属州民のなかに姿を消したが,その結果,首都のこれら中層には政治的要素が流入し,彼らが現政府に対する明確な批判意識の持主として,革命の企てに参加する要因ともなった。

 社会上層のこのような不安定性から,ビザンティン帝国では世襲貴族身分の形成は現実にきわめて困難であった。反対に,社会の最下層から身を興して位人臣を極めた例がまれでなく,成上り者は社会通念上,蔑視の対象とならなかった。ビザンティン帝国では,上層とは国家という巨大な〈再分配〉(K. ポランニーの用語)の機構のかなめに,あるいは官職,あるいは爵位を媒介として身を置き,権威をたてに,たとえば特定商品の独占販売制を実施して,そこから利益を引き出す機会を手にした,アルコンテスarchontesと呼ばれた社会層である。そこには属さない者たちも,彼らと〈コネ〉をつけることによって,自らもそれなりにこのような機会にあずかろうと狂奔した。このことは,上記の再分配への関与がビザンティン帝国ではいかに〈うまみ〉あるものだったかを裏書きしており,売官,売位の普及もこれと関係している。社会的上層所属者の土地所有は,基本的には,こうして彼らが手にした利益の投資の結果である。中央政府は,在職中の(ことに首都の)高官の,属州における土地取得にさまざまな規則を設けて,中央集権的国家行・財政機構の運営に支障をきたさないよう配慮した。

 12世紀以後,首都の社会的流動性は失われる一方,全土を覆っていた中央集権的行・財政機構には亀裂が生じた。それに代わって,ビザンティン帝国最後の300年には,西ヨーロッパの封建制の特色と類似した次のような,政治的,社会的,経済的現象が現れ,それをめぐって学界ではビザンティン封建制論争が起こった。その現象とは,(1)特定区域の徴税権を移譲されたプロノイア保有者,大行政地域をそこでの国家高権と一括して下賜された地方行政長官,その所領について不輸不入の特権を与えられた修道院,(2)皇帝に特別の私的誓約を行い,奉仕の代償として,皇帝からの一定の反対給付にあずかる家人(オイケイオイ)団,(3)大所領の隷属農民(パロイコイ),の登場である。これらの類似点は,しかしながら,歴史における合流現象convergenceではあっても,ビザンティン帝国と西ヨーロッパとが〈発展段階説〉上の同一発展段階に所属したことの表れと解釈することは,両者の歴史上の出発点,そしてまた帰着点の基本的差異にかんがみ,おそらく成り立たないであろう。また,新来スラブ人によるビザンティン帝国の再生という,西ヨーロッパ・ゲルマニスト学説ならびにエンゲルスの焼直しについても,同じことがいえる。

ビザンティン帝国では,社会的,経済的に同質でないその構成員をまとめあげることができるような,固有の〈聖職者〉的団体意識も,西ヨーロッパ中世聖職者身分にとって精神的統一の基礎となったような神学的教養課程も欠如していた。反対に,この帝国の世俗セクターにおける上中下の社会層区分が聖職者身分にも該当し,たとえばその最上層であるコンスタンティノープル総主教は,皇帝奉仕の世俗高官の不安定性を分有し,皇帝はその人選に決定的役割を果たすとともに,意のままに彼らを罷免した(ユスティニアヌス1世からアレクシオス1世コムネノスに至る550年ほどの間に総主教座に上った52名中,19~20名を下回らない者が皇帝によって一時的ないし最終的に強制退位させられている)。多くの府主教は,その書簡が物語るように,皇帝の都から遠ざかり,その教区にとどまることを基本的には流刑と受け取ったのであり,世俗セクター上層の中央志向と軌を一にしていた。

 ビザンティン帝国では初等教育は,聖職者,俗人を問わず,同一のギリシア的一般教養課程である。神学高等教育機関は存在しなかった。他方,神学は聖職者固有の身分特権でなく,それにかかわる俗人の割合は高い比率を占めていた。文筆活動に携わる聖職者層が服したのは,ギリシア的教養理想であり,この点で彼ら(ことに,首都の教会関係機関で書記職を務めた多数の聖職者)は,この理想を担う首都の文人層に属したのである。それと対照をなすのが,パパスと呼ばれた村の妻帯者司祭である。彼らは,告解を〈霊(プネウマ)を担う人〉とされた修道士によって奪われて,ミサと洗礼と埋葬の執行者にすぎなくなり,そのわずかな収入を補うために,しばしば商い,畑仕事や手仕事で糊口(ここう)をしのがなければならなかった。

 ビザンティン帝国では,西ヨーロッパのように,具体的な生活目標と普遍拘束的な生活方法を掲げるところの,細部にまでわたる規則によって貫徹された統一的修道院団体は存在しなかった。各修道院ごとの個人主義が一般的であり,共同生活(コイノビオス)でなく,いくつもの小グループに分かれて,それぞれが自活する(イディオリュトモス)形態や,修道士が一修道院に定着せず,移動を繰り返す慣行まで現れる一方,聖書を読むことにさえ警告を発する荒野の苦行の達人や,柱頭行者(ステュリタイ)のような伝統が生まれた。西ヨーロッパと違って,ビザンティン修道士にとって神への帰依と文芸の奨励とは,調和ではなく,二者択一の対象であり,彼らは彼岸を目ざす瞑想生活(ビオス・テオレティコス)を理想に,完全なキリスト者という極限価値を社会で代表する存在となった。ビザンティン帝国では教養理想とは非修道士的であり,これは首都の文人層によって担われたのである。その他,修道士は,廃位,罷免された皇帝,高官に強制的に割り当てられた身分,あるいは主教職就任のための過渡的な修練者身分をも意味した。

