五十子(読み)いかつこ

日本歴史地名大系 「五十子」の解説

五十子
いかつこ

北東流する小山こやま川の左岸、本庄台地の東端一帯とみられる中世の地名。現本庄市東五十子・西五十子付近に比定され、北部を女堀おんなぼり川が流れる。関東管領山内上杉房顕は、享徳の乱を中心とした古河公方足利成氏との攻防に際し、五十子に砦を築いて自ら滞陣し、陣頭指揮をとった。これを五十子陣とよぶ。房顕の五十子下向は長禄三年(一四五九)頃と推定され、「鎌倉大草紙」に「房顕ハ武州五十子といふ所に陣取、成氏衆と対陣して、日々夜々の合戦なり」と記される。五十子は上野の白井しろい(現群馬県子持村)平井ひらい(現同県藤岡市)と武蔵の河越、岩付いわつき(現岩槻市)および江戸を結ぶ対古河公方防衛線のほぼ中央に位置し、利根川に沿って進出する古河公方勢に対する押えにもなった。以後、房顕は五十子に滞陣するが、寛正七年(一四六六)二月一一日に陣没した(同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報