備中国(読み)ビッチュウノクニ

デジタル大辞泉 「備中国」の意味・読み・例文・類語

びっちゅう‐の‐くに【備中国】

備中

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日本歴史地名大系 「備中国」の解説

備中国
びつちゆうのくに

古代

〔国の成立〕

吉備国を分割することによって成立した令制国で、確実な史料上の初見は「続日本紀」文武天皇元年(六九七)閏一二月七日条であるが、「日本書紀」天武天皇二年(六七三)三月一七日条に「備後」の国名がみえ、前年の壬申の乱の直後に吉備国が分割された可能性が強い(→備前国。「和名抄」には「吉備乃美知乃奈加」の訓がある。都宇つう窪屋くぼや賀陽かや下道しもつみち浅口あさくち小田おだ後月しつき哲多てつた英賀あがの九郡からなり、「延喜式」によれば国の等級は上国で、京との関係からは中国に位置づけられていた。中世には賀陽郡の北部を割いて上方じようぼう(房)郡、下道郡の北部を割いて川上かわかみ郡が成立し、以後は一一郡となって明治に及ぶ。東は美作国・備前国、北は伯耆国、西は備後国に接し、南は瀬戸内海に面する。現在の岡山県西部にあたり、高梁たかはし川水系と足守あしもり川水系の地域で、その南東の平野部は古代吉備の中心的位置を占めた。

〔首長と古墳〕

古墳時代に入ると、弥生時代中期に墳丘墓を営んでいた首長たちは、大和に発生した墓制である前方後円(方)墳を受容して古墳を造営する。古墳時代前期の備中地域には河川流域を単位とした約一〇の古墳群を営む首長勢力の存在を想定でき、それぞれに弥生墳丘墓との継続関係を検出することができる。一〇〇メートル級の大古墳を営んだ首長勢力としては、小盛山こもりやま古墳(二段築成の円墳)佐古田堂山さこだどうやま古墳(前方後円墳)を中心とした足守川中流東岸地域、造山つくりやま古墳(全長約三五〇メートルの前方後円墳)千足せんぞく古墳(以上岡山市、全長約七五メートルの帆立貝式前方後円墳)などの陪冢群のほかに、小造山こづくりやま古墳(総社市・岡山市、全長一四〇メートルの前方後円墳)などを営んでいる足守川下流西岸地域、作山つくりやま古墳(総社市、全長二八六メートルの前方後円墳)や、宿寺山しゆくてらやま古墳(都窪郡山手村、長軸の長さ約一二〇メートル、周囲に湟の痕跡をとどめる前方後円墳)などを営んだ旧高梁川分流以南の地域などはその代表的なものである。このほか新本しんぽん川流域、小田川下流域と上流域、備中川上流地域にも弥生墳丘墓と関係の深い五〇メートル級の前期古墳群が営まれている。

右のような古墳のなかで注目されるのは、全国的に第四位の規模をもつ造山古墳と第九位の作山古墳で、これほどの規模をもつ古墳は近畿以外に存在しない。両墳は当時の吉備勢力の総力をあげて造営された最高首長の墳墓であったとみてよい。だが両墳が五世紀前半期を中心とした時期に築かれ、五世紀後半の小造山古墳や宿寺山古墳が、一〇〇メートル以上ではあるが規模が縮小していることは注目に値する。

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改訂新版 世界大百科事典 「備中国」の意味・わかりやすい解説

備中国 (びっちゅうのくに)

旧国名。現在の岡山県の西部。

山陽道に属する上国(《延喜式》)。7世紀後葉の天武朝ころに吉備国が分割されて備前,備中,備後となった。都宇(つう),窪屋(くぼや),賀夜(かや),下道(しもつみち),浅口(あさくち),小田(おだ),後月(しつき),哲多(てた),英賀(あか)の9郡からなる。国府は遺存地名から総社市金井戸地区と推定され,国分寺,国分尼寺は発掘調査によって総社市上林に隣接して建立されたことが確認された。国内を山陽道が東西に貫通し,東から津峴(つさか),河辺,小田,後月(しちつき)の4駅がおかれた。

