「しゅうし」「しっし」または「しつし」と読まれた可能性があるが、中世の資料(日葡辞書など)から、古くは「しっし」と読まれたと思われる。
日本では公家・武家などの職名としてあった。〈事をとり行う〉ことからおこり,特定の官衙や有力諸家などの事務をつかさどる職名となった。おもなものは次のとおりである。(1)平安初期嵯峨天皇の世に置かれた内豎所(ないじゆどころ)で,別当,頭に次ぐ職。(2)親王,摂政,関白,大臣などの政所(まんどころ)で,家政をとり行う家司(けいし)の長官。(3)院庁の長官,すなわち院別当の首席。大別当とも称せられ,しばしば大臣が兼ね,権勢ある職であった。(4)鎌倉幕府の執権の別称。(5)鎌倉幕府の政所の要職。政所の次官である令を兼ねることが多く,二階堂氏が世襲した。(6)鎌倉幕府の問注所の長官。初代は三善康信。その子孫が世襲した。(7)初期の室町幕府で,将軍を補佐する要職。将軍とともに評定に列し,将軍の所領宛行(あてがい)・寄進などを施行(しぎよう)(伝達し実施させる)した。初代は足利氏譜代の重臣高師直。師直は恩賞方頭人,引付頭人などを兼ねて権勢を振るったが,将軍尊氏の弟で裁判権などをゆだねられた足利直義と対立し,この対立は幕府勢力を二分する観応の擾乱(じようらん)の要因となった。1351年(正平6・観応2)師直が直義方の上杉能憲に殺されたのち,足利一門の仁木頼章,細川清氏,斯波(しば)義将が数年ずつ在職したが,権勢はかつての師直に遠く及ばなかった。67年(正平22・貞治6)細川頼之が幼少の将軍義満を補佐するにいたり,その職掌はそれまでの執事よりもはるかに重要となり,幕府の政務を総轄する職となり,職名もおもに管領と称せられるようになり,やがて執事の称は行われなくなった。(8)初期の室町幕府で,鎌倉御所(関東公方)を補佐する要職。初代は斯波家長。次いで上杉・高の両氏が並んで在職したが,1363年以来もっぱら上杉氏の職となり,管領(関東管領)と称するようになった。(9)室町幕府の政所の長官。初め二階堂氏,のち伊勢氏がほぼ世襲した。(10)室町幕府の問注所の長官。三善氏の子孫町野氏(のち問注所氏という)が世襲した。
執筆者:小川 信
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家政ないし庶務をつかさどる職名。平安初期に朝廷の内豎所(ないじゅどころ)に置かれたのをはじめ、院庁(いんのちょう)、親王(しんのう)・摂関(せっかん)・大臣などの政所(まんどころ)、鎌倉・室町幕府、大寺院などに置かれた。院庁ではその長官で、大別当(だいべっとう)ともよばれ、しばしば大臣が兼ねる要職であった。
鎌倉幕府では、(1)執権(しっけん)の別称。(2)政所の長。政務に参画し、幕府財政などに携わる職で、政所の次官である令(りょう)を兼ねることが多かった。二階堂(にかいどう)氏が世襲。(3)問注所(もんちゅうじょ)の長。三善康信(みよしやすのぶ)が初代で、その子孫の町野(まちの)、太田(おおた)両氏から選ばれた。(4)六波羅探題(ろくはらたんだい)でも問注所の長をいった。
室町幕府では、(1)将軍の政務を補佐する要職。足利尊氏(あしかがたかうじ)は譜代(ふだい)の重臣高師直(こうのもろなお)を任じたが、師直の死後は足利一門の仁木頼章(にきよりあき)を任じ、それ以来一門の職となり、2代将軍義詮(よしあきら)は細川清氏(きようじ)、ついで斯波義将(しばよしまさ)を任じた。幼少の3代将軍義満(よしみつ)を細川頼之(よりゆき)が補佐して執事になると職権は強まり、やがてもっぱら管領(かんれい)とよばれ、執事の呼び名は廃れた。(2)政所の長。初め二階堂氏、佐々木氏などが任ぜられたが、1379年(天授5・康暦1)以来ほぼ伊勢(いせ)氏の世襲となった。(3)問注所の長。前代に続いて町野、太田両氏から任ぜられた。(4)鎌倉公方(くぼう)を補佐する要職。初め斯波家長(いえなが)、ついで上杉、高(こう)両氏が並んで在職したが、1363年(正平18・貞治2)以来もっぱら上杉氏の職となり、やはり執事の呼び名は廃れて、関東管領が職名となった。
[小川 信]
