日本歴史地名大系 「西宮市」の解説 西宮市にしのみやし 面積:九九・七二平方キロ(境界未定)県南東部に位置。東は尼崎市・伊丹市・宝塚市、北は神戸市北区、西は芦屋市・神戸市北区に接し、南は大阪湾に面する。市域は南北に長く、中央部を貫く六甲(ろつこう)山地の南側の表六甲(おもてろつこう)地方と、北側の裏六甲(うらろつこう)地方に区分される。表六甲地方は平野部・台地部・丘陵部からなり、平野部は武庫(むこ)川・夙(しゆく)川などの扇状地で、その北に武庫川支流仁(に)川の古扇状地である上(うえ)ヶ原(はら)台地や、夙川上流沿岸の段丘地からなる台地部がある。台地部の北は丘陵地帯で、東端に甲(かぶと)山(三〇九・四メートル)がある。六甲山地により隔てられた裏六甲地方は標高四〇〇―五〇〇メートルの山間に位置し、武庫川支流名塩(なじお)川沿いの狭長な河谷や、有馬(ありま)川中流域の小平地からなる。表六甲地方では昔は台地部の南麓に多くの湧水があって、越水(こしみず)(小清水)などの地名が残り、扇状地の扇端部には酒造に最適とされる有名な宮水(みやみず)地帯がある。市名は戎信仰で全国的にも知られる西宮神社門前町を中心に市が形成されたことによる。〔原始〕旧石器時代・縄文時代の遺跡は明らかでない。弥生時代前期になって、丘陵縁辺部に甲風園(こうふうえん)遺跡・越水山(こしみずやま)遺跡が出現する。中期後半には、丘陵東麓部に仁川高台(にがわたかだい)遺跡・仁川五(にがわご)ヶ山(やま)遺跡などが営まれる。後期になると西宮神社社頭(にしのみやじんじやしやとう)遺跡や甲子園口(こうしえんぐち)遺跡などが旧汀線上に進出する。また甲山山頂から銅戈、津門稲荷(つといなり)町から扁平鈕式六区袈裟襷文銅鐸が出土している。古墳の分布も東麓部の仁川古墳群・上ヶ原古墳群、夙川西岸に立地する八十塚(やそづか)古墳群などの後期の群集墳がある。早くに消滅したが、後期の前方後円墳と伝える上(うえ)ヶ原車(はらくるま)塚や津門稲荷山(つといなりやま)古墳がある。なお現存する横穴式石室では、具足(ぐそく)塚が最も大規模である。六甲山地北麓では遺跡の分布は少なく、青石(あおいし)古墳の調査が行われている程度である。〔古代〕「梁塵秘抄」に「広田より戸田へ渡る船もがな」と詠まれているように、当市の平野部は平安時代においてもなお広田(ひろた)神社付近まで大沼沢であったと考えられる。広田神社は神功皇后が葉山媛をして「広田国」(「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条)に祀らせたという天照大神の荒魂の鎮座する古社で、当市前面の海浜は広田社の御前(おまえ)の浜とよばれた。また阿知使主が応神天皇の命で呉国から招来した織工女らが武庫に上陸した際(「日本書紀」応神天皇三七年条・四一年条)、現JR西ノ宮駅南にある松原(まつばら)天神の松に船を係留したという伝承が残っており、海岸線は現在よりも深く入り込んで沿岸には津門などの港津があったと推定される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西宮市」の意味・わかりやすい解説 西宮〔市〕にしのみや 兵庫県南東部,大阪湾に臨む中核市。六甲山地東部から武庫平野西部にかけて広がる。 1925年市制。以後周辺の町村を編入して市域を拡大。中心市街地の西宮は西国街道と中国街道の交点にあたる交通の要地で,宿場町,市 (いち) の神である西宮神社の門前町として古くから知られ,天保 11 (1840) 年宮水が発見されたのを契機に,清酒醸造の灘五郷の中心地となった。大阪と神戸の二大都市間に位置し,自然環境と交通の便に恵まれたことから,大正末期から昭和初期にかけて香櫨 (こうろ) 園,甲子園,苦楽園,甲陽園などの高級住宅地が相次いで誕生。第2次世界大戦後は臨海埋立地,新市域の塩瀬,山口など六甲山地北斜面に住宅地化が進み,文教住宅都市として発展。伝統工業の酒醸造のほか寒天,竹籠,和紙など地場産業も多い。阪神甲子園球場,阪神パークをはじめ観光レクリエーション地にも恵まれ,蓬莱峡,甲山,武田尾温泉などがある。西宮神社は「西宮の戎 (えびす) さん」として親しまれる古社。 1866年に勝海舟が築いた西宮砲台 (国指定史跡) がある。中央部の六甲地区は,瀬戸内海国立公園に属する。 1995年の兵庫県南部地震では甚大な被害を被った。面積 99.96km2(境界未定)。人口 48万5587(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by