 吉備は畿内地域とならぶ古代の先進地帯で,備中南部には巨大古墳が多い。すでに弥生終末期に径約50m,高さ約5mの楯築(たてつき)墳丘墓があるが,5世紀代には墳丘長約350mで全国第4位の前方後円墳である造山(つくりやま)古墳,約270mで第13位の作山(つくりやま)古墳などがとくに著名である。これらは吉備地域全体の盟主的地位を占めた最高首長の墳墓であろう。《日本書紀》雄略7年8月条に,吉備下道臣前津屋(さきつや)が王権奪を意図した反乱を試みようとしたが,雄略の先制攻撃によって失敗したという伝承がある。さきの古墳規模からすると,この伝承に一定の歴史的事実を認めうるようである。6世紀代には王権による吉備進出がすすみ,王権の直轄地である県(あがた)として川島,波区芸(はくぎ)があり,原始的官僚である国造(くにのみやつこ)に下道臣,賀夜臣,笠臣などの有力氏族も組織され,中央権力の直轄地である屯倉(みやけ)については,《日本書紀》安閑2年5月条に備後国の屯倉としてあげる後城(しつき),多禰(たね),来履(くくつ)などは備中のものではなかったかとも考えられている。また,部民分布がきわめて濃密であることも,王権の吉備進出と関係する。奈良時代に中央で活躍した吉備真備(きびのまきび)はもと下道姓で備中に本貫をもつ。備中の古代を考える重要な史料としては,739年(天平11)〈備中国大税負死亡人帳〉があり,断簡であるが賀夜,都宇,窪屋郡の氏族分布を考える根本史料である。塼(せん)に陰刻された763年(天平宝字7)の矢田部益足買地券は道教思想の普及状況を知る貴重なものである。また国府の北方の山塊に営まれた巨大な朝鮮式山城である鬼ノ城(きのじよう)(総社市奥坂)は,おそらく白村江の敗戦後に造営された山城の一つであろう。式内社としてはとくに吉備津神社が有名である。
執筆者:

平氏が瀬戸内海の海賊的土豪を勢力下に収めて台頭したころ,備中の土豪の多くが平氏の忠実な家人となったのは備前と同様で,とくに《平家物語》にみえる瀬尾兼康(せのおかねやす)は,備中国都宇郡妹尾郷(現,岡山市南区妹尾)を本拠とした武士で,備前の難波二郎経遠・三郎経房兄弟らとともに平氏の有力な家人であった。鹿ヶ谷の陰謀の主謀者藤原成親(なりちか)が備前児島に流され,最後には備前・備中の境,有木(ありき)の別所(べつしよ)に移されてここで殺されたのも,この付近に平氏の有力な家人が多かった証拠である。

 瀬尾兼康・宗康父子が源義仲軍と戦って討死したように,備中の平氏与党の武士たちの多くが平氏に殉じたあとには,大量の関東武士がこの地に地頭職を与えられて入部した。川上郡穴田郷の赤木氏,のちに備中を代表する国人になる三村氏,小田郡草壁荘の荘氏,後月郡荏原荘の那須氏などは,本補(ほんぽ)地頭ないし新補地頭として入部した関東御家人である。守護は初め土肥実平が備前,備中,備後3ヵ国を兼ねたが,その後の沿革は明らかでない。1279年(弘安2)には北条得宗(とくそう)家が守護職をもっており,以後鎌倉末期まで続いたらしい。南北朝期に空白になった守護に,南遠江守宗継,高(こう)越後守師秀,宮下野守兼信,渋川義行,同満頼らが交代して補任されたが,1392年(元中9・明徳3)に細川満之が守護に任ぜられてからは,頼重,氏久,持常,勝久,之持,政春とその子孫が守護職を継承して戦国期に及んだ。細川氏の下で守護代に任じたのは荘,石川両氏であるが,守護家の勢力が衰えると,両守護代家や国人三村氏の勢力が台頭して本格的な戦国乱世を迎える。

