香取神社(読み)かとりじんじや

日本歴史地名大系 「香取神社」の解説

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]猿島町沓掛

沓掛くつかけのほぼ中央に鎮座。祭神経津主命。旧村社。社伝によると経津主命の傍系孫である美計奴都加佐命の創祀に由来し、大同二年(八〇七)空海が巡錫の折に十一面観音を勧請。このときのものといわれる断碑に「香取大明神十一社神則諸仏云思仏則諸神性也、所謂十一社者十一面現化而已、大同二丁亥仲夏十五日空海」とある。弘仁元年(八一〇)空海が再び参詣し、別当香取山金乗きんじよう院を建立。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町宮本町

古河こが市へ至る道の北に鎮座。祭神経津主命。旧村社。二の石鳥居には「寛政九丁巳年二月、当町氏子中」と刻む。元禄年間(一六八八―一七〇四)創建と伝えられ、「境町沿革小誌」によると相殿の祭神品陀別尊は古河公方足利晴氏が合祀したもので、晴氏奉献の古太刀が神体と伝える。宝永三年(一七〇六)の境町寺社方差出覚帳(小松原康之助文書)には「一香取社、表三尺壱寸五分、四尺、別当吉祥院、両家長四間・横弐間、拝殿長五間・横弐間、社地東西五拾間・南北九拾九間半、此反歩壱町歩余御代々様御縄除、下畑三反歩社領御代々様御水帳ニ御除」とあり、除地など広大な境内地を有した。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町塚崎 元内

香取こうしゆ院の西に鎮座。祭神経津主命・品陀別命・宇迦之御魂命・美津波之売命。旧村社。当社の宝物記によると金幣の表に「于時元禄三年庚午九月吉祥日」、裏に「下総国葛飾郡塚崎村、香取大明神、別当香取院順盛造立之」とあり、香取院が別当であった。神体の鏡の裏には「下総国猿嶋郡幸嶋庄塚崎村、右は葛飾郡下川辺庄にて元称、牧(ママ)備後守元城主之時以改郡庄替之、別当香取院順清代為造立之、元禄十六年癸未二月吉日」とある。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]伊南村宮沢

宮沢みやざわ集落の北部、宮沢入みやざわいり川の出口に位置し、伊南川の崖上にある。俗にいちみやと称し、旧郷社。経津主命を祀るが、「新編会津風土記」は「詳ならず」と記している。かつては鬱蒼とした森林に囲まれていた。「異本塔寺長帳」に、伊南河原田氏の一族杉岸景信が弘安二年(一二七九)、上州一ノ宮(現群馬県富岡市)から帰り一ノ宮板鉾大明神を祀ったとある。その後河原田氏の崇敬が厚く社領もあった。近世には一ノ宮神社と称し、境内東西三五間・南北一町が免除地とされ(新編会津風土記)、伊南郷の総鎮守として氏子の尊信を集めてきた。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町長井戸 志辺

長井戸ながいどの中央北部に鎮座。祭神経津主命。旧村社。元香取もとかとりの地から現在地に移されたと考えられ、現在の広大な境内は長井戸城跡とみられる。一の鳥居は銅板巻きの大きなもの、二の石鳥居に「奉造立石鳥居諸願成就、寛延元戊辰年、下総州猿嶌郡長井戸村」と刻む。宝永三年(一七〇六)の指出帳(長野監治文書)に「香取社免、別当花蔵院、牧野備後守様御代御除被遊被下候御事」とみえ、江戸時代は花蔵けぞう院の別当支配を受けた。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町下砂井 本村

下砂井しもいさごい南部に鎮座。祭神経津主命。社伝によると創建は享保一六年(一七三一)。鰐口には「安永庚子九年十二月吉日、惣村中願主四人」、境内の石灯籠の一基には「享和二壬戌年十一月吉日、下総国猿島郡下砂井村、惣氏子中」とある。境内社砂口さぐち神社・雷電らいでん神社・稲荷神社大杉おおすぎ神社・わし神社・天満宮。例祭は一一月一五日。

砂口神社はもとは現在地の北一〇〇メートルほどの平地林中の水溜付近にあったが、大正五年(一九一六)に合社された。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]石下町向石下

