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上毛野穎人 かみつけのの かいひと

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

上毛野穎人 かみつけのの-かいひと

766-821 平安時代前期の官吏。
天平神護(てんぴょうじんご)2年生まれ。上毛野大川(おおかわ)の子。延暦(えんりゃく)23年遣唐録事(ろくじ)として唐(中国)にわたる。帰国後,平城上皇につかえ,大同5年(810)薬子(くすこ)の変のとき,上皇側の情報をいちはやく朝廷に知らせ,賞された。のち大伴親王(淳和(じゅんな)天皇)の東宮学士をつとめる。「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」の編集にかかわった。弘仁12年8月18日死去。56歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

上毛野穎人

生年:生没年不詳
平安初期の官人。父は大川。上毛野氏は東国に勢力を持った豪族であるが,穎人は中央で活躍した実務官僚。延暦20(801)年藤原葛野麻呂を大使とする遣唐使に録事として加わり渡唐したことが同行の最澄の記録から知られる。ときに正六位上左少史兼常陸少目であった。4年後に帰国,この年,朝廷から清水寺へ寺地を寄進したことを伝える太政官符に署名がある。弘仁1(810)年に藤原薬子の変が起きたとき,平城京にあって,この事態を逸早く平安京にいる嵯峨天皇側に知らせている。この功で度者(剃髪出家することを許された者)ひとりと山城国(京都府)乙訓郡の土地1町を賜った。朧谷寿上毛野 竹葉瀬かみつけぬのたかはせ生没年不詳 仁徳天皇53年に新羅に遣わされた武将。『日本書紀』によれば,この年新羅が朝貢しなかったので,天皇は竹葉瀬を遣わしてその理由を問わせようとした。しかし,道の途中で白鹿を獲たので帰ってこれを天皇に献上し,日を改めて出発した。ついで竹葉瀬は弟の田道を新羅に派遣したが,田道は捕虜にした新羅の軍卒から新羅軍の勇士が右方の前鋒におり,左方が弱いとの情報を得て精鋭の騎兵を連ねて左方を撃って勝利をおさめ,四邑の人民を捕えて帰った。『新撰姓氏録』では,百済に使して王仁を招いて連れ帰った荒田別の子とされている。

(吉沢敬)

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