ターヒル朝(読み)たーひるちょう(英語表記)Tāhir

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ターヒル朝」の意味・わかりやすい解説

ターヒル朝
たーひるちょう
Tāhir

最初のペルシア系イスラム王朝(821~873)。始祖ターヒルの祖父はアッバース革命に参加。ターヒルもアッバース朝カリフマームーンに仕えて功績をあげ、バグダードジャジーラ総督となり、ついでホラサーンの総督に任ぜられた。821年には金曜日の礼拝においてカリフの名を唱えるのをやめ、事実上独立した。カリフもターヒル家の実力を認め、2代目のタルハをも引き続き総督に任命せざるをえず、ターヒル朝の側も毎年トルコ人奴隷を朝貢品として供出し、一族からはバグダードの警察長官を務める者も続いて出た。スンニー派イスラムを信奉し、ホラサーンのハワーリジュ派、タバリスターンのシーア派と対立した。宮廷公用語はアラビア語で、学者、文人を優遇した。当初シースターンをも統治していたが、サッファール朝の出現で同地を失い、最後は首都ネイシャーブールをも奪われて滅亡した。

[清水宏祐]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ターヒル朝」の意味・わかりやすい解説

ターヒル朝
ターヒルちょう
Ṭāhirids; Ṭāhiriyān; Ṭāhirīyah

イランのホラーサーン地方を支配した王朝 (821~872) 。アッバース朝に仕えていたイラン系軍人ターヒルは,第7代カリフ,マームーンの将としてその即位に功あり,821年ホラーサーン太守に任じられた (在位 821~822) 。その子孫は以後約半世紀にわたり,事実上独立王朝としてホラーサーン地方の支配を維持した。しかし,表面上はあくまでもカリフの権威を認めて,積極的に外部へ領土を拡張することなく,みずからの統治領域の保全に努めたが,872年シースターンに興ったサッファール朝によって滅ぼされた。ターヒル朝の出現は,それ以後のイラン民族による政治権力回復の動きの端緒となり,その治下には近世ペルシア文学の萌芽が見受けられる。

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