上御領村
かみごりようむら
八尋村の北に位置し、東は備中国。古代山陽道が通る。御領は年不詳(天文期か)一一月一九日付鼓又二郎宛の山名理興感状(三吉鼓文書)に「任本意、以五領内拾貫可遣候」とみえ、さらに永禄三年(一五六〇)八月一九日付法鐘(道)寺宛の杉原盛重寄進状(法道寺文書)に「為寺領以御領之内拾貫之辻相計也、任坪付旨、可有裁判者也」、天正一〇年(一五八二)一一月一九日付宝童寺宛の給地坪付(三宅文書)に「御領村下分」、同一二年九月一八日付法道寺宛の一志局書状(法道寺文書)に「大ミねきしん申候、神辺そうひなくニおいてハ、五りやうむら晩分、そうひなくきしん申へく候」、同一五年九月二八日付三戸藤左衛門尉宛の給地打渡坪付(「防長風土注進案」所収)に「上御領」、毛利氏支配時代の年不詳五組衆再検高付立(山口県文書館蔵)に「一、八百六拾弐石八斗三舛 上御領」御再検分として「千四百弐拾八石八斗六舛八合 同所」などとみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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