330年第二のローマとして出発したコンスタンティノープルは順調な発展を続け,文字どおり帝国の中心となった。ディオクレティアヌス,コンスタンティヌス1世両帝の行政機構改革は,全歴史を通じて国家生活の基礎となった。コンスタンティヌス1世の発行した金貨はノミスマnomismaの名で,中世の代表的国際通貨の地位を保った。テオドシウス1世のとき国家教会制が定まった。同帝死後の東西分治における東半部が,ビザンティン帝国の領土的基盤となった。

 4~5世紀の民族移動の矛先は西に転じたが,ガイナス,アスパルなどの蛮族出身の軍隊指揮者が中央政府を牛耳り,前者とその一党が首都市民の反ゲルマン感情の爆発で400年に駆逐された後,後釜に座った後者をイサウリア人が一掃し(471),わが物顔にふるまうこの最後の軍人勢力をアナスタシオス1世(在位491-518)が平定するに及んで,文民政治体制が確立された。ニカエア(325),コンスタンティノープル(381)の両公会議ではアリウス派問題,エフェソス公会議(431)ではネストリウス派問題,カルケドン公会議(451)では単性論派問題が,いずれも〈政治的オーソドクシー〉原則(皇帝教皇主義)で処理され,同様の政治的結果を随伴した。ことに単性論問題では,非妥協的なカルケドン派のローマと,単性論を奉ずるエジプト,シリア,アルメニアなどの東方諸属州との板ばさみになってゼノン(在位474-475,476-491)は統一令(482)を発布したが対立を収拾できず,ローマとの教会関係断絶は519年まで続いた。

 ユスティニアヌス1世(在位527-565)は,ゲルマン民族によって奪われた旧ローマ帝国西半部の再征服を行った(533-555)が,他方540年以降ササン朝ペルシアと交戦状態に入らねばならなかった。同帝は国内では,首都市民の反乱(競馬場での騒乱に端を発したニカの乱)や,単性論派の東方諸属州住民の反抗と直面した。同帝の死後,競馬場での騒乱はますます激化し,東方諸属州との宗教上の不一致は,これら属州がアラブ・イスラム教徒の手に落ちるまで続いた。同帝のもとで始まっていたスラブ人のバルカン南下は,その後継者たちの時代に激しさを増し,アバールはドナウ北岸に及ぶ大国家を建て,ペルシアとの戦闘も再開された。イタリアではランゴバルド族が侵入を開始し,これに対抗するためラベンナには大幅な軍民両政権を併せもつ総督府が設けられ,ベルベルの圧力が加わる北アフリカでも,いま一つの総督府がカルタゴに置かれなければならなかった。6世紀末~7世紀初め,事態は極度に悪化した。

 登極してこの危機に直面したヘラクレイオス(在位610-641)はペルシア大遠征を試みて(622-628),占領された東部諸属州を奪回した。帝の不在中にペルシアと結んだアバールのコンスタンティノープル包囲(626)は失敗し,アバール大国家は壊滅した。しかしアラビア半島から興ったイスラム教徒のアラブ軍は同帝をヤルムークの戦(636)で破り,やがてイスラム教徒の地中海地域進出が始まった。マルマラ海のキュジコスを足場に,そこから毎年繰り返される彼らのコンスタンティノープル包囲攻撃(674-678)は,〈ギリシアの火〉でようやく撃退された。彼らの侵入が相次ぐアナトリアでは,現地防衛を組織化するために,テマ制が敷かれた。バルカンではブルガール族が,皇帝自らの指揮する遠征軍を破って(680)ドナウ川を渡り,数的に勝るスラブ人を支配下に収めた新国家を建てた。

 7世紀末~8世紀初めの20年の政治的混乱に終止符を打ったレオ3世(在位717-741)は,コンスタンティノープルを包囲するアラブ・イスラム軍を撃退し(717-718),その後もアナトリアに繰返し侵入する彼らをアクロイノンで破って(740),対アラブ関係に転機を画し,息子コンスタンティノス5世(在位741-775)はシリア(746),アルメニア,メソポタミア(752)に遠征して,戦闘を国境戦に局地化する端緒を開き,ブルガリアに対しても遠征を行った。しかし両帝が開始した宗教政策イコノクラスム(第1期726-787,第2期813-843)は,対内的に混乱を招く一方,ローマ教皇庁との断絶を生み,報復措置としてビザンティン側はシチリア,カラブリア,イリュリアの教会管轄権をローマからコンスタンティノープルに所属替えした。またラベンナがランゴバルド族の手に落ちた(751)結果,コンスタンティノス5世は西方の実力者,フランク国王ピピン3世と結んでイタリアの事態を収拾しようとし,イコン崇拝を復活したイレネ(在位797-802)は,ローマ皇帝に戴冠されたピピンの息子カール大帝と新しい関係に立った(中世キリスト教世界の2皇帝問題)。

