改訂新版 世界大百科事典 「三潴荘」の意味・わかりやすい解説
三潴荘 (みづまのしょう)
筑後国(現,福岡県南部)の荘園。荘域は令制の三潴郡全域すなわち現三潴郡と大川,久留米,筑後,柳川各市の一部におよぶ。立荘の時期,由来は不明。平安末期には宝荘厳院(ほうしようごんいん)を本家,四条家を領家として年貢米600石,綿411両を貢進した。鎌倉初期に一時和田義盛が地頭に補任されたが,後期には一部が元寇の恩賞地として肥前の山城氏,白魚氏などに給されたため,在地領主との間に深刻な対立を生みだした。南北朝期の1347年(正平2・貞和3),東寺供僧の琳豪が本家得分として毎年米15石,代銭15貫文の進納を請け負い,現地に下向してその督促にあたるが,在地では地下人の押妨(おうぼう),鎮西管領一色氏による兵粮料所の設定や,足利直冬らによる恩賞地宛行が相次ぎ,その遂行は困難を極めた。他方,領家の四条隆資(たかすけ)は南朝に家領の維持を請うなど,内乱は本荘の崩壊に拍車をかけた。82年(弘和2・永徳2)ころ領家は鷲尾家に移り,戦国期の1492年(明応1)まで同家の領家職保有が確認されるが,当時本荘は守護大友氏の領国支配下にあり,その実質支配は消滅していたものと思われる。
執筆者:大城 美知信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報