深安郡(読み)ふかやすぐん

日本歴史地名大系 「深安郡」の解説

深安郡
ふかやすぐん

面積:五六・四六平方キロ
神辺かんなべ

明治三一年(一八九八)深津ふかつ郡・安那やすな郡が合併し、成立した郡。現在は一郡一町で、郡域はすべて旧安那郡に属す。県の東南部に位置し、東は岡山県井原いばら市、北・西・南は福山市に囲まれる。高屋たかや川およびその支流が流れて神辺平野を形成している。なお深津郡は養老五年(七二一)安那郡から割置されたものである(続日本紀)

〔原始・古代〕

下御領しもごりように縄文時代後期の神辺御領遺跡、弥生後期の御領遺跡・備後国分寺遺跡、道上みちのうえに弥生前期―中期の亀山かめやま遺跡、川南かわみなみに弥生後期のナメラ遺跡、湯野ゆのに弥生前期―中期の大宮おおみや遺跡などがあり、古墳西中条にしちゆうじように前期の国成くになり古墳、下御領に同時期の表山おもてやま古墳、下竹田しもたけだに後期の永谷ながたに古墳群、西中条に同時期の大坊だいぼう古墳などがあって、平野の縁辺部を中心に古くから開けていたことがわかる。

「日本書紀」崇神天皇一〇年九月条に四道将軍の一人として西道(山陽道)吉備津彦が派遣されたことがみえ、「国造本紀」によると、備後南部地方の国造と推定されるものに吉備穴国造がおり、景行天皇の時、彦訓服命の孫八千足尼が任命されている。「日本書紀」安閑天皇二年五月条によれば、婀娜あな国に「胆殖屯倉、胆年部屯倉」が置かれている。史実かどうかは別として当地にかかわるものであろう。奈良時代の寺院跡として西中条に小山池こやまいけ廃寺跡、下御領に備後国分寺跡、道上に中谷なかたに廃寺跡、上竹田に川谷かわたに遺跡、東中条に秀工地しゆうくじ遺跡などがあり、古代の山陽道が神辺平野の北縁辺の山麓を東西に走り、安那駅(「延喜式」兵部省)を西中条の藤森ふじもり付近に所在比定する説が有力である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報