 イコン崇拝の最終的復活(843)は,政治的,文化的にも,暗黒時代を乗り越えたビザンティン帝国の出発点を意味した。すでにコンスタンティノープルの文化的名声はバグダードのアッバース朝カリフ宮廷にとどろき,首都の帝国大学は〈再興〉された。スラブ人への使徒,キュリロスとメトディオスはキリスト教布教のためモラビアに旅立ち(863),キエフ・ロシアのコンスタンティノープル襲撃(860)は,ビザンティン政府に,彼らのキリスト教改宗を思いつかせた。コンスタンティノープル教会のこの威勢を背景におこったのが,総主教フォティオスの,ニコラウス1世およびその後継のローマ教皇たちとの対立である(860-879)。

 バシレイオス1世(在位867-886)から,同2世に至るその後継者たちのもとで,ビザンティン帝国の軍事力は最も伸張した。地中海で猛威を振るうイスラム教徒に対しては,9世紀前半テオフィロス帝とカロリング朝のルートウィヒ1世の間の,対イスラム共同戦線締結の試みは実現をみなかったが,同世紀後半,イスラム教徒の占領する南イタリアの再征服が始まり,1世紀半も彼らの占領下にあったクレタも奪回され(961),またアドリア海のスラブ人海賊も掃討された。イスラム教徒との国境はティグリス,ユーフラテス両川まで押し戻され,シリア北部も再びビザンティン帝国の支配下にはいった。バルカンでは,30年近くの戦闘の後,第1次ブルガリア帝国が消滅した(1018)。こうした国際的緊張緩和のなかで,11世紀には〈文官派〉皇帝が相次いで即位した。しかし総主教ミハエル・ケルラリオスのローマ教皇庁との断絶(1054)は,南イタリアで台頭するノルマン人を押さえる切札の放棄を意味した。南イタリアにおける最後の拠点バリは彼らの手に落ち(1071),同じ年,ビザンティン軍は東境のマラーズギルドの戦で,アナトリアに侵入するセルジューク・トルコから壊滅的打撃を被った。3人の皇帝候補者がコンスタンティノープルの帝位をめぐって争う間に,トルコ勢はボスポラスまで進出した。

 皇帝権の争奪に結着をつけて即位したアレクシオス1世(在位1081-1118)は,アドリア海を渡って侵入するノルマン人を,ベネチア艦隊の援助をうけて破るとともに,おりから始まった第1回十字軍のコンスタンティノープル通過を利用して,彼らと主従契約を結び,彼らの力でトルコ人からアナトリアの失地を回復するのにかなり成功した。同帝とその後継者たちのもとで,コンスタンティノープルは国際政治の一中心点であり,その輝きは訪れる者の眼を奪い,宮廷では西方の騎士的風習が流行した。しかし12世紀後半,コニヤの西ミュリオケファロンでのセルジューク・トルコ人に対する大敗北(1176),ノルマン人のテッサロニキ占領(1185)に加えて,ブルガリア国家は再建され,セルビア人も独立国家を建てた。ベネチア商人は,アレクシオス1世から上述の援助の代償として取りつけた,ビザンティン全土において免税で自由に取引を行う特権を手段に,特別の地位を築き上げ,これはビザンティン商人にとってたえ難いものとなった。1171年ビザンティン帝国に滞在する全ベネチア人が拘禁され,その全財産が差し押さえられた。ベネチア側の報復措置が,その艦隊による海岸地方襲撃と,キオス,レスボス両島焼打ちだった。そして最後に第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領し,ラテン帝国が出現した(1204)。落ち延びたビザンティン貴族はそれぞれ,トレビゾンド帝国ニカエア帝国エピロス帝国をつくった。

 ニカエアのテオドロス1世(在位1204-22)とその後継者たちがしだいに支配を固めたのち,ミハエル8世(在位1259-82)が,ベネチアの対抗勢力ジェノバの援助をうけてコンスタンティノープルをラテン皇帝から奪回した(1261)。だが再建ビザンティン帝国に挑戦を試みるバルカンの両南スラブ人国家,コンスタンティノープルで権益を独占するベネチア人,ジェノバ人に加えて,国内的にはパラマス主義(ヘシュカスモス)をめぐる争いで当時の宗教・思想界は二分し,テッサロニキのゼーロータイ支配(1342-50)をはじめ,トラキア諸都市では社会的対立が激化した。その間オスマン・トルコは,ヨハネス5世パライオロゴス(在位1341-91)と争う同6世カンタクゼノスに招かれてアナトリアからトラキアへと渡り(1354),続いて宮廷をブルサからアドリアノープルに移して(1361ころ)バルカンで急速に領土をひろげる一方,コンスタンティノープルを圧迫した。これに対するニコポリスの十字軍(1396)も,バルナの十字軍(1444)も成功をみず,他方フェラーラ・フィレンツェ公会議(1438-39)でも西方からの救援を引き出せないままに,コンスタンティノープルは1453年オスマン・トルコ軍の手に落ちた。
ギリシア →ビザンティン文学 →ローマ
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビザンティン帝国」の意味・わかりやすい解説