向石下むこういしげ集落東北、鬼怒きぬ川西岸の鬱蒼とした森に鎮座。祭神経津主命。旧村社。「趣味の結城郡風土記」によれば古くは人丸ひとまる大明神と称し、柿本人麻呂を祭神として天喜三年(一〇五五)に創祀された。また一説には延喜年間(九〇一―九二三)に平将門の父良将(良持)が香取神社として創祀し、向石毛むこういしげ城の大手門と橋梁で連絡していたとも伝えられる。天文五年(一五三六)社殿炎上、天正元年(一五七三)人丸神社再建を神祇官に出願したが、下総国一宮香取神宮(現千葉県佐原市)を分祀することで許可があり、以後香取神社となり、人丸明神は末社となる。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]青森市長島二丁目

もと毘沙門びしやもん堂と称し、青森総鎮守であったが、神仏分離により明治四年(一八七一)総鎮守は善知鳥うとう神社に移り、毘沙門堂は香取神社となった。祭神経津主命・武甕槌神。旧村社。祭日七月一四日。

「新撰陸奥国誌」に「昔何の頃にか或人堤川より空海か刻める毘沙門天の像を得て深く崇敬し、此の地に一宇を立て奉祀せり」との草創が記されるが、伝承の域を出ない。初代藩主津軽為信は弘前の鬼門にあたるこの地に、武神である毘沙門天を祀ることを命じたというが(青森市史)、実現せず、寛永一八年(一六四一)青森町奉行森山内蔵助・町頭佐藤理右衛門らによって建立され、多聞天・持国天の二体を本尊としたという。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]守谷町野木崎

利根川北方の丘陵地に鎮座。境内には樹木が多い。祭神経津主命。配神大山祇命・大物主櫛玉大神・猿田彦命・素盞嗚尊・大己貴命。旧村社。安永四年(一七七五)下総一宮香取神宮の分霊を鎮斎したものと伝える。宝暦五年(一七五五)の書上帳(椎名半之助文書)によれば、医王いおう寺が祈願寺であった。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]流山市北・小屋

南北に縦断する県道松戸―野田線(かつての松戸―野田往還)に面して鎮座する。経津主命・豊玉姫命を祀り、旧郷社。社地付近の地は古来大森林をなし明神みようじん森とよばれて江戸川を上下する船の目標になったといわれる。社伝によると創建は称徳天皇の時代とされ、木造の経津主命像・観音像を神体とする。初めは桐斎殿、のちに桐明神とよばれたといい、社地の周囲に明神前みようじんまえ明神脇みようじんわきなどの地名が残る。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町浦向 沼台上

浦向うらのむこうの東端、東にいち沼のヤト田を望む台地に鎮座。祭神経津主命。旧村社。境内に善福ぜんぷく寺の薬師堂がある。例祭は一一月一五日。宝永三年(一七〇六)の指出帳(長野監治文書)に「一香取之社壱ケ所、但シ境内弐町五反歩なと寺地共」とあり、善福寺と同一敷地内に建立されていた。同五年の香取宮修復願書(本谷英雄文書)は別当の善福寺が名主・組頭とともに藩へ提出したもので、「善福寺支配之香取宮之母屋拝殿并客殿及破損難儀仕候、此度修覆仕度奉存候得共貧寺ニて自力ニ難叶御座候ニ付」として松丸太二〇本・雑木一〇本の下付を願出ており、藩もこれを受理している。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]猿島町菅谷

菅谷すがやの中央に鎮座。参道・境内には元和―寛永(一六一五―四四)頃植えたと伝える老松が茂る。祭神は経津主命。旧村社。社伝によれば大同年中(八〇六―八一〇)の創立で、承平―天慶(九三一―九四七)頃左京・右京という者が来住し当社を再建。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]総和町下辺見 宮向

下辺見しもへみ集落南部に鎮座。東に釈迦しやか沼のヤト田を望む。一の鳥居献額に「香取大明神」とあり、文政七年(一八二四)の銘を刻む。二の鳥居は天保三年(一八三二)。三の鳥居献額には「正一位稲荷大明神」とあり、四の鳥居に続く。祭神経津主命。旧村社。社殿に承安五年(一一七五)の棟札があり、奉仕者法印雲海などと記す。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町百戸

百戸もどの南部に鎮座。祭神経津主命。旧村社。石鳥居に宝暦三年(一七五三)造立と刻み、献額は「香取大神宮」。神木の欅は幹回り八メートルほどで、樹齢七、八〇〇年と推定される。宝永三年(一七〇六)の猿嶋郡下郷廿三ケ村(長野監治文書)には「一香取社地、壱ケ所、但境内三反歩、永百八十五文、年貢引」とある。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町若林

