日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉顕定」の意味・わかりやすい解説
上杉顕定
うえすぎあきさだ
(1454―1510)
室町後期の武将。享徳(きょうとく)3年越後(えちご)守護上杉房定の次男として生まれる。1466年(文正1)関東管領(かんれい)の山内(やまのうち)上杉房顕が古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)と武蔵(むさし)の五十子(いかつこ)(埼玉県本庄(ほんじょう)市)で対陣中に病没したのち、幕府の命により房顕の遺跡を継ぎ、関東管領となって対古河公方抗争の中心人物となる。執事長尾(ながお)景信の死後、その子景春を差し置いて弟の忠景(ただかげ)を執事に起用したため景春に背かれたが、やがて成氏と和を結び、幕府と成氏との和睦にも発展した。のち扇谷(おうぎがやつ)上杉定正と争い、また伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲(そううん))をも敵としたが、定正の死後しばらくして扇谷上杉氏と和した。しかし、まもなく実弟房能(ふさよし)が長尾為景に攻め殺されたため、憲房とともに越後で為景と戦ったが、永正(えいしょう)7年6月20日同国長森原で敗死した。法名海竜寺可淳皓峯。
[佐脇栄智]