改訂新版 世界大百科事典 「高野山文書」の意味・わかりやすい解説
高野山文書 (こうやさんもんじょ)
高野山金剛峯寺ならびに山内の各子院に伝来した古文書の総称。このうち最も重要なものが宝簡集,続宝簡集,又続(ゆうぞく)宝簡集と呼ばれる文書群で,宝簡集54巻692通,続宝簡集77巻・6帖831通,又続宝簡集167巻・9帖1979通からなっている。これらは,御影堂宝庫に納められていた古文書のうちから江戸時代に主要なものを選び出して順次成巻(成帖)されたもので,巻子の表装はまちまちであるが,なかには豊臣秀吉の高野詣の際に演じられた能の衣装の裂地を使用したと伝える優美なものもある。正文では1115年(永久3)の文書,案文では992年(正暦3)の文書を最古とし,江戸時代の1743年(寛保3)までの文書を収めるが,時代的には鎌倉時代が一番多く,ついで南北朝・室町時代となっており,平安時代と戦国時代はわりあい少ない。内容的には寺領に関するものが大半を占めており,紀伊国の官省符,荒川,名手,神野真国,志富田,阿氐河(あてがわ),南部の各荘,および備後国大田荘,和泉国近木(こぎ)荘に関係するものが多い。このほか,朝野の信仰を物語る願文・寄進状,堂塔や諸行事に関するものも多く,高野山領荘園の研究はもとより,高野山史研究の基本史料となっている。また,諸官庁や公家・武家の発給文書から土地売券にいたる古文書学上の諸様式がほぼそろっており,西行や源義経の自筆書状,あるいは阿氐河荘百姓等のたどたどしいかな書きの申状など稀覯(きこう)の文書も少なくない。これら3種の宝簡集の大部分は,《大日本古文書 家わけ第一 高野山文書》として明治末年に公刊されている。
高野山内には,このほかに御影堂文書,勧学院文書などの本寺関係文書,あるいは金剛三昧院,宝寿院,正智院,西南院などの子院文書が多数伝来している。これらのごく一部が中田法寿編《高野山文書》に,金剛峯寺文書(勧学院文書),金剛三昧院文書,旧学侶方一派文書(五坊寂静院,高室院,持明院,清浄心院,西南院文書など),旧行人方一派文書(興山寺,安養院,蓮華定院,西門院文書など)として収められ,高野山文書刊行会から公刊されたが,太平洋戦争の勃発によって中絶した。このため,現時点では《高野山文書》の全貌はつかみがたく,金剛峯寺当局によって古文書の整理・公開が一日も早く実現されることを期待するほかはない。ただし,近年公刊された和歌山県下の地方史誌には御影堂文書,勧学院文書の一部を収録しているものがあり,なかでも《かつらぎ町史 古代中世史料編》には,官省符荘と志富田荘の室町時代の検地帳,分田支配帳などの土地台帳をかなり多く収めている。なお,《高野山文書》で寺外に流出したものは少ないが,《和歌山県史 中世史料2》に収録された飛見家文書はやや点数のまとまった流出文書である。このほか,中世の古文書の数十倍,数百倍にものぼる近世文書が山内に伝来するといわれるが,その大部分が未整理・未公開の現状にあり,内容等を記述することができない。
執筆者:小山 靖憲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報