三遊亭万橘(読み)サンユウテイ マンキツ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「三遊亭万橘」の解説

三遊亭 万橘(初代)
サンユウテイ マンキツ


職業
落語

本名
岸田 長右衛門

別名
前名=南桂舎 和朝,三遊亭 万朝

生年月日
弘化4年

出生地
江戸(東京都)

経歴
父は鳥取藩お抱えの人足元締。幼少時から落語を好み、素人連をつくってその真打となり南桂舎和朝の名で万長亭の高座に上がる。のち初代三遊亭円朝に入門、万朝と名乗る。明治10年代に2代目三遊亭円橘門下となり万橘となる。赤手拭いの頬かぶりに赤地の扇子ヘラヘラ節なる他愛ない唄と踊りで爆発的な人気を得る。ヘラへラ坊の異名でステテコの円遊、釜掘りの談志、ラッパの円太郎と並び“珍芸四天王”と称された。16年7月大阪へ下り、以後大阪を中心に上方で活躍。ここでも大人気を博す。18年頃いったん帰京するが以前ほど人気が出ず、24年頃再び旅興行に出る。

没年月日
明治27年 5月26(27)日 (1894年)


三遊亭 万橘(3代目)
サンユウテイ マンキツ


職業
落語家

本名
吉沢 国太郎

別名
前名=三遊亭 新右

生年月日
慶応3年 11月10日

経歴
初め勇車と名乗り明治24年初高座を踏んだといわれるが、その頃の詳細は不明。のち初代三遊亭円右の門人となり、新右から37年頃3代目万橘を襲名。持ち前の美声の音曲で「掛取万歳」などを得意とした。長年初代円右のひざがわりをつとめ、若手面倒見もよかった。円右没後は睦会や柳家三語楼の落語協会などで用いられ、一時ラジオでも活躍。晩年は不遇で、神田水道橋から投身自殺をはかり、その数日後に亡くなった。

没年月日
昭和12年 11月2日 (1937年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三遊亭万橘の言及

【落語】より

…円朝と並ぶ人情噺の名手初代柳亭(談洲楼(だんしゆうろう))燕枝(えんし),やはり人情噺をよくした3代麗々亭柳橋(れいれいていりゆうきよう)(のち春錦亭柳桜(しゆんきんていりゆうおう))(1835‐97),芝居噺の名手6代桂文治,花柳物の名手4代桂文楽,落し咄,人情噺ともによくした2代古今亭志ん生,滑稽噺の2代柳家(禽語楼(きんごろう))小さんなどがそれだった。異彩を放ったのは,〈ステテコ踊り〉の,俗に初代ともいう3代三遊亭円遊,鉄道馬車のラッパを吹く音曲師4代橘家(たちばなや)円太郎(?‐1898),〈郭巨(かつきよ)の釜掘り踊り〉の4代立川談志(?‐1889),〈ヘラヘラ踊り〉の三遊亭万橘(まんきつ)(?‐1894)という〈寄席四天王〉で,彼らは珍芸を売物にして人気を博した。珍芸流行の原因は,当時,東京市内が明治に入って最大の不況に見舞われ,特別に珍奇な芸でなければ客が呼べないという事情もあったが,時流からみれば,明治になって東京に集まって来た,寄席になじみのない新しい客層を開拓する手段であり,それは,江戸時代以来の続き物の人情噺が歓迎されなくなってきたことの証明でもあった。…

※「三遊亭万橘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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