下堰
しもせぎ
犀川の小田切ダム西方左岸を取入口として、川中島平中央部を灌漑して千曲川に注いでいる用水路。
慶長八年(一六〇三)松代城代花井遠江守吉成は水路開削を奨励。これに対し戸部村(現長野市川中島)又治郎が堰筋百姓総代として応じた。当時の犀川筋は本流の高瀬と支流の御幣瀬・原瀬・中瀬の三本があって、中瀬は四ッ屋村(現長野市川中島)裏より分れ、途中で東に支流(四瀬という。のち鯨沢という)を分流し、川中島平の中央を南流して赤坂付近で千曲川に注いでいた。工事は一千七三〇人の人夫が動員され(町田文書)、城代花井氏の指揮によって進められ、慶長一六年に完成した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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