ビザンティン帝国
びざんてぃんていこく
Byzantine Empire

コンスタンティノープル(現、イスタンブール)を首都とした中世ローマ帝国の通称。東ローマ帝国Eastern Roman Empireともよばれる。

 ローマ帝国の東方領(後のビザンティン帝国の母体)は、西のローマを中心とする西方領が滅びた(476)あとも、ローマの政治体制、キリスト教、古代ギリシア文化の3本の柱を中心に1453年まで生き続けた。この世界史上きわめてまれな長期の帝国は、コンスタンティノープルの前身がギリシア植民市ビザンティオンであったところから、ビザンティン(またはビザンツ)帝国と通例よばれることが多い。ギリシア語を公用語とし、ギリシア正教(東方正教会)を国教とするこの帝国は、全中世を通じてギリシア正教圏の盟主として君臨した。ことに、のちに新たに誕生してくるスラブ系諸国にとっては、帝国の政治、宗教、社会、文化および経済はそのすべての面において模範とされ、コンスタンティノープルはまさに「東のローマ」であった。文化的には古典ギリシアの文芸をもっともよく保存・育成・発展させ、これを西欧諸国およびイスラム圏に伝えた。そしてまたイタリア人文主義にも大きな刺激を与えた。

[和田 廣]

時代区分

ビザンティン帝国の歴史的出発点をどこに置くかは、議論の多いところである。現在では、全体を3期(初期・中期・後期)に分け、このうちの中期をさらに前期と後期とに分ける方法が多くとられている。すなわち、330年5月11日(コンスタンティノープルの開都)から610年(皇帝フォーカスの退位)を初期とし、610年(ヘラクレイオス1世の登位)から1204年(第4回十字軍による首都の陥落)を中期、中期のうちさらに、610年から1025年(バシレイオス2世の没年)までを前期、1025年(コンスタンティノス8世の登位)から1204年までを後期と分ける。1204年(ニカイア帝国の発足)から1453年5月29日(オスマン・トルコのメフメト2世による首都陥落)を3期のうちの後期とする。本項もこの時代区分に従うこととする。

[和田 廣]

初期

テオドシウス1世の死(395)後、ローマ帝国は領土的には最終的に東方領と西方領とに分かれることになる。後のビザンティン帝国の母体となる東方領とは、ダキア、マケドニア、アシア、ポントゥス、オリエンス、トラキア、エジプト各地方をさす。そしてこれらの領土が、西方領とともにいわゆる「ディオクレティアヌス‐コンスタンティヌス制度」により統治されていた。すなわち、首都を除く全領土は、民政・軍政のそれぞれに独立した二頭支配を受けていた。いま東方領のみに限ってこれをみれば、次のようになる。

 首都を除くすべての領土は、二つの州(オリエンス、イリリクム)に分かれ、オリエンス州は五つの管区(エジプト、オリエンス、ポントゥス、アシアナ、トラキア)、イリリクム州は二つの管区(ダキア、マケドニア)に分かれ、さらにそれぞれの管区は属領に分かれていて、その数は6世紀前半には64を数えたという。すなわち、行政的には、1人の皇帝の下に2人の州長官、7人の管区長、64人の属領長官により支配されていた。軍事的には、皇帝の下に5人の元帥がおり、2人は首都に、残りの3人がそれぞれの管轄区(オリエンス、トラキア、イリリクム)を受け持っていた。国境警備軍、首都駐屯部隊の二つが軍の主力をなし、騎馬兵中心の部隊編成で、5世紀初頭の記録によれば名目上50万に近い兵力の常備軍があったという。国政、信仰、文化、教育、経済のすべての中心である首都の規模は、テオドシウス2世の二重の城壁の完成(413)をもって定まった。首都は、西のローマと同じく特別行政区とされ、町の治安維持、食糧確保、市民の裁判権、商業活動の規制と保護など、市民生活に関するすべての行政上の処理は首都総督に任された。国政の中枢である宮廷では、宰相、大蔵大臣、宮廷財務長官、宮廷長官、侍従長などが皇帝を補佐した。元老院は、皇帝の公式の諮問機関として、政権の交替や皇帝位が空位の際、あるいは新皇帝の選出にあたって決定的な役割を果たすことが多かった。

 こうした統治体制に支えられた帝国は、対外的にはつねに二正面作戦を強いられた。すなわち、東のササン朝ペルシアとは前代から引き続いて戦闘状態にあり、これはユリアヌス帝の戦死(363)、ユスティニアヌス1世治下の一時的和平条約の締結(545)を経て、6世紀後半の小アジアへの侵入とこれに対するヘラクレイオス1世による最終的な勝利(627、ニネベの戦い)に至るまで断続的に続いた。また、バルカン半島では4世紀のゴート人の南下、続く国内へのゲルマン人の侵入、5世紀なかばのアッティラの来襲を受けるが、これらをいずれも「テオドシウスの城壁」によりしのぐことができた。そしてユスティニアヌス1世のとき、失われた旧ローマ帝国西方領を奪回するための大遠征軍が派遣された。その結果、534年北アフリカのバンダル王国を、554年に地中海の島々とともにスペインの西ゴート王国の一部を、そして555年にイタリアの東ゴート王国を、それぞれふたたび帝国領とすることができた。