金剛こんごう院の西に鎮座。祭神経津主命。旧村社。石鳥居に「奉造立鳥居請願成就皆令満足之所也、金剛院満徳代、元禄八歳己亥十二月吉祥日、若林村氏子中敬白、江戸深川石屋長右衛門」と刻み、献額に「正一位香取大明神」とある。例祭一一月一〇日。江戸初期に成立したと考えられる若林村之草切人為念覚(台家文書)に明徳三年(一三九二)のこととして「本香取御座候」とあるのは当社とみられる。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]千代川村鯨

祭神経津主命。よろい明神ともよばれ、宗任神社縁起記(宗任神社蔵)に「復次三分之中以鎧一具可鎮祭于東南方鯨郷号鎧明神也」とあるところから、宗任むねとう神社・かぶと神社と一体のものであったと考えられる。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]庄和町西金野井

江戸川右岸に鎮座する。旧郷社。祭神は経津主命。徳治元年(一三〇六)三月一七日銘の社蔵棟札には「神田梶取大神」とある(武蔵史料銘記集)。これは写であると考えられるが、創建の古さがうかがえる。本殿(県指定文化財)は一間社流造で、擬宝珠銘には寛永一六年(一六三九)とある。天正一四年(一五八六)一一月二三日の北条家検地書出写(遠藤家文書)に神田梶取明神二貫文とある。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町志鳥 宮本

志鳥しとりの東端、長井戸ながいど沼を望む台地に鎮座。社殿の前に幹回り四・五メートルほどの大欅がある。祭神経津主命。旧村社。創建は江戸時代。社宝の神鐘に「宝暦二年三月十五日祐憲代」、手洗石に「文化二年氏子中」、花崗岩の鳥居に「慶応二年氏子中」とある。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町上小橋

上小橋かみこばしの中央西部に、杉・松の木立に囲まれて鎮座。祭神経津主命。旧村社。正徳四年(一七一四)正一位となる。明和七年(一七七〇)の差出下帳(野本家文書)に「香取宮、社地境内東西三拾五間、南北五拾三間、惣村支配御座候」とみえる。境内に金毘羅大権現こんぴらだいごんげん宮があり、宝暦九年(一七五九)の銘を刻み、この年勧請されたと伝えられる。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]岩井市弓田 中北

大字弓田ゆだの西端、菅生すがお沼上流のヤト田を望む台地に杉の巨樹に囲まれて鎮座。祭神経津主命、配祀菅原道真。旧村社。例祭は旧暦八月二〇日。神社東側に談議所だんぎしよ兵庫屋敷ひようごやしきなどの小字が残り、律令時代の兵営の守護神として創建されたと伝えられ、平将門も承平三年(九三三)に参拝したという。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]総和町磯部

磯部いそべ集落東南、南に釈迦しやか沼のヤトを望む台地に鎮座。石鳥居献額に「正一位香取大神宮」、鳥居に「文政八乙酉年二月吉日 下総国葛飾郡磯部村東組」と刻む。祭神経津主命。旧村社。磯部村東組の鎮守とされ、境内社は天神社・神明社・熊野くまの社・稲荷社青竜せいりゆう社。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町下小橋 宮久保

下小橋しもこばしの東部に鎮座。当社を中心に、東に大六天だいろくてん社、西に慈眼じがん院が同一境内にある。祭神経津主命。旧村社。石鳥居は慶応二年(一八六六)造立で、献額に「香取大神宮、正八幡宮」とあり、拝殿には「伊勢太々講」の大献額がある。宝永三年(一七〇六)の指出帳(長野監治文書)に「香取社地、東西廿四間、南北卅二間」とあり、慈眼院境内に香取八幡宮があると記している。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]五霞村元栗橋

法宣ほうせん寺北方の杉木立に囲まれた地に鎮座。本殿の裏手に枯死した神木が残る。旧村社。社伝によると慶安元年(一六四八)朱印地五石を受け、享保一〇年(一七二五)正一位となり、天保四年(一八三三)香取大神宮号を与えられた。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]守谷町板戸井

鬼怒きぬ川東岸の台地上に鎮座。祭神経津主命・豊玉毘売命。旧村社。おたきさま・清滝香取せいりゆうかとり神社とも称する。元禄一一年(一六九八)九月に下総一宮香取神宮の分霊を移したものと伝えられる。例祭は一一月一五日で、明治中期までは芝居が行われたが、演目は「忠臣蔵」と決まっていたので、俚謡に「板戸井いたでしばやは忠臣蔵よ、帰りがけなら見においで」とうたわれた。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]五霞村小手指

小手指こてさしの北東部、上宿かみじゆくに鎮座。祭神経津主命。旧村社。社伝によると創立は正徳三年(一七一三)一一月吉日。延享元年(一七四四)武州中川崎村大仏仏師の奉納した香取大神の坐像を神像とした。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]猿島町山

