日本歴史地名大系 「七五三場村」の解説 七五三場村しめばむら 茨城県:結城市七五三場村[現在地名]結城市七五三場北南茂呂(ほくなんもろ)村の南方に突出した舌状台地上に発展した村。西には日光東街道が南北に走っている。東部の台地東側のヤト田に面する神立(かんだつ)遺跡は縄文前期と古墳時代の複合遺跡で、土師器片などが採集され、古墳時代の集落もあったとみられている。元亨元年(一三二一)八月の山河貞重寄進状案(金沢文庫文書)によれば、西毛呂(にしもろ)郷の南に接して「志目波」(郷)があり、両郷の境には空堀が掘られていた。この「志目波」は七五三場村にほぼ一致し、鎌倉初期以来、山川氏伝来の所領の一部をなしていた。天正一八年(一五九〇)の山川晴重宛の豊臣秀吉宛行状(山川修二文書)にも「五拾五貫六十文 志めは」と記されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報