 しかし、それらの地域も、6世紀後半にはふたたび異民族の侵略するところとなったため、マウリキオス帝Mauricius(539ころ―602、在位582~602)は、イタリアのラベンナ(584)と北アフリカのカルタゴ(591)に皇帝代理として総督を置き、帝国領土の確保に努めさせた。だが、6世紀後半の対外的危機は、北方のドナウ戦線から始まった。すなわち、対西方、対東方政策に追われた帝国は、ドナウ川を渡下し、南下してきたスラブ・アバール人を押し戻すことができず、マウリキオスのときバルカンの主要都市シルミウム、シンギドゥヌムが相次いで陥落した。ついにバルカン半島のスラブ化が始まり、帝国の行政網は寸断され、統治機能はここで大きく後退し、7世紀の変革の一大要因となった。

[和田 廣]

中期前半

この時代の属領統治方式および中央集権体制内での最大の変化は、対外情勢の変化に促された軍事色の強化と文官勢力の後退である。前者においては、帝国領土の二頭支配からテマ制度(軍管区制)への転換がそれであり、後者においては前述のディオクレティアヌス‐コンスタンティヌス制度から、軍事・税務を重視するロゴテシア制度への転換がそれである。いずれもローマ的行政制度からの変身である。テマ制度は、ヘラクレイオス1世の治下(610~641)に始まる国力の全体的低下を補うための非常手段として、地方領地の自給自足を目的として出発したものであった。しかし、この制度は、整備されるにしたがい、帝国にとっては軍事的・経済的長所がきわめて大きかったために、ついにはこれがマケドニア朝下の繁栄の基礎となった。

 帝国の盛運はまさにテマ制度の消長に係っていたともいえた。すなわち、地方豪族および中央の高級官吏・軍人層、それに教会・修道院からなる大土地所有者層が、中小自由農民層を吸収して台頭し、テマ制度を内部から侵食し、さらにたび重なる対外危機による内政の混乱がテマ制度の機能を脅かすとき(中世後期)、帝国の盛運も揺らぐのである。大土地所有者層の増大は、すでに8世紀のころから顕著となった。9世紀初頭ニケフォロス1世(在位802~811)は、経済改革を断行して、大土地所有者層の財力を強制的に国家に還元させようと努めた。10世紀のロマノス1世(在位919~944)をはじめとする諸皇帝は、中小自由農民の農地の転売、寄進、遺贈を禁止することにより、大土地所有者層の増大を防ごうとした。納税の連帯制の強化(富者が貧者のかわりに納税)、大土地所有者の先買権の禁止などの保護策により、中小自由農民層の確保が求められた。しかし、こうした保護策は、国税による収入の確保のための政策であり、中小自由農民の真の社会的・経済的保護を目的としたものではなかったため、実効は薄かった。そして、11世紀初め、大土地所有者層出身のロマノス3世(在位1028~1034)が、従来の保護策を廃止して、逆に大土地所有者層の支持を得るための優遇策に転換するに及んで、中小自由農民層の没落は時代とともに加速度的に進行する。ここに11世紀の変革の一大要因がある。

 7世紀から9世紀にかけて、外敵の侵入(ペルシア、イスラム、スラブ、ブルガリア)が連続的に行われ、たびたび首都をも脅かした。そのため、中央政府部内においては、軍事・税務関係を扱う部局の重要性が増し、それらの部局長が政治の中枢を占め、ディオクレティアヌス‐コンスタンティヌス制度下の宮廷の諸大臣・諸長官と入れ替わることになる。すなわちロゴテシア制の登場である。「ロゴテシア」は元来会計係を意味する。この制度の中心は主計局長で、彼は税務部長と軍政部長をその管轄下に置き、外務大臣と内務大臣の職を兼務する駅逓(えきてい)局長とともに強大な権力を握った。だが官僚機構の整備とともに、皇帝はいわば無任所大臣のような形で自分の信任する人物をこの官僚機構の要所に据え、これを動かそうとした。

 こうした行政機構の改変は、対外的要因により引き起こされたものであるが、その第一は、7世紀前半に始まり9世紀後半まで続くイスラムとの争いである。ヘラクレイオス1世のペルシア遠征が成功して9年後、早くもシリアに侵入したイスラム軍は、ヤルムークの戦い(636)でビザンティン帝国の軍を大破した。以後シリア、メソポタミア、エジプトといった重要な領土はまたたくまに帝国領外に去り、小アジアはもちろん首都さえも二度にわたり(678、717~718)、イスラム軍に包囲されるありさまであった。そして帝国がイスラム軍に対して攻勢に出られるのは9世紀後半からである。

 第二の要因は、ブルガリア人の登場である。7世紀なかばにバルカン北部に出現した彼らは、陸続と南下を続け、コンスタンティノス4世の遠征軍を大破した(679)。アスパルーフ王のとき、バルカン半島中部にビザンティン領内における初の独立国家である第一次ブルガリア王国(681~971)を樹立した。とくに9世紀初頭のクルム王、9世紀後半から10世紀前半にかけてのシメオン王の2人は、帝国を大いに苦境に陥れた。

 これに対し、時期的には早く南下・定住を始めていた第三の要因であるスラブ人は、独立国家を形成することなく、先住民であるギリシア系住民との融合の道を歩んだ。ギリシア人のスラブ化がそれであった。しかし、これも9世紀初頭には、スラブ人に占領された地域の奪回が南ギリシアから開始されるにしたがって、いわばスラブのギリシア化が始まるのである。その象徴的事件が、スラブの使徒キリロス(別名コンスタンティノス、キリル)とメトディオスの兄弟によるスラブ文字(キリル文字)の作成であり、これをもとにしたスラブ人への伝道である。ここにスラブ人のビザンティン文化摂取の道が開かれた。また9世紀なかばには、のちにキエフ公国を樹立するロース人が初めて首都周辺に出没する。のちにオレーグ王のとき、帝国との通商条約を締結(911)、さらに女帝オルガの受洗(957)、ウラジーミル1世のときキリスト教の国教宣言(988)が行われるに及んで、キエフ公国もギリシア正教圏の有力な一員となった。