 中世の荘園としては,東寺領新見(にいみ)荘,神護寺領足守(あしもり)荘,南禅寺領三成(みなり)荘,安楽寿院領駅里(はゆまや)荘,相国寺領大井荘などが知られ,ほかに東福寺領上原(かんばら)郷,吉備津宮領隼島(はやしま)保,新熊野社領佐方(さかた)荘,万寿(ます)荘,多気(たけ)荘,長講堂領巨瀬(こせ)荘,六条院領大島保ほかの多くの荘園があり,皇室領荘園が多いのが目だつ。なかでも新見荘はもと本所職(ほんじよしき)を最勝光院(領家職は官務家小槻(おづき)氏)とする皇室領で鎌倉末期に東寺に寄進された荘園であるが,その関係文書の多いことでは東寺領播磨国矢野荘と双璧をなし,とくに1271年(文永8)の領家方正検帳,1325年(正中2)の地頭方実検取帳が案文(写し)ではあるがそろっている点は貴重であり,また筆まめな寺家の直務(じきむ)代官祐清(ゆうせい)や田所金子衡氏(かなごひらうじ)(もと安富氏の被官古屋弾正左衛門尉衡氏)の多数の詳細な書状が〈東寺百合(ひやくごう)文書〉に含まれていて,解体期荘園の苦難に満ちた実情をよく示してくれる。

 中世備中の名産としては《庭訓往来(ていきんおうらい)》に〈備中鉄〉があげられており,備中青江には青江鍛冶と呼ばれる刀鍛冶がいた。吉岡銅山は日本有数の銅山として知られ,山間部では紙生産が盛んで,鎌倉末期ごろから〈備中檀紙(だんし)〉の名が高かった。吉備津宮(神社)の神領阿曾郷(現,総社市西阿曾)の鋳物師(いもじ)は,吉備津宮の釜や梵鐘の鋳造に奉仕したが,その優秀な技術から〈備中鍬〉をも生産した。浅口郡を中心とする沿岸部では,古代以来,塩が生産されたが,備前児島や小豆島の製塩にはとうてい及ばない。

 吉備津宮は備中一宮として衆庶の尊崇を集めたが,その放生会(ほうじようえ)大頭役は諸荘保地頭御家人たちが巡年奉仕する国中無双の重役で,またその流鏑馬(やぶさめ)役は諸郷地頭御家人に割りあてられる例であった。臨済宗を日本に伝えた栄西は,吉備津宮の神主賀陽(かや)氏の出身である。画僧雪舟は大井荘赤浜(現,総社市)の出身で,年少のころ近くの井山(いやま)宝福寺で小僧生活を送ったという。宝福寺は臨済宗東福寺派の名刹として知られる。
執筆者:

戦国期には備中の西方より毛利氏,北方より尼子氏が侵入し,さらに末期には備前の宇喜多氏も備中東部を侵した。これらと備中の在地勢力たる荘,石川,三村氏らとの間に,備中支配をめぐって角逐が繰り返されたが,1570年代には一応毛利氏の配下におかれた。ついで1582年(天正10)羽柴(豊臣)秀吉の高松城水攻めのあと,備中西半は毛利氏,東半は宇喜多氏の所領とされた。ところが1600年(慶長5)関ヶ原の戦の結果,宇喜多氏は没落し毛利氏は防長2国に後退したので,幕藩体制下では小藩小領主が複雑に分立することになった。当国のことについて《人国記》は,備前より〈山入遥に深し寒暑同前なり〉とし,その風俗を〈都て意地つよし,上下男女ともに勇気ありて,義理を励ます意常に有。されともふてきなる心ゆへに,道理に不当事おほし〉と記すが,当国の歴史的風土の特性をかなり示唆したものであろう。

