朝日日本歴史人物事典 「万里小路充房」の解説
万里小路充房
生年:永禄5.6.24(1562.7.25)
安土桃山・江戸時代初期の公家。贈内大臣勧修寺晴右の子。母は武田被官栗屋右京亮元隆の娘。天正1(1573)年権中納言万里小路輔房の没後,同家を相続する。17年参議,文禄3(1594)年権中納言,慶長4(1599)年権大納言となる。7年従二位に昇進するが10年出家。出家後も後水尾天皇の近臣として行動。徳川和子(のちの東福門院)入内が翌年に内定していた元和4(1618)年,天皇の寵愛を受けていた大納言四辻公遠の娘およつが皇女梅宮を産むという,「およつ御寮人」事件がおこり,翌5年9月18日,天皇の不行跡は近臣の不品行の影響として幕府より譴責される。充房は丹波篠山に,四辻季継,藪嗣良らは豊後に配流となった。翌6年6月赦されて帰洛。<参考文献>辻達也他編『日本の近世2 天皇と将軍』
(母利美和)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報