大字やまの東南部、駒寄こまよせ坪の高台に鎮座。急な石段があり、境内は樹木が茂る。祭神は経津主命。旧村社。寛永七年(一六三〇)神祇管領卜部兼敬より正一位を受ける。天保一五年(一八四四)の村鑑明細書上帳(忍田家文書)には「香取神社、壱ケ所、別当宝蔵院、施主惣村惣社」とある。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町山崎 井草本田

山崎やまざきの南部に、杉木立に囲まれて鎮座。祭神経津主命。旧村社。社伝によれば正和元年(一三一二)の創建。元文四年(一七三九)村差出帳(逆井家文書)によると社地一町六反は寛永二年(一六二五)と寛文元年(一六六一)の検地の際に高外地とされた。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]猿島町逆井

西にし坪の字宮東みやひがしに鎮座。鳥居脇に二本の大欅があり、樹齢七〇〇年近いと伝え、社殿まで杉並木が続く。祭神経津主命。古くは北方の字内野うちの、通称大鳥の香取山おおどりのかとりやまにあったものをいつの頃か延寿えんじゆ院という寺があった現在地に移したと伝える。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町西泉田

西泉田にしいずみだ北部の上地かみちに鎮座。祭神経津主命・武甕槌命・天日鷲命。旧村社。天正一六年(一五八八)一一月創立、寛永二年(一六二五)下総関宿藩主小笠原政信が社殿を造営したと伝えられる。境内に「三宝荒神、寛政六寅六月吉日、願主野村五兵衛、西泉田村神主石原」と刻む三宝荒神さんぼうこうじん社、宝永六年(一七〇九)の庚申塔、「勝善宮、文久二戌年五月吉」と刻む小祠がある。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町染谷 中道

染谷そめやの西部に鎮座。文化三年(一八〇六)造立の石鳥居に「香取大神宮」の献額がかかる。祭神経津主命。旧村社。社伝によれば元禄年間(一六八八―一七〇四)の創立。安永三年(一七七四)と文化五年に神階を受ける。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]北浦村内宿

御城みじようにあり、祭神は経津主命。旧村社で木崎大明神とも称する。「茨城県神社誌」によれば、文明一〇年(一四七八)大掾氏が内宿うちじゆく城の守護神として鎮斎したのが起源で、後に武田民部大夫が天文三年(一五三四)九月に再建したという。慶安三年(一六五〇)三月、領主皆川秀隆が本殿を造営、明暦二年(一六五六)舞殿を新築寄進、寛延二年(一七四九)松平頼元が社殿を再建し、「貴佐貴宮」の額を奉納。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]五霞村冬木

冬木ふゆきの南部に鎮座。一の鳥居献額に「香取神社、八幡神社」とある。祭神経津主命、配祀誉田別命。旧村社。鳥居脇に宝永年間(一七〇四―一一)の不動仏石が立ち、参道入口には神木とみられる大木の切株が残る。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町金岡

金岡かねおかの最南端、いち沼と利根川を望む台地に鎮座。神木の榧は幹回り四―五メートル。祭神経津主命。旧村社。社伝によると天正六年(一五七八)または同一一年に当地の土豪源右衛門の寄進によって創立。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]三和町谷貝

日光東街道の東側に鎮座。地元では八幡香取神社とも称する。祭神経津主命・誉田別命。旧村社。社伝によれば天慶年中(九三八―九四七)下総国司安房守平公雅が国内鎮護のため鎮斎。天正一二年(一五八四)兵火に遭い類焼。その後再建され、寛文五年(一六六五)に領主下総関宿藩主板倉重常が境内地を免租とし、元禄九年(一六九六)には藩主牧野成春が社殿を造営。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]総和町駒羽根

駒羽根こまはね集落東端、釈迦しやか沼東枝のヤト田を望む地に杉木立に囲まれて鎮座。祭神経津主命。旧村社。社伝によると元禄二年(一六八九)下総一宮香取神宮より分霊を迎えて鎮斎。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]取手市取手三丁目

長禅ちようぜん寺東北に鎮座。旧村社。祭神経津主命。正保四年(一六四七)一一月創建といわれ、九月一九日の例祭を土地の人は「トーロー」という。昔はこの祭が始まる月の一日になると、地区の入口の道路に注連縄を張る(土地の人はトジメという)が、これ以降は不浄のものが通れなくなり、葬列や肥桶を持った人は「宮本」(当社を勧請した人)に話して、注連縄を外してもらったという。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]五霞村川妻

