万里小路充房(読み)までのこうじ・あつふさ

朝日日本歴史人物事典 「万里小路充房」の解説

万里小路充房

没年:寛永3.9.12(1626.10.31)
生年永禄5.6.24(1562.7.25)
安土桃山・江戸時代初期の公家。贈内大臣勧修寺晴右の子。母は武田被官栗屋右京亮元隆の娘。天正1(1573)年権中納言万里小路輔房没後,同家を相続する。17年参議,文禄3(1594)年権中納言,慶長4(1599)年権大納言となる。7年従二位に昇進するが10年出家。出家後も後水尾天皇近臣として行動。徳川和子(のちの東福門院)入内が翌年に内定していた元和4(1618)年,天皇寵愛を受けていた大納言四辻公遠の娘およつが皇女梅宮を産むという,「およつ御寮人」事件がおこり,翌5年9月18日,天皇の不行跡は近臣の不品行の影響として幕府より譴責される。充房は丹波篠山に,四辻季継,藪嗣良らは豊後に配流となった。翌6年6月赦されて帰洛。<参考文献>辻達也他編『日本近世2 天皇と将軍

(母利美和)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「万里小路充房」の解説

万里小路充房 までのこうじ-あつふさ

1562-1626 織豊-江戸時代前期の公卿(くぎょう)。
永禄(えいろく)5年6月24日生まれ。勧修寺晴右(かじゅうじ-はれすけ)の子。万里小路輔房(すけふさ)の跡をつぎ,天正(てんしょう)17年参議兼左大弁。のち権(ごんの)大納言,従二位。慶長10年の出家後も後水尾(ごみずのお)天皇の近臣としてつかえる。元和(げんな)5年宮中の風儀の乱れを理由に四辻季継(すえつぐ)らとともに幕府により丹波篠山(ささやま)に流されたが,翌年ゆるされた。寛永3年9月12日死去。65歳。

万里小路充房 までのこうじ-みつふさ

までのこうじ-あつふさ

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「万里小路充房」の解説

万里小路充房 (までのこうじあつふさ)

生年月日:1562年6月24日
安土桃山時代;江戸時代前期の公家
1626年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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