万代庄(読み)もずのしよう

日本歴史地名大系 「万代庄」の解説

万代庄
もずのしよう

現堺市北部の中央部辺りにあった庄園。江戸時代万代赤畑もずあかはた村・万代高田もずたかだ村・万代西もずにし村・万代百済もずくだら村・万代梅もずうめ村・万代東村万代金口もずかねのくち村・万代夕雲もずせきうん開の八ヵ村を万代庄八ヵ村とよんでいることから、当庄の庄域はほぼこの範囲であったと考えられる。「万代」の初見は宮寺縁事抄(石清水文書)に収める仁平二年(一一五二)六月七日の記録に山城石清水いわしみず八幡宮の末社として「万代別宮」が記されているもので、これが現在、堺市百舌鳥赤畑もずあかはた町にある百舌鳥神社の前身であることは間違いなく、平安時代末頃には百舌鳥の地名が「万代」と表記されたことが知られる。万代庄の初見は藤原経光の日記「民経記」天福元年(一二三三)四月二八日条に「自北白川院被申万代庄下司職事、大殿被申仰」とみえる記事で、当庄が皇室領の北白川院領であり、当庄の所務に関与していたと思われる藤原経光が、当庄下司職に関して大殿(前関白九条道家)の指示を仰いだことがうかがわれる。また万代別宮の支配は鎌倉時代にも引継がれていて、建治二年(一二七六)一〇月には年貢米三〇〇石が石清水八幡宮に納入されている(同月一九日「宮寺年貢米検納証文」石清水文書)。延元元年(一三三六)一一月一八日に南朝方の和泉国司と推定される四条隆貞が袖判をした宛行状(松尾寺文書)を天野山金剛こんごう(現河内長野市)僧実弁に発しているが、それによると和泉国御家人と思われる横山平三左衛門入道観心がもと知行していた所領名田や所職のうち万代庄内信増職分を知行するよう命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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