 かくして対外危機を乗り越え、行政・軍事機構の整備と中小自由農民の繁栄を背景とし、帝国はバシレイオス2世(在位976~1025)のとき、アルメニア、シリアの沿岸地帯、ドナウ川以南のバルカン半島をふたたび帝国領とし、ユスティニアヌス帝以後の最大の領土を得た。マケドニア朝下の繁栄がそれである。

[和田 廣]

中期後半

11世紀を境にしたビザンティン帝国の緩慢な衰退現象は、1204年4月13日の第4回十字軍の騎士とベニス総督エンリコ・ダンドロEnrico Dandolo(1107?―1205)による首都占領に象徴される。その原因は、国内の封建化の進行と、セルジューク・トルコ、十字軍(第1~4回)、第二次ブルガリア王国、セルビア王国などのもたらした外圧にあるといえる。

 国内封建化の現象は、11世紀初頭のコンスタンティノス9世(在位1042~1055)下のプロノイア制(土地媒体による皇帝と臣下の主従関係)の成立、その後の発展・普及に現れている。当時、免税特権を賦与された大土地所有者層の領地、徴税請負人に賃貸に出された土地、それにプロノイアとして支給された土地の3種類は、徴税上は治外法権的な存在であった。こうした所領の増加は、他方では中小自由農民への納税の負担増を意味した。これが、次には前者の増大と後者の没落という悪循環を生んだ。こうした事態は、国庫の貧困化をもたらしたが、その象徴はビザンティン金貨の金含有量の下落であった。コンスタンティノス9世治下では90~80%であったものが、30年後のニケフォロス3世Nicephorus Ⅲ(1001―1081、在位1078~1081)の下では30%に下落するのである。こうした社会経済上の変革は、行政・軍事にも影響しないわけにはいかなかった。

 テマ制度は、小アジアとバルカン半島の主要部分が11世紀なかば過ぎに帝国領外となったこと、および国内の封建化のため徐々に消滅した。残る領土の大半は、封建化の波にのまれ、大土地所有者層の手に移ってしまうのである。いまや皇帝自身も大土地所有者層の出身である者がほとんどであった。したがって、その支配体制には、前代までの中央集権制はかろうじて維持されながらも、一方ではおもに土地を媒体にした皇帝と臣下群の封建的支配関係が多く混入することになった。アレクシオス1世(在位1081~1118)治下におけるような一時的興隆期はあったものの、皇帝権力そのものの低下は否定できず、それと相対的に大土地所有者層の発言力が増した。中央、地方を問わず、内乱や反乱、勢力拡張のための陰謀や勢力争いが頻発した。11世紀後半の縮小された帝国領では、2人の軍司令官が全領土を東西の二つの軍区に分け、自国軍にかわる外国人傭兵(ようへい)部隊を指揮して国防にあたった。

 このような不安定な内政に拍車をかけたのが、対外危機であった。11世紀後半のノルマン人の進出は、帝国の南イタリア支配に終止符を打ち(1071)、ノルマン王ロベルト・グイスカルドはその死に至るまで帝国を苦しめた。同年、ロマノス4世Rhōmanos Ⅳ(1072没、在位1068~1071)はセルジューク・トルコ軍をマンチケルトで迎え撃ったが敗れ、小アジアの中央にルム王国の樹立を許してしまう(1080)。こうした東西の外圧に対抗するため、アレクシオス1世はイタリア商業都市、とくにベネチアに軍事援助を依頼。その代償に帝国領土内での貿易・免税特権を与えた。だが以後帝国の商業・経済活動はイタリア、なかでもベネチアの商人の進出により大打撃を受けることになる。さらに混乱をもたらしたのは、ペチェネグ、マジャール、クマノイ、ウズといった異民族の南下と来襲であり、ネマニッチ(ネマーニャ)王の下でのセルビア王国の興隆と第二次ブルガリア王国(1186~1393)の樹立であった。こうした外圧の頂点が第4回十字軍(1202~1204)であった。

 すでに第1回十字軍(1096~1099)の通過の際に、西欧とビザンティン帝国の人々の間に生じた誤解は、時とともに双方の反感と嫌悪と敵意に変じ、第4回十字軍ではその頂点に達した。もちろん東方の富に目がくらんだのも事実であった。そして東地中海貿易の独占を企てたベネチア総督ダンドロは、これを機に一気に首都占領に踏み切るべく、十字軍と歩調をあわせた。かくして1204年4月13日に首都は陥落し、旧帝国領内にボードワン1世Baudouin Ⅰ(1171/1172―1205/1206、在位1204~1205)を皇帝とするラテン帝国(1204~1261)が誕生した。

[和田 廣]