川妻かわつまのほぼ中央、下坪しもつぼに鎮座。鳥居・社殿ともに西向き。鳥居前の狛犬に嘉永四年(一八五一)の銘を刻む。祭神経津主命。旧村社。宮元である中村家は「川妻の七軒家」と称され、山林を奉納するなど、古くからかかわりをもってきた。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]総和町葛生 磯ノ木

西に長井戸ながいど沼西枝を望む台地に鎮座。鳥居までの参道は長く、両側に木立が多い。香取社と八幡社が合祀されたもので、拝殿内の献額に「正八幡宮」「正一位香取宮」とある。祭神経津主命・応神天皇。旧村社。八幡社は文和元年(一三五二)に磯玄蕃正純が祈願所として紀州熊野より殿階木と称する名木を取寄せて手植し、上田二反歩を寄進して免除地としたと伝えられる。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町蛇池 宮

蛇池じやいけのほぼ中央に鎮座。香取八幡神社とも称する。祭神経津主命・誉田別命。旧村社。古い石鳥居の額の表に梵字二字が記され、裏面に「享保五年庚子極月吉」と刻む。社伝では延宝三年(一六七五)本社造立。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町横塚 宮内

善福ぜんぷく院の南に鎮座。祭神経津主命。旧村社。石鳥居に「正一位香取神社」の献額があり、寛文九年(一六六九)の銘を刻む毘沙門びしやもん神社を合社。享保三年(一七一八)神祇管領卜部兼敬の伝宣により正一位に進むと伝える。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町栗山

栗山くりやまの中央、字砂井前いさごいまえに鎮座。茅葺の本殿と拝殿が建つ。祭神経津主命。旧村社。拝殿東前の大きな舟形庚申碑二基に「猿嶋郡栗山村、延宝八庚申十月日」、拝殿前の小さな角柱石に「奉納御宝前、元禄□□」と刻む。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]岩井市長谷 台島

利根川の流作場を望む台地に鎮座。祭神経津主命。旧村社。社伝によると天正五年(一五七七)正月の創立。例祭九月一五日。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]守谷町立沢

大字立沢たつざわ中央の平坦地に鎮座。境内に大樹数本が茂る。祭神経津主命。配神市杵島姫命・武甕槌命・大日貴命・大山咋命・熊野武呂命。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]総和町前林

前林まえばやしの東部、はるかに利根川を望む地に鎮座。祭神経津主命。旧村社。社殿前の枯木は幹回り八メートルに及ぶ神木。神木脇の神灯に「元文二丁巳天正月吉日 下総国葛飾郡前林村本願主」と刻む。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]取手市小文間

中妻なかづま地区に鎮座。旧村社。祭神経津主神。嘉暦二年(一三二七)下総国香取郡の住人香取孫兵衛が下総国一宮香取神宮(現千葉県佐原市)を分祠したもので、その子孫利右衛門は香取姓を名乗ることを避け、近くの池にちなんで小池を姓として中妻に永住したと伝えられる。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町一ノ谷

妙安みようあん寺の南に鎮座。祭神経津主命。旧村社。神明造の木造鳥居などがある。宝永三年(一七〇六)の指出帳(長野監治文書)には「一香取社地、壱ケ所、境内八反歩程、是ハ寺・名主・惣百姓、支配致来リ申候」とある。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]総和町上砂井

上砂井かみいさごい集落西北の広大な平地林の中に鎮座。鳥居の献額に「香取大明神」とある。祭神経津主命。旧村社。石鳥居に「文政六年 下総国葛飾郡上砂井邑」と刻み、拝殿脇の「雷電神」碑には寛政七年(一七九五)の銘を刻む。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]境町大歩 宮内

大歩わごのほぼ中央に鎮座。境内は林に囲まれ、外部から社殿は見えない。祭神経津主命。旧村社。本殿は神明造瓦葺二間四面。拝殿正面の献額に「正一位香取大明神」とあり、参道の東の大きな庚申塔に「貞享丁卯年十月、奉造立庚申供養塔、下総国猿嶋郡大歩村」と刻む。

香取神社
かとりじんじや

[現在地名]岩井市小山 前田

地蔵院の南に鎮座。祭神経津主命。旧村社。創立は景行天皇の三八年と伝えられるが未詳。本殿造立の棟札写に宝暦三年(一七五三)とある。社伝によると、日本武尊のゆかりの地で、狭島兵衛幸重が文治―建久年間(一一八五―九九)造営し、神田若干を寄進。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報