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1院庁(いんのちょう)あるいは摂関家の家政を担当する職。院庁の場合,院別当のなかの上級貴族がその任についた。院政を支える重職。のちに大臣が任じられることから,大別当ともよばれた。摂関家の場合,家司(けいし)のなかの1人が任じられ,執行(しぎょう)家司ともよばれた。
2鎌倉・室町幕府の職名。(1)鎌倉幕府の政所(まんどころ)の別当に次ぐ地位で,おおむね二階堂氏が世襲。(2)室町幕府の政所では執事がその長官で,はじめ二階堂・佐々木・粟飯原(あいはら)の諸氏が就任したが,将軍足利義満のとき以来,伊勢氏が世襲。(3)問注所(もんちゅうじょ)の長官で,鎌倉幕府の初めに三善康信が就任して以来,子孫の町野・太田両氏が相承して室町幕府に及んだ。(4)室町初期における将軍補佐の職。当初は足利氏の家宰(かさい)であった高師直(こうのもろなお)が就任したが,師直の没後は足利一門が任じられた。将軍の親裁権拡大にともない,職権が強化されて幕政全般を統轄する職となり,しだいに管領(かんれい)という呼称が一般化した。(5)鎌倉府にも当初鎌倉公方(くぼう)を補佐する職として関東執事がおかれ,高・上杉・畠山の諸氏が就任した。
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字通「執」の項目を見る。
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…新約聖書のギリシア語ディアコノスdiakonos(執事)に由来するカトリック教会の職名。東方正教会での輔祭に相当する。2世紀初頭,アンティオキアのイグナティオスのころから,司祭と区別された司教を通して神の民に奉仕する教会の職制として確立。司教の按手によって行われる助祭叙階式の最古の式文は,ヒッポリュトスの《使徒伝承》に見られる。その職域は,典礼における奉仕を中心として教会共同体全体,特に福祉的活動に向けられている。…
…新約聖書のギリシア語ディアコノスdiakonos(執事)に由来するカトリック教会の職名。東方正教会での輔祭に相当する。…
…聖職者の起源は必ずしも明らかでなく,またユダヤ教の祭司の権威と職能がどこまでキリスト教に受け継がれたかについても議論がある。すでに新約聖書のなかに監督(エピスコポス),長老(プレスビュテロス),執事(ディアコノス)の名称が見えているが,2世紀はじめのイグナティオスの書簡によれば,この3者がはっきり区別され,主教,司祭,助祭の3聖職の原型が成立していたと考えられる。このうち主教は教区の統轄者,司祭はミサ(聖餐式)を中心とする祭儀の執行者,助祭は主教および司祭の補助者である。…
…院事を総理する別当は,はじめ1~2名にすぎなかったが,しだいに員数が増え,ことに院政開始後は,公卿・殿上人が競って別当になることを望んだので,白河上皇の晩年には20人前後にも達した。これに対処して生まれたのが執行別当(のち執事)・年預別当で,さらに鎌倉時代以降は執権も置かれ,院中の庶政は執事・執権によって運営され,雑事は年預・庁年預(主典代が兼任)によって執行された。(3)の別納所は勅旨田の地子や封戸の納物を収納する所として重視され,主殿所は湯・灯油を供進し,掃部所は清掃・鋪設をつかさどり,薬殿は薬を供進し,仕所・召次所は仕丁を進退して雑役に従事し,御服所は装束を,細工所は車その他雑具を調進し,御厨子所・進物所は進膳の事をつかさどった。…
…鎌倉幕府が北条氏の家宰を〈内(うち)管領〉と称したことなどが用例の始まりで,室町幕府に入っては鎮西探題を鎮西管領と称し,四国管領,中国管領など,広域行政権の管轄者をも管領と称するようになった。このような管領の語が,将軍家の家宰である執事を指す用語に専用されるに至ったのは南北朝後半期のことである。室町幕府の執事は将軍を補佐する幕府内最高の官職で侍所・政所・問注所などの諸機関を統轄し,将軍家御教書(みぎようしよ)の奉者として文書行政を一手に管掌したが,観応の擾乱以前は将軍足利尊氏の弟,直義の権限が強大で,執事高師直の実権は圧縮されていた。…
※「執事」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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