後期

首都を逃れた旧ビザンティン帝国の勢力の一つはニカイアに(1204~1261)、他の一つはエピルスに(1204~1335)それぞれ亡命政権を樹立した。また別の一派は、首都陥落直前に黒海沿岸のトラペツントに独立した王国を建てたが(1204~1461)、これはビザンティン帝国の政治的命運とはまったく無関係な存在であった。この亡命政権のなかでは、ニカイア帝国の復興が目覚ましかった。わずか半世紀の間に周辺の外敵をあるいは破り、あるいはこれと和し、ついにミハイル8世によるペラゴニアの戦い(1259)の勝利によって、その地位を不動のものとした。そして1261年8月15日、同帝は旧首都をラテン帝国から奪回し、パレオロゴス朝を開くのである。

 しかし、復興された帝国は、内政・外政ともに難問が山積していた。対外的には、13世紀後半に首都奪回をねらう反ビザンティン勢力に苦しめられた。シチリアのアンジュー家の策動により、旧ラテン帝国のボードワン2世(1217―1273、在位1228~1261)以下が結集し、首都攻略に出たが、ミハイル8世は逆に「シチリアの晩鐘」事件(1282)により、ようやく危機を切り抜けた。だが国内の封建化による悪弊は強く、行政の乱れ、経済活動の不振、外国人傭兵の増加は、一方では一般市民および農民層を重税をもって圧迫した。他方では、内政上の悪循環は外政上の無策と失敗につながった。そのもっとも大きなものは、14世紀の対オスマン・トルコ政策であった。

 小アジアのブルサに首都を置き(1326)、機会をねらうオスマン・トルコ軍はすばやくニコメディア、ニカイアの両都市を占領した。この対外危機に臨んでも、国内では皇帝位継承問題でいわゆるカンタクツェノスの乱(1341~1347)により効果ある防衛策を打ち出せなかった。そして1365年、オスマン・トルコのムラト1世はその首都をアドリアノープルに移した。ここにビザンティン帝国は、海上ではイタリア商業都市のベネチアとジェノバに、陸ではオスマン・トルコに囲まれた東地中海における一小国となった。チェルモナの戦い(1370)でオスマン・トルコ軍に大敗したセルビア王国同様、ビザンティン皇帝もこのときからスルタンに対し進貢義務を負うことになった。これをもってビザンティン帝国の政治的独立は失われたのである。続くコソボの戦い(1389)でセルビアが敗れ、ニコポリスの戦い(1396)でハンガリーが敗れると、バルカン半島ではオスマン・トルコ軍に対抗する勢力はなくなった。まさにビザンティン帝国は、オスマン・トルコという大海に浮かぶ孤島のごとき存在となってしまった。東西両教会の再統一を条件に、ローマ教皇を通じてラテン世界から軍事援助を引き出そうとする試みが再三再四行われたが、いずれも失敗に終わった。

 モンゴルのティームール・ハンが小アジアに侵入し、オスマン・トルコのスルタン・バヤジトをアンゴラの戦い(1402)で破り、帝国は一時小康を得た。だがムラト2世以来、首都攻略は日増しに激しくなり、ハンガリー王ウワディスワフ3世Władysław Ⅲ(1424―1444、ポーランド王(在位1434~1444)、ハンガリー王(ウラースロー1世Ulászló Ⅰ、在位1440~1444))の組織したキリスト教徒軍がバルナで大敗を喫した(1444)あとには、ビザンティン帝国に対する救援の望みはまったく絶たれた。そして1453年春、スルタン・メフメト2世は、籠城(ろうじょう)軍の10倍の兵力をもって海陸から1か月もの間首都を包囲した。そして5月29日の総攻撃をもって、ついにこれを陥落させた。ここにビザンティン帝国の政治的生命が終息した。

 首都の陥落に続いて、アテネ、モレア、トラペツントという都市が次々にオスマン・トルコ軍の手に落ちた。しかしギリシア正教会だけはオスマン・トルコの宗教的宥和(ゆうわ)策によりその存続を許された。そして聖画、教会音楽と教会建築に代表される宗教芸術は、ギリシア正教会とともに今日までビザンティン文化の継承者として存続している。また、アトスの修道院群は今日もなおギリシア正教の聖地として栄えている。

 中世において先進国であったビザンティン帝国の政治・法律・文化を受容し、ギリシア正教を国教としたスラブ諸国、なかんずくブルガリア、セルビア、ルーマニア、キエフ・ロシア(後のモスクワ大公国)には、帝国滅亡後も多方面においてその影響が生き続けた。なかでもモスクワ大公国のイワン3世は、ビザンティン帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世(在位1449~1453)の姪(めい)ソフィアZoe Sophia(1503没)と結婚(1472)した。彼は、ビザンティン皇帝の即位式に準じて戴冠(たいかん)式を挙行、自らビザンティン帝国の継承者をもって任じ、モスクワを「第二のローマ」(コンスタンティノープル)に次ぐ「第三のローマ」と宣言したのである。

[和田 廣]

『渡辺金一著『ビザンツ社会経済史研究』(1966・岩波書店)』『米田治泰著『ビザンツ帝国』(1977・角川書店)』『鳥山成人著『ビザンツと東欧世界』(『世界の歴史19』1978・講談社)』『杉村貞臣著『ヘラクレイオス王朝時代の研究』(1981・山川出版社)』『井上浩一著『世界歴史叢書 ビザンツ帝国』(1982・岩波書店)』『和田廣著『ビザンツ帝国』(教育社歴史新書)』『渡辺金一著『中世ローマ帝国』(岩波新書)』