 約35万石の備中国の幕藩体制下での支配形態は,比較的に山がちの分断的な地勢と,戦国末期における諸勢力角逐の余波などによって,統一支配が阻まれて必然的に分権的となったものと思われる。まず,小堀正次は関ヶ原の戦では徳川氏に仕えたので,旧知行のほか備中国内で1万石加増され,備中代官として松山城に入って国務を沙汰することになり,その子政一(遠州)も備中代官として松山に在城したことがある。ついで鳥取城主池田長幸が1617年(元和3),6万5000石を領して松山に入城して松山藩を立藩した。その後,水谷(みずのや)氏(5万石),安藤氏(6.5万石),石川氏(6万石)を経て,1744年(延享1)以降は板倉氏(5万石)が襲封し,維新時の藩主勝静(かつきよ)は老中の一人として活躍した。

 関ヶ原の戦直後に立藩したものに浅尾,足守,庭瀬の諸藩がある。浅尾藩は賀陽郡浅尾(総社市)に陣屋をもつ1万石の外様小藩で,1600年新封された蒔田(まいた)広定が初代藩主で,2代以降は分知して旗本となり,1863年(文久3)広孝のとき1万石に高直しされて諸侯に列して立藩した。なお蒔田氏は参勤交代をしない定府大名である。足守藩は賀陽郡足守(岡山市)に陣屋をもつ2万5000石の外様小藩で,1601年秀吉正室ねねの実兄である木下家定が立藩した。のち一時幕領,私領となったが,15年家定の子利房が藩主に返り咲き,以後11代256年同氏が在封した。庭瀬藩は賀陽郡庭瀬(岡山市)に陣屋をもつ小藩で,1600年宇喜多氏の旧臣戸川逵安(みちやす)(外様)が2万9000石を領して立藩したが,4代で無嗣絶家となって一時廃藩となった。その後,久世重之,松平信通が入封したがいずれも間もなく移封し,99年(元禄12)板倉重高が2万石で入封し,以後譜代11代170年在封した。

 1615年に立藩した岡田藩は,下道郡岡田(倉敷市の旧真備町)に居所をもつ1万石の外様極小藩で,初代藩主は伊東長実で以後10代256年在封した。17年山崎家治が3万石を領して川上郡成羽(なりわ)に陣屋をもって立藩した成羽藩は外様小藩。家治は間もなく移封し39年(寛永16)水谷勝隆が5万石を領して入封したが,42年備中松山に移ったので廃藩となった。58年(万治1)より交代寄合の山崎氏(元藩主の分家)が5000石で成羽に陣屋を構えていたが,1868年(明治1)1万石余に高直しされ再び立藩した。さて,1672年(寛文12)岡山藩主池田光政は,その子政言(まさこと),輝録(てるとし)にそれぞれ備中国内で2万5000石,1万5000石を分与したが,これが岡山藩支封の外様小藩としての鴨方(かもがた),生坂(いくさか)両藩である。97年森長継が2万石を与えられて,後月郡西江原(井原市)に居所を構えて立藩した西江原藩は,外様小藩で1706年(宝永3)移封で廃藩となり,1698年阿賀郡新見を居所として,関長治が1万8000石を領して立藩した新見藩は,外様小藩ながら9代170年余在封した。

 このほか,備中国内の天領支配のため倉敷代官所が1642年に,笠岡代官所が1700年にそれぞれ設置され,備中南部の早島,帯江,撫川(なつかわ),妹尾,高松などには,戸川氏,花房氏などの旗本知行所が置かれていた。ちなみに,上記の諸藩は1871年廃藩置県でそれぞれ立県し,翌5年深津(のち小田)県の管下に入り,75年岡山県に合併された。

 備中の中央を南北に貫流する高梁川の本支流は,高瀬舟によって交通運輸の重脈の機能を果たし,河口周辺は水谷氏などによって新田,塩田が開発された。主要特産は和牛(千屋牛),鉱産(たたら製鉄,吉岡銅山),和紙(備中檀紙),南部平野の綿花,藺草(いぐさ),瀬戸内の塩業および真鍋島周辺の漁業など多彩である。藩治で注目されるのは松山藩主水谷氏による検地,土木事業,1717年(享保2)岡山藩の新本義民騒動,松山藩主板倉勝静が山田方谷を登用して断行した藩政改革などがあり,足守藩出身の蘭学の大家緒方洪庵や,幕末民衆宗教の金光教も特記しておく。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「備中国」の意味・わかりやすい解説

