日本歴史地名大系 「上篠崎村」の解説 上篠崎村かみしのざきむら 東京都:江戸川区上篠崎村[現在地名]江戸川区上篠崎一―三丁目・西篠崎(にししのざき)一―二丁目・北篠崎(きたしのざき)一―二丁目・南小岩(みなみこいわ)二丁目・鹿骨(ししぼね)三丁目江戸川右岸、笹ヶ崎(ささがさき)村の南に位置し、西は鹿骨(ししぼね)村、南は下篠崎村、東は江戸川を隔て下総国葛飾郡市川新田・平田(ひらた)村(現千葉県市川市)。中世は葛西(かさい)御厨のうち。永和三年(一三七七)三月一七日の希朝売券および寄進状(ともに中山法華経寺古文書)に篠崎郷内上村がみえ、希朝が郷内の田地・屋敷を中山法華堂(現千葉県市川市の中山法華経寺)に売渡し、同時に寄進している。篠崎郷は上・下に分れていたことが知られる。応永四年(一三九七)一二月二三日、鎌倉公方足利氏満が篠崎郷内の田畠在家を八幡(やわた)庄法花(ほつけ)寺(現中山法華経寺)別当の日暹に安堵するよう幕府管領斯波義将に推挙している(「足利氏満挙状」中山法華経寺古文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報