日本歴史地名大系 「上瓦林村」の解説 上瓦林村かみかわらばやしむら 兵庫県:西宮市上瓦林村[現在地名]西宮市瓦林町・大屋町(おおやちよう)・田代町(たしろちよう)・高松町(たかまつちよう)・北口町(きたぐちちよう)・長田町(ながたちよう)・大森町(おおもりちよう)・荒木町(あらきちよう)・上之町(かみのまち)・日野町(ひのちよう)・松山町(まつやまちよう)・松並町(まつなみちよう)・熊野町(くまのちよう)・甲子園口北町(こうしえんぐちきたまち)・二見町(ふたみちよう)・天道町(てんどうちよう)・中島町(なかじまちよう)・甲子園口五―六丁目・上甲子園(かみこうしえん)三丁目瓦林村の北にある武庫(むこ)郡の村。村域東端を武庫川が南流する。領主の変遷は下瓦林村と同じ。元禄一一年(一六九八)の瓦林村の呼称につき返答書(岡本家文書)に「古来は三ケ村高一所にて不残瓦林之郷ニて御座候」「大坂御時代ニハ両瓦林村高一所ニて、御帳面一本ニ御座候」とあるように、のちの瓦林三ヵ村(瓦林村・上瓦林村・下瓦林村)は古くは一括して高付されていた。慶長国絵図はこの地域の北側を「小林村」、南側を「万堂村」とするものの、高は一括して一千二三三石余としている。慶長一五年(一六一〇)に御代(みよ)村(瓦林村)が分離するが、上瓦林村と下瓦林村は元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では「尾(瓦)林村」一村として扱われ、寛永一二年(一六三五)まで尼崎藩主であった戸田氏の知行目録(大垣藩地方雑記)にも「瓦林村上下之内」として高七六四石余が書上げられている。しかし慶長一六年の上瓦林村検知帳(岡本家文書)があり、村内日野神社の寛永元年の棟札に上・下両瓦林村の庄屋名がみえることから、実質的には早くに分村していたようである。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by