備中国
びっちゅうのくに

岡山県の西部の旧国名。西は備後(びんご)、北東は美作(みまさか)、南東は備前(びぜん)、北は伯耆(ほうき)に接し、南は瀬戸内海に臨む。古代吉備(きび)文化の中心で造山(つくりやま)古墳、作山(つくりやま)古墳など巨大古墳が多く、弥生(やよい)後期の墳墓楯築(たてつき)遺跡も発見されている。天武(てんむ)朝(672~686)のころ吉備国は備前・備中・備後に分割されて備中国が成立した。大化改新(645)前後から吉備豪族はやや衰えたが、なお吉備津宮の宮司、諸郡の郡司として勢力を地方に温存した。当時備中には都宇(つう)、窪屋(くぼや)、浅口(あさくち)、小田(おだ)、後月(しつき)、下道(しもつみち)、賀夜(かや)、英賀(あか)、哲多(てた)の9郡が置かれたが、鎌倉時代のころ下道郡の北部を割いて川上郡が、賀夜郡の北部を割いて上房(じょうぼう)郡が新設され11郡となった。『和名抄(わみょうしょう)』によると、備中の水田面積は1万0227町8反252歩。国府は賀夜郡の現総社(そうじゃ)市金井戸付近に置かれ、一宮(いちのみや)は同郡の現岡山市北区吉備津(きびつ)の吉備津宮、国分寺は同郡の現総社市上林(かんばやし)の地に建立された。

 鎌倉時代には、関東武士が守護・地頭(じとう)として来住したが、鎌倉中期以後は執権北条氏の得宗領となった。鎌倉初期、東大寺大勧進重源(だいかんじんちょうげん)が吉備津に常行堂や阿弥陀(あみだ)堂を建て浄土信仰を広めた、南北朝のころは多くの守護が交代したが、1392年(元中9・明徳3)南北朝合一のころ細川満之(みつゆき)が守護となり、以後戦国時代まで細川氏が世襲した。鎌倉時代に臨済宗の栄西(えいさい)、室町時代に水墨画の雪舟(せっしゅう)が現れた。鎌倉・室町のころ、東寺領新見荘(にいみのしょう)、神宮寺領足守(あしもり)荘、新熊野神社領万寿(ます)荘、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)領水内(みのち)荘、長講堂領巨勢(こせ)荘、南禅寺領三成(みなり)荘、相国(しょうこく)寺領大井荘など多くの荘園が設けられた。備中の特産物には、野馳(のち)郷、神代(かむしろ)郷の鉄があるが、南北朝以後は吹屋(ふきや)の銅(どう)、広瀬の備中檀紙(だんし)が有名となった。

 1582年(天正10)羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の備中高松攻めののち、備中は東西に分割され、東は宇喜多(うきた)氏、西は毛利(もうり)氏の支配に属したが、両氏ともに関ヶ原の戦いで豊臣方に属し、備中は徳川氏に没収され、改めて幕領と私領に分割された。私領は松山藩(池田、水谷(みずのや)、安藤、石川、板倉氏)、成羽(なりわ)藩(山崎氏)、足守藩(木下氏)、新見藩(関氏)、岡田藩(伊東氏)、浅尾藩(蒔田(まきた)氏)、庭瀬(にわせ)藩(戸川、板倉氏)の諸藩や他領諸藩の飛び地、旗本領が錯綜(さくそう)し、細かく分割されていた。北部の特産物は煙草(たばこ)、備中(千屋(ちや))牛、紙、銅、弁柄(べんがら)、南部の特産物は繰綿(くりわた)、綿織物、畳表で、玉島港・笠岡(かさおか)港はその積出し港として栄え、倉敷は備中幕領代官所として発展した。玉島・倉敷には豪商が多く、文人・墨客が往来した。