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百科事典マイペディア 「ビザンティン帝国」の意味・わかりやすい解説

ビザンティン帝国【ビザンティンていこく】

中世のローマ帝国。呼称は首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)の旧名ビュザンティウム(ギリシア名ビュザンティオン)にちなみ,英語でByzantine Empire。ドイツ語読みで〈ビザンツ帝国〉,また日本では〈東ローマ帝国〉とも呼ばれる。476年,ローマ帝国西方(いわゆる西ローマ帝国)は壊滅したが,東方に依然として残ったのであり,オスマン帝国軍によるコンスタンティノポリス攻略(1453年)まで正統な〈ローマ帝国〉として命脈を保ったことに注意すべきである。多言語・多民族を抱え,ササン朝,十字軍,イスラムなどとの幾多の抗争のなか,聖俗の至高権を有する皇帝の下で,中世にあっては例外的な中央集権国家を維持した。特異な行政機構としてテマ制がある。宗教はコンスタンティノポリス総主教を戴く,いわゆる東方正教会で,8―9世紀には影響の大きいイコノクラスム論争が起こった。ハギア・ソフィアを代表とする建築,モザイク,イコン,工芸にも見るべきものがあるほか,古典ギリシア語を受容した教養文学・民衆文学にも傑作が少なくない。外圧にともなう知識人(たとえばプレトン)の西方への流出がルネサンスの思想・芸術に大きく寄与したことも注目に値する。→ローマ(古代)
→関連項目アルバニアイワン[3世]ウラジーミルエマイユギリシアコンスタンティヌス[1世]西ローマ帝国バヤジト[1世]バルカン半島ブルガリアマダラの騎士マルタミストラメテオラメフメト[2世]ヤロスラフラテン帝国レプティス・マグナの古代遺跡

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ビザンティン帝国」の解説

ビザンティン帝国(ビザンティンていこく)

ビザンツ帝国

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のビザンティン帝国の言及

【ギリシア】より

…ローマ帝政期には中流市民の没落に伴って,ローマの保護のもとで有産市民が市参事官となって地方自治の実権を握り,帝政後期以降には小作制による大土地所有制が発達していったものと推定される。ヘレニズム【太田 秀通】
【ビザンティン帝国,オスマン帝国時代】

[ビザンティン帝国下のギリシア]
 前2世紀以降,すでにギリシアの地はローマ帝国に編入され,属州アカイア,マケドニアが設けられていたが,330年にコンスタンティヌス1世によってコンスタンティノープルが帝国の東の首都と定められ,さらに395年にローマ帝国が東西に分裂すると,コンスタンティノープルを首都としギリシア,バルカンを中心とする東のローマ帝国は,西のローマ帝国とは別の歩みを始めることとなった。東の帝国は一般にビザンティン帝国とよばれるが,その歴史は,ローマ帝国理念,ギリシア文化,キリスト教の三つの要素を独自の形で結合させて発展していった。…

【皇帝】より

…ここから,たとえば,現代フランス語のempereur,ウェールズ語のymerawdwrが由来する。imperatorは中世では,ビザンティン帝国で皇帝を指すbasileus(後述)と等置された。カール大帝が800年のクリスマスにローマで帯びたimperator称号については,今日なお歴史家のあいだで解釈が定まらないものの,その結果,imperatorカール大帝と,basileus称号を帯びるビザンティン皇帝との間には,皇帝称号をめぐって,いわゆる中世における二皇帝問題が発生した(後述)。…

【ヨーロッパ】より

…ところが4世紀の末,帝国が東西に分治され,東帝国へは主としてスラブ系諸族,西帝国へはもっぱらゲルマン系諸族が,大挙侵入・定住することとなる。東ではいわゆるビザンティン帝国として,ローマの諸制度や国家形態がほとんどそのまま存続したのに反し,西では教会を介してカトリック的統一が維持されたものの,国家の形態は一変してゲルマン的な人的結合に重点を置く部族国家の分立状態となり,カール大帝による帝冠の復活も,いわばビザンティンとの関係でローマ教皇側から働きかけた理念的な形式の表れにすぎなかった。政治の現実はやがて封建国家の割拠に突入し,それ以来西ヨーロッパでは今に至るまで2度と世界帝国が実現しなかったわけで,近世における国民国家の根源は,すでにこの頃に定礎されていたのである。…

【ローマ】より

… 以下においては,ローマの歴史をいわゆる西ローマ帝国の滅亡の時点まで概観するとともに,国家および社会・文化の諸相を個別的主題の下に眺めることとする。西ローマ帝国滅亡後の歴史については〈ビザンティン帝国〉の項目を,神話,文学,美術,演劇などについてはそれぞれ,〈ローマ神話〉〈ラテン文学〉〈ローマ美術〉〈ローマ演劇〉などの諸項目を参照されたい。
〔歴史〕

【先史時代と王政期】
 ローマが姿を現すはるか以前から,イタリア半島にはテラマーレ,アペニノと呼ばれる青銅器文化(テラマーレ文化)があり,これらを吸収してやがてビラノーバと呼ばれる鉄器文化(ビラノーバ文化)が生まれた。…

※「ビザンティン帝国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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