 廃藩置県後、備中と備後の一部をあわせて深津県が置かれたが、1872年(明治5)備後を離し、備中をもって小田県としたが、1875年岡山県に統合された。

[柴田 一]

『谷口澄夫著『岡山県の歴史』(1970・山川出版社)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「備中国」の解説

びっちゅうのくに【備中国】

現在の岡山県西部を占めた旧国名。古く吉備(きび)国から備前(びぜん)国(岡山県東南部)、備中国、備後(びんご)国(広島県東部)に分かれた。当地は古代吉備国の中心を占め、造山(つくりやま)古墳、作山(つくりやま)古墳などの巨大古墳が築造された。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府は現在の総社(そうじゃ)市金井戸(かないど)、国分寺は同市上林(かんばやし)におかれていた。鎌倉時代初頭に関東武士が多く移住したが、中期以後に北条氏の領地となった。14世紀末に細川氏守護となり、戦国時代まで支配した。江戸時代には、松山藩、足守(あしもり)藩などの小藩と、幕府直轄領、大名・旗本領が分立した。1871年(明治4)の廃藩置県深津(ふかづ)県となり、翌年に小田(おだ)県と改称、1875年(明治8)に岡山県に統合された。◇備前国、備中国、備後国を合わせて備州(びしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「備中国」の意味・わかりやすい解説

備中国
びっちゅうのくに

現在の岡山県西部。山陽道の一国。上国。古くは吉備 (きび) 国の一部であったが,天武天皇の頃 (674~685) に備前,備中,備後に分割された。国府は総社市金井戸,国分寺は総社市上林。『延喜式』には都宇 (つう) ,窪屋,賀夜などの9郡,『和名抄』には 71郷,田1万 227町を載せている。鎌倉時代には初め土肥実平が守護となったが,中期以後には北条氏の家督が守護となり,南北朝時代から室町時代にかけては高氏,渋川氏から細川氏が守護として支配した。この間守護代としては荘,石川の両氏がこれにあたった。戦国時代,細川氏が衰えると西から毛利氏,北から尼子氏,のちには備前の宇喜多氏の侵略により戦国争乱の場となったが,一応毛利氏の支配に帰した。しかし豊臣秀吉の中国経営によりこの支配もくずれた。江戸時代には松山 (のちに高梁) の板倉氏,新見の関氏,足守の木下氏,岡田の伊東氏などが封じられて幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,深津県となり,翌5年に小田県と改称,さらに 1875年に岡山県に統合された。

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百科事典マイペディア 「備中国」の意味・わかりやすい解説

備中国【びっちゅうのくに】

旧国名。山陽道の一国。現在の岡山県西部。もと吉備(きび)国。《延喜式》に上国,9郡。国府は現在の総社市と推定される。鎌倉時代に土肥・北条氏,室町時代に細川氏らが守護。戦国期には隣国の毛利・尼子氏らに侵攻され,江戸時代にも小藩に分かれていた。
→関連項目岡山[県]中国地方新見荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「備中国」の解説

備中国
びっちゅうのくに

山陽道の国。現在の岡山県西部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では都宇(つう)・窪屋(くぼや)・浅口・小田・後月(しつき)・下道(しもつみち)・賀夜(かや)・英賀(あが)・哲多(てた)の9郡からなる。国府は賀夜郡(現,総社市)と推定され,国分寺・国分尼寺も賀夜郡におかれた。一宮は吉備津(きびつ)神社(現,岡山市)。「和名抄」所載田数は1万227町余。「延喜式」では調として絹や糸のほか,塩・鉄・鍬がある。古墳時代には畿内に匹敵する規模の古墳が造営され,吉備氏の根拠地であった。7世紀後半に吉備国を前中後に分割して成立。守護は鎌倉時代には土肥氏・北条得宗家,室町時代には細川氏。戦国期には宇喜多氏・尼子氏・毛利氏が覇を競った。江戸時代は幕領・大名領・旗本領など錯綜していた。1871年(明治4)の廃藩置県により深津県に統合され,72年小田県と改称,75